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『独裁者たちのとき』梶山祐治さんトークイベントレポート 2023年5月13日(土) 渋谷ユーロスペース

「ポスト権力4部作」としての『独裁者たちのとき』

 今日は「アレクサンドル・ソクーロフとロシア映画の現在」という題で、お話しします。最初にソクーロフという映画作家を簡単に紹介してから、『独裁者たちのとき』の話、そしてまさに今、ロシアで映画はどうなっているのか、といった話につなげていきたいと思います。
 ソクーロフはシベリアのイルクーツクに1951年に生まれました。モスクワの大学を卒業した後、映画大学で勉強し直しました。1978年に卒業制作として撮った『孤独な声』がアンドレイ・タルコフスキーに高く評価され、ソクーロフはサンクト・ペテルブルク(以下、ペテルブルク)のレンフィルムというスタジオに就職を推薦されることになります。もっとも、ソ連時代の規範ではきわめて審美的な内容をもったこの映画は、ペレストロイカ期の1987年まで公開されることを許されませんでした。
 ここで、ソクーロフが生活の拠点を置くことになったペテルブルクにある映画スタジオ、レンフィルムにも注意を払っておきます。ロシアにはソ連時代から大小さまざまな映画スタジオがありましたが、もっとも大きく、長い歴史を有するのが、モスクワのモスフィルムとペテルブルクのレンフィルムという二大スタジオになります。このふたつのスタジオの性格には、はっきりとした違いがあります。モスフィルムはクレムリンに近いところに存在するため、自然と権力に近づくことになります。
 タルコフスキーもモスフィルムで撮っているので例外はあるのですが、それでもレンフィルムと比べると分かりやすいように、権力に近いところにいる監督が集まる傾向があります。例えば、先日の公開記念監督インタビューでも「プーチンを撮るならミハルコフが適任だ」というソクーロフの言葉があった、ニキータ・ミハルコフを代表的な監督に挙げられます。
 それに比べると、ペテルブルクのレンフィルムは純粋に芸術志向で、アレクセイ・ゲルマンやキラ・ムラートワなどの監督がこのスタジオで映画を撮っていました。そういった権力とは距離を置いたスタジオに、ソクーロフも名を連ねているわけです。ソ連解体以降のロシア映画は独立スタジオでの製作が目立つようになります。『独裁者たちのとき』もレンフィルムの製作ではありませんが、モスクワとは一線を画したペテルブルクの系譜に連なる作品になっています。
 アレクサンドル・ソクーロフ監督の作品は非常に数が多く、劇映画とドキュメンタリー双方のジャンルで膨大な作品を撮っています。『独裁者たちのとき』との関連で紹介したいのは、『モレク神』『牡牛座 レーニンの肖像』『太陽』『ファウスト』の4作品です。これらは、それぞれヒトラー、レーニン、昭和天皇、そしてゲーテ「ファウスト」に出てくるメフィストフェレス、四者の権力を問題にし、権力4部作と言われています。ソクーロフにはこの4作品以外にも権力者や権力を描いた作品があり、むしろその主題は彼のフィルモグラフィにおいて常に重要な地位を占めていたと言えるわけですが、映画制作の大きな流れとしてこうした4作品があったわけです。『独裁者たちのとき』は権力者の分身を同時に出現させて互いに罵り合わせる、これまでよりも戯画化の徹底した手法を採用した、ポスト権力4部作とも呼べる作品になっています。

『独裁者たちのとき』と<おとぎ話>

 『独裁者たちのとき』についての解説はパンフレットにも寄稿していますので、ぜひそちらもご覧ください。今日は上映後トークということで、パンフレットでは詳しく触れなかったラストシーンを取り上げてみます。ラストシーンは、スターリンがスクリーンの奥へと去っていく場面でした。スターリンが去っていくときに、ちょうどロシア語で「Прощайте」という、日本語で「さようなら」「ごきげんよう」を意味する別れの挨拶が聞こえます。これは、アンデルセンの「オーレ・ルゲイエ」という、眠りの精についての童話を読み上げた、1976年録音の朗読レコードなんです。話の最後で語り手が聞き手の子どもたちに告げる別れが、独裁者が退場していく場面に重ねられているという、面白い演出になっています。

