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親は子どもが第一ではない

親今日の写真はパンダ。2014年10月29日に撮影したものです。

親は子どもの事を第二、第三と順位をつけてはいないのです。
私は子どもの事を自分以上に大切に思っています。
順位などつけていないのです。

子どもからみた親は頼りなくて、自分が面倒をみないと生きていけないと思っているようですが、それは間違いです。

夫婦のことは他人と比較はしません。妻と子ども、どちらが大事などと比較する事はできません。仕事とあなた、どちらが大事と同じく比較するものではありません。困った人が目の前に現れて助けることができたならば助けるだけです。たとえ助けることができなかったとしても悔やむことのないように行動するだけです。

子どものいない人に子どもの事はわからないと言いますが、子どもがいても同じくわからないのです。親らしくと思われても子どもが描く親と同じでは無いのです。妻も子どもも他人です。

他人とは自分以外の人の事を言います。妻も子どもも兄弟も他人です。

夫らしく親らしく兄らしく弟らしくと立場の違う人が描く人にはなれないのです。

夫でなければ、親でなければ、兄でなければ、弟でなければと思った時に気にならない人ならば自分の頭に描いた「らしく」と描いた人と違っているだけです。

自分の思い通りに自分がならないのに他人が自分の思い通りになるはずがありません。

自分の事を知り、他人の事を知って自分の思い通りになっていないだけだと気づけば良いのです。

自分の事を知るだけで人生の大半が過ぎるのです。他人の事を知る事は一生できないでしょう。

親は子どもの事を全部知っていると勘違いすることから食い違いが始まるのだと知るべきです。知る事も必要ですがそれは無理な事です。

知らなくても信用できる関係になれば良いのです。

私は妻も子どもも、信用して信頼しています。と言うより「信用と信頼」の言葉は頭の片隅にもありません。困ったならば助ける。困らなければ黙って見ているだけです。

親子喧嘩も対話です。

対話がなければ困っていても伝わらないのです。親のできる事は子どもが悩んでいたらヒントを与えることだけです。

悩みは自分で解決するしか無いのです。助言を求める事も解決方法の一つです。

誰でも困っていたら、助けることができれば助ける。助けることができるように準備しておくのが経験です。

自分の為に子どもを犠牲にする事も子どもの為に自分を犠牲にする事もありません。親の為に自分を犠牲にする事も自分の為に親を犠牲にする事もありません。

犠牲の対義語は我儘(わがまま)です。

自分の我儘で自分が犠牲になるのは献身です。
自分の我儘で他人が犠牲になるのは自分勝手です。
他人の我慢で他人が犠牲になるのは他人事です。

献身的に見せかけた自分勝手な話は他人事なのです。

親の経験は子どもの年齢と同じです。
子どもの年齢以上はできないのです。
親も子どもも今が初めての経験です。

親も子どもも親子の経験は同じです。

経験しなけりゃわからない。経験してもわからない。

答えのない問いかけに一生懸命答えているから正解も間違いも無いのです。

正解も間違いも無いのです。あるのは結果としての事実だけなのです。
事実から次の事実に繋がるだけです。