力仕事をしなくていい性別を、ラッキーだなんて思えない。


女子は良いよな、なんて言われたり。
俺だって貧弱なのに、なんて嘲笑されたり。
性別を理由に傍観する立場に置かれたにも関わらず、それを配置した本人に指を差される事がある。
その度に「私にもやらせて」と言っても、それが叶う事はほとんど無い。
笑うくせに。羨むくせに。

所謂レディファーストのつもりだろうか、時々『気遣い』を履き違えた人と関わる事がある。重い物は運ばせない、荷物は代わりに持つ、汚れる仕事はやらせないetc...もちろん力が無いのは事実だけど、出来ないわけじゃない。それなのにやらせてもらえない事が、どれだけ惨めな事か。

入社当時の同期は10人ちょっとで、私以外は全員男性だった。
そのせいか力仕事はほとんどやらせてもらえず、荷物の整頓でさえ私は座って見ているよう促されていた。重いから、と遮る言葉を無視して持ったそれは普通に持てる重さで、時間こそかかるものの誰かが2往復する間に1往復するくらいは簡単に出来る。誰かの1往復を私は担える。それなのに、出来ないわけじゃないその作業を最初からやらせてもらえなかった事が悔しかった。
もちろん力不足や劣った能力によりできない事・危険が伴う程の事だったら、任せるのが懸命な判断であると思う。それはもう性別ではなく得意・不得意の都合。でもそうでない場合は、私が受けたのは『気遣い』ではなくて『排除』だ。

きっと世の中にはそう感じない女性も多くいるから、一概に「こうしてくれ」と呼びかけることなんて私には出来ないけれど。

どうして自身がここまでジェンダーバイアスに敏感なのか考えたとき、長年の音楽経験が思い浮かんだ。楽団はまだしも中高の吹奏楽部なんていうのは8割が女子で構成されており(中学時代は3年間10割!)、その小さな社会では重い物を運ぶのは常に自分自身だ。女性らしさというのを押し付けられることもないし、そもそも音楽において性別はメリットにもデメリットにもなり得ない。そうした環境から一歩外に踏み出したときに、そこのジェンダーバイアスとのギャップに思わず居心地の悪さを感じる。まぁこれは部活動における先輩・後輩にもいえる事で、『後輩だから進んで動く』『先輩だから待ってるだけで良い』の居心地の悪さに、当時も先輩になって初めて気が付いた。

話は冒頭に戻るが、性別を理由に食らった『排除』を羨まれることも偶にある。不思議なものでそれを行ったのは男性なのに、別の男性から羨望の眼差しを受けるのだ。自分たちで『女性に力仕事をさせない(=力仕事は男性のやる事)』というジェンダーバイアスをガチガチに固めておきながら、その枠に収まらなくて良い女性を「ズルい」「羨ましい」と表現する。なんか、ちょっとズレてる気がするのは私だけだろうか。

女の敵は女なんて言うけれど、逆も然り。男も女も結局自分たちが一番『こうしないといけない』バイアスを作り上げて、それに縛られているように感じる。その『こうしないといけない』枠に入れず同性より排除された人間は、自身より力の無い人間を排除することでしか己を確立できない。男なら女を、女なら自身より"下"と見極めた女を。男尊女卑の根本にホモソーシャルが問題定義されるのは、つまりそういうこと。

少なくとも私は、持てるものは自分で持ちたい。出来る事は一緒にやりたい。そう願う事が『出しゃばり』だと揶揄されない社会になって欲しいけれど、それにはまだまだ時間がかかりそうなのが事実。……逆に自分が、性別を理由に進んでやろうとしていないか?性別を言い訳に甘えていないか?時々振り返ってみるのが、そういう社会への一番の近道かもしれない。

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