1976年録音の朗読レコード

 海外アニメーションが好きな方なら、同じくアンデルセンの童話を原作とした、レフ・アタマーノフ監督の『雪の女王』(1957)というソ連アニメ作品をご存じかもしれません。宮崎駿監督が激賞した作品としても知られているので、その文脈でご存じの方もいるでしょう。この『雪の女王』の本編が始まる前のエピローグにも、映画の露払いとしてオーレ・ルゲイエが出てきます。オーレ・ルゲイエは子供が眠るとその枕元に現れ、良い子の頭上にはカラフルな傘を広げて良い夢を見させ、悪い子の頭上には黒い傘を広げて、何も見させません。『独裁者たちのとき』の原題は、ロシア語で「おとぎ話(Сказка)」と言います。このタイトルは、オーレ・ルゲイエの持つ夢を見せる力とも呼応しているわけです。

『雪の女王』(1957年/レフ・アタマーノフ監督)

 このレコードには複数のエピソードが収められていて、話と話の間には間奏曲が流れます。『独裁者たちのとき』はエンドロールに入ると、今度は同じレコードから音楽が流れ始めます。ここで流れている歌を訳してみると、次のようになります:「傘を閉じるけど もう夢もおとぎ話もおしまい/眠れる大地の上に 震える夜明けが光り輝く/ぼくの赤い帽子を被った 夜のお話も終わりを迎え 友たちの歌が聞こえるのもこれが最後/花畑で花が眠り 鳥たちも巣で眠っている/オーレ・ルコイエ それはきみのこと 古い庭がぼくにささやく」。こうしておとぎ話としての性格がますます強められて、私たち観客の心に、今見たばかりの映画が夢であるかのような余韻を残すわけです。ちなみに、実はこの音楽は途中で2回流れていて、映画の幻想性に寄与しています。ほとんど判別が難しい形での音響演出というのはいかにもソクーロフらしく、彼の緻密な映画制作の姿勢を例証するものです。
 少し裏話をしたいと思います。映画の中で流れる曲については、ミュージカルなどは例外として、通常、映像へ没頭することを妨げかねないので、あまり字幕をつけることはしません。この曲というのは、スクリーンの中に音源のない、いわゆる劇伴音楽のことです。ただし、エンドロールはまた別ですので、私は『独裁者たちのとき』の最後に流れる歌には字幕をつけてもいいんじゃないかと思ったんです。ところが監督側からは、歌に翻訳はつけないでほしいと伝えられ、商業的な映画づくりとは一線を画したソクーロフの厳密な映画への姿勢を改めて認識した、ということがありました。
 もうひとつ余談として、この映画の邦題は「おとぎ話」でなく、『独裁者たちのとき』となっています。映画を配給するというのは興行的側面が大きいので、そのまま訳したのでは埋もれてしまうロシア語の原題を、工夫して訳したりするわけですね。配給のパンドラさんはかつて、ドキュメンタリー映画『精神(こころ)の声』(1995)でソクーロフ作品のプロデューサーも務め、監督とは信頼関係があります。今回のタイトルも、日本で配給するにあたって、ソクーロフ側と相談した上、了承を得てつけられたタイトルであるということを、私の方から強調しておきたいと思います。

スクリーン上での戦勝記念日の表象

 ここから、ロシア映画の現状について、お話していきます。ロシアも日本と同じで4月下旬から5月上旬にかけて、5月9日のナチス・ドイツに打ち勝った戦勝記念日を中心として、ゴールデンウィークのような長い連休が続きます。その時期に合わせて、独ソ戦をテーマにした映画が毎年たくさん公開されます。例としてここに掲げたのは、そのごく一部です。

