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大島渚マラソン♯05「飼育」(1961)丸く収めりゃOK!元祖怖い村、閉鎖社会の闇【ネタバレ映画感想】

これぞ、元祖こわい村映画

デビューから二年目の1960年、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」といきなり濃厚な三連発をぶち上げた大島監督ですが、「日本の夜と霧」上映打ち切り問題で衝突して松竹から退社、翌1961年にパレスフィルムプロダクションで製作されたのがこの「飼育」です。「大宝」という聞きなれない配給会社のマークで始まりますが、これは倒産した「新東宝」の分社化で作られ6本の配給で消えた幻の会社だったのですね。冒頭の「映画界の新しい魅力」という惹句が切ないです。

今回は初めてオリジナル脚本ではなく脚色もの。原作は新進気鋭の人気作家大江健三郎、1958年の芥川賞受賞作「飼育」。脚本はこれまで大島監督と石堂淑朗の共同執筆でしたが、今回は松竹ヌーヴェルヴァーグ仲間の田村孟。石堂は脚本協力(松本俊夫、東松照明と共に)となっていますが、俳優として凄まじい怪演を見せドン引き必至の大暴れをしています。

地方村の本家と分家周辺だけという小さな舞台に、じめっとした人間の闇と閉鎖的な村社会の恐怖を、20代の大島監督の溢れる情熱と狂気で描いた凄まじい作品です。モノクロフィルムの質感と、真鍋理一郎のホラーな音楽が何とも後ろ暗い日本人の業を感じさせ、汚い微生物の顕微鏡映像のタイトルバック(デザイン粟津潔)からして、「これからスゲエ恐ろしいもん見せてやる」って気迫が伝わってきます。

閉鎖村社会の素敵な面々

大江健三郎の原作は、戦争末期、地方の村に落下傘降下した米軍黒人捕虜と彼の世話をする子供たちとの交流を通じて、主人公の少年が社会の闇と不条理に触れて大人になるという、瑞々しい(毒あり)通過儀礼物語でした。大島映画版では、黒人捕虜を村で「飼育」するという設定以外はほとんどオリジナルで、豊富な食料と資産で村を支配する本家と、本家を憎みながらも従うことで安定する分家たち、彼ら大人たちが構成するグロテスクな閉鎖社会がメインとなっています。

モヒカンにチョビ髭というかなり攻めたスタイルの三國連太郎演じる本家の家長一正の元に、東京から疎開してきた姪の幹子(大島瑛子=渚監督の実妹)がさわやかに登場しますが、そこへ猪罠を足にかませた黒人兵(ヒュー・ハワード)が捕獲されてくるのを見て突然嘔吐するという、あんまりなオープニングで始まります。さらに病気で床に伏せっている一正の妻(沢村貞子)からも「ここは地獄だ、早く出てった方がいい」と言われ、悪い予感しかありません。

「黒人兵を捕虜として世話をすれば中央から表彰され金一封もあるぞ」と、義足の傷痍軍人、役所の書記(戸浦六宏)の言葉によって、村民持ち回りで黒人兵の食事を世話する決まりになるですが、分家たちは「結局本家の手柄になるだけ」と不満たらたら。しかし、子供たちにとって「くろんぼ」は魅力的な家畜であって、分家の息子八郎(入住寿男)を中心に積極的に黒人兵の世話を買って出て、黒人兵も子供たちに心を開いていくのでした。

黒人兵が罠を外されて子供たちと散歩に出かけ、田んぼで顔に泥をつけた子供たちに大笑い、といったやさしい牧歌的シーンもある一方、大人たちの世界はドロドロのグロテスクです。

本家の家長一正は戦争に行った長男の嫁久子(中村雅子)に手を出したり、疎開してきた貧しい子連れの人妻弘子(小山明子)を食料をエサに押し倒したりとやりたい放題。三國連太郎の権力にモノを言わせた小悪党ぶりが本当に見事で、追い込まれた時のグジグジ言い訳する姿もまた素晴らしく憎々しいです。

ほかにも、傷痍軍人であるがゆえに役人となり権力をチラつかせる書記(戸浦六宏)、本家から酒をせびっては愚痴ばかりの廃人となった分家の伝松(山茶花究)、嫁に夫を奪われ呪詛の塊となった本家の本妻かつ(沢村貞子)、その奥様の下着洗いが生きがいの番頭(浜村純)などなど、みなエネルギッシュな熱演で重苦しい閉鎖社会を盛り上げていてゾクゾク度満点です。

