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宗教二世としての悩みの記録②

世俗的なことは全て悪とされてきた。テレビ、音楽、ファッション、エンターテイメント等。内容にもよるが、世俗的なことは悪、サタンだと言われて育ってきた。そんな私はそれを当たり前のように信じて生きてきた。周りとは違うなと感じることがあっても、そんなふうに世俗的なことを否定、批判されるような教育を受け続けた私はもうそれを正しいと信じるしかなかったのだ。そこに自分の意見など考えなど一ミリもなかった。

特に恋愛や異性関係に関することは厳しく制限された。家庭にもよると思うが、私の家庭ではそんなに厳しくは制限されていなかった。ただ当たり前だけど、恋愛に関する話題は親の前ではタブーというか話さない話せない空気を子供ながらに感じ取っていた。特に私の場合は、親にどうこう言われたという記憶より、教会に行って教育された内容に影響されている部分がかなり大きい。恋愛の歌を聴くこと、恋愛ドラマを見ること、ジャニーズとかそういう芸能人の男性を好きになること、とか本当にいろいろだけど。なんかダメっていわれたことが多すぎた。

それで、高校1年生からもう私は教会に行っていない。宗教活動もしていない。もう信仰はない。なのに、その時に言われた内容がいまだに頭の片隅に残っているのだ。それはかなり無意識的なものが多いのだと感じる。例えば、おしゃれしたい、可愛くなりたいと思うことがダメだと思っていた。それはなぜかというと、おしゃれをする、可愛い格好をするというのは男性に好かれるため、男性を意識させるためのものと教えられたことが頭から離れなかったからだと思う。世の中の人は、男に好かれるためにおしゃれをしているのかと思ってしまっていた。今ならわかる。そうじゃないって。おしゃれをする理由はもちろん人それぞれだけど、男性に好かれるためだけじゃないってことがね。

でもここで思うのは、私の基本的な考え、思考の奥底には必ず宗教での考えが眠っているということ。そんな気がしている。これは自分でも気づくことができていない部分もまだ多いと思う。宗教以外の友達、様々な人と話すようになってやっとわかった。これが洗脳というかそういうものなのかと考えてしまう。その組織(宗教)に属している時って全然疑わないし、自分が洗脳されているなんてみじんも感じない。なのに、離れてみるとあれ?自分ってもしかして洗脳されていたのだろうか、搾取されていた、支配されていたんだろうかと感じることがあまりにも多い。人のいいなりになってあやつり人形になって自分の思考考え意見がなくなる。奪われる。なんて悲しい、悔しいことなんだって思う。それに気づけない、気づかないふりをして生きることもできた。でも、私はこれでいいんだろうか、ただ親が信仰しているからというただそれだけの理由でこの宗教に縛られ宗教に属して生きる意味とは?そんな意味あるのか?そんなことを考えるようになった。

不謹慎ではあるが、もし、もし、親が亡くなった時、親の言う通りに生きたことを私は後悔しないだろうかと考えた。親に好かれるために、裏切らないようにと選択したことを後悔しないだろうかと。そう考えると、なんでもかんでも親の望む通りに生きることはしなくていいんだと思った。親が亡くなってあれ私の人生ってなんだったんだろう?って思うより、親が亡くなるときに私は私なりの幸せを見つけて生きている方がよくない?と思った。もう親、宗教のせいにしたくない。だから、今の私は何にも縛られず、自分の信じた道をいきたいんだ。自分の価値観でいい。自分が好き、いいって思うことを信じて、生きていかないと心がすさんでいく。それはもう人それぞれ生きてきた環境が違うからそれがぴったり同じ人なんていないんだ。親だからといって子供と必ず分かり合えるわけではない。生きてきた環境がお互いに違うので分かり合えないことがあって当然。そう思わないと苦しいね。苦しいからそう思うんじゃなくて本当に今はそんな風に思う。(思えない時ももちろんある、家族だから近くにいるからこそ分かってもらえないのはもちろんつらいけどね。)そう思う努力を今してるところかな。

誰かのために生きるのではなく、まず自分の人生を自分のために生きる。それが大切。そう思う。誰かの期待通りに生きるのはしんどいよ。これは宗教だけじゃなくて、いろんなものに縛られなくていいと思う。人の価値観に左右されなくていい。人は人、あなたはあなた。誰とも違う。ありきたりだけど、やっぱりみんな違ってみんないいんだと思う。

第二回もこんな感じでおわり。宗教二世としての悩み、思いは書きたいことがありすぎて本当にシリーズにしたらどれくらい書くことになるんだろうと思うけど、書ける限りたくさん書いていきたい。ではまた!

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