ワンカットで描く目の離せない緊張感

そんななか、八郎の兄次郎(石堂淑朗)に徴収令状が来て出征の宴を開いているさなかに、当の次郎が失踪。子供たちはこっくりさんに聞いて次郎失踪の原因を「くろんぼ」と限定。しかし八郎は、兄の失踪はあの夜に会っていた幹子にそそのかされたのが理由だ推測し、それを口にしたため本家から村八分に。それでも黒人兵の世話を続けた八郎は子供からも大人からも迫害を受けることになり、さらに黒人兵に村で起こるすべての災厄の原因を背負わせ追い詰めていくことで大惨事へと向かっていきます‥‥。

これまで執筆してきた脚本からインテリっぽいイメージだった石堂淑朗が、無知で野蛮なリビドー青年次郎をハラハラするような狂気をもって演じていることに驚きました。素晴らしい大暴れです。

演出で印象的だったのは、前作「日本の夜と霧」で多用された長廻しをさらに効果的に使っていること。横長ワイドスクリーンで場を広く見せながら、左右から登場する人々の動きを同時に描き、カットを割らずに出来事を展開させていくことで、ヒリヒリ緊張した場の空気を共有することに成功しています。人の動くリズムや立ち位置の構図がよく計算されていて、演技のダイナミズムを感じさせるシーンが印象的です。

また、ここぞというときにアップを多用した激しく細かいカットが入ってくるんですよね。重苦しい話ですが、情報量も多く展開も次々転がるので冗長な感じはせず、ハッとする美しい構図と目の離せない緊張感で最後まで引っ張ってくれました。

丸く収めることが何より大事

そしてすべての元凶を背負せて「黒んぼ」は殺されますが、その埋葬の適当さが恐ろしいんですよね。いちおう国のために死んだんだからと「天皇陛下万歳」をおざなりに唱えるのもゾクゾクします。

そこに終戦の知らせが来て大人たちが呆然としているなか、今度は幹子を先頭に、見ていた子供たちが怒りを込めて棺に土を投げつけ始めます。適当な言い訳ばかりの大人たちよりも、敗戦への怒りをアメリカ兵にぶつける子供たちの誠実さにハッとさせられます。棺を真上からとらえて、土をかけるたくさんの手がひらひらするという不気味で美しいカットも印象深いです。

結局「村で黒んぼなんて見なかった」という口裏合わせで手打ちの宴会となりますが、なんとこの本家の広間が怒涛のクライマックスなのです。手打ちの合議から、逃亡中の次郎の帰宅、そして進駐軍への言い訳用の次郎再逃亡の策略から、策略に気づいた次郎大暴れの果て自爆死。ここまで、メインキャストほぼ全員が集まるひと部屋での出来事を、ワンカットの固定画面で見せ切るという凄まじい演出、若き大島監督の挑戦的な表現に驚かされます。

この宴会のさなか、大人たちが保身ため自分勝手な言い訳を重ねていくなかで、少女と大人の中間である幹子がひとり批判的な言葉をつぶやきながら無理に酒を飲み、あげく暴力的なカオスの真ん中で嘔吐(冒頭を受けて二度目)。こういう大人の醜さに対して純粋な良心の抗議があることに、ちょっとホッとしたりしました。

次郎の死体に火がつけられ、進駐軍用の言い訳として「黒んぼを殺した次郎が姿を消した」という新しいシナリオでみんなが結束。「丸くおさめることが何より大事」と、火を囲んだ大人たちは戦争中自粛していた祭りの打ち合わせを楽しそうに始めます。そんな大人たちを、石段に座って見下ろしている子供たちの死んだような目がなんともやるせない

大島渚監督作品って反人間的な権力に対する怒りを描いたもの、というぼんやりしたイメージをもっていました。しかしここまで5本観てきて思ったことは、そんな単純な権力批判ではなく、そういう権力的なシステムを必要としてそこに依存する人々に対する怒りとイラ立ち、そこから自立しようとして孤立(自滅)していく哀しみ、そういう人間の業そのものを描いた作品のような気がしてきました。とにかくエネルギッシュな演出、意図を明確に表したハッとする画面構成など、60年前にこんな才能豊かな映像表現があったことがなんとも楽しいですね。

子供たちと並んで、八郎は兄次郎が燃やされている火をじっと見ている。浮かれた大人たちが祭りの踊りを始めたなか、ふと向こうの山を見ると対になるようにもう一つの火が燃えている。怒りの火なのか、絶望の火なのか、長く美しいラストカットがいろいろな感情を揺さぶり余韻を残します。

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