 左側のふたつは日本でも劇場公開された作品です。『ロシアン・スナイパー』(2015)は、原題を『セヴァストポリの戦い』といって、ロシア黒海艦隊の母港があるセヴァストポリでの激戦を描いた大作です。セヴァストポリはウクライナ領クリミアの中心都市ということもあり、ロシアとウクライナの合作で製作されました。2014年の2月にはウクライナで、ロシアとの決別が決定的になった、ユーロ・マイダン革命(尊厳の革命)が起こっています。この映画は大作なので革命前から製作はしていたと思われますが、その後、個人的な関係は別にして、ロシアとウクライナが国として協力して映画をつくることはなくなっていくので、両国が共同製作したほとんど最後の例となりました。他に日本で劇場公開された作品には、『1941 モスクワ攻防戦80年目の真実』(2020)という作品もあります。日本ではこうした作品には固定層のファンがいて、大規模な公開ではなくても、比較的コンスタントに上映されてきました。ウクライナ侵略戦争が始まって以降、その流れは止まっており、今後も日本ではしばらく見ることが難しい状況が続きそうです。右側のふたつは、日本未公開の最近の作品です。『1941年 ベルリン上空の翼』は去年の作品、『赦し』が今まさに劇場でかかっている作品です。
 こういった作品が、戦勝記念日前後の時期に公開されることで、多くの観客を集めることになります。これは誰の意向だとか誰が指揮しているということではありませんが、製作資金が必要とされるこうした作品が国の予算をもとに製作されるということは、今のロシアではもちろんクレムリンの意思と相反するものではない、ということになります。ロシアでは、特にこうした映画の場合、ひとりで見に行く観客というのは日本以上に少数で、皆、親しい人間を誘って行きます。私もモスクワでこれまで何度か、ロシア人観客に混じってこうした戦争映画を鑑賞しました。その鑑賞体験に特に政治的な意味はなく、大作としてのロシア映画を大画面で楽しんでいる、というのが実情でした。ただし、その盛り上がりは、この時期の国中を覆うナショナリズムの高揚と紙一重のところにあり、注意しないと観客は瞬く間に飲み込まれてしまうでしょう。

いま、ロシアの映画館はどうなっているのか

 ロシアの戦勝記念日と映画については1年ほど前にも書いたことがあり、ここでは最新状況をアップデートしたいと思います。ロシア語で「キノポイスク」[YK2] (日本語で「映画サーチ」の意)という、興行成績を含む、ロシア映画の情報が網羅された便利なサイトがあるので、1位から10位までのリストを見てみます。

 左上のロシア国旗の横に、5月5日から5月7日の週末の興行成績と書いてあります。ほぼ中央の青い欄には、興行収入がドルで表示されています。今どんな作品が劇場でかかっていて、どれだけお客さんが入っているかが一目でわかります。これを見ると、圧倒的な成績で1位になっている作品があります。宇宙で初めて撮影された映画としても話題になった、クリム・シペンコの『挑戦』です。4月20日から公開が始まり、すでに公開3週目ですので前週比だと下降気味ですが、依然大ヒット上映中です。上映時間165分のうち、宇宙空間で撮影された映像が50分ほど使用されている、超大作です。この映画は宇宙で撮影するに際して強引な方法がとられたこともあり、賛否両論あるのですが、やはり注目度は非常に高いことがわかります。宇宙産業はロシアの国策としても重要ですし、スクリーンでその存在を証明する結果となっています。この監督は日本であまり知られていませんが、同じく宇宙を舞台にした『サリュート7』(2016)がかつて上映されたことがあり、Amazonプライムでも見ることができます。
 他にどんな作品があるかというと、2位にはロシア製アニメ、5位はロシア製コメディ映画があり、家族で楽しめる作品が上位に入っています。8位には先ほど言及した独ソ戦映画『赦し』が入っていて、やはり興行成績としても上位に食い込んでいるということがわかります。ですが、やはり経済制裁の影響で欧米のメジャー作品は入っておらず、例年と比べると寂しい印象は拭えません。例えば、今、日本を含む世界中で『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が興行成績を塗り替える大ヒットを記録していますが、ロシアではその流行とは無縁で、子どもたちは楽しめないという特異な状況下にあります。それでも、4位には日本では公開がこれからの『ジョン・ウィック』シリーズの新作があります。ロシア語タイトルの下に英語で書いてある作品は、基本的に外国の作品で、メジャースタジオではない、独立系スタジオの作品は、ロシアにも入ってきているんです。

 次に、ロシアの代表的なシネコンのサイトを見ることで、視覚的に確認してみます。左側が現在上映している作品で、右側がこれから上映予定の作品です。いちばん左上のアニメ作品が先ほどのスライドで興行成績2位になっていたロシアの作品です。やはり経済制裁の影響で、ロシア映画の割合がかなり増えています。
 右側は公開予定作品のリストで、一番上の段は、日本でも人気のあるナショナル・シアター・ライブなどで劇場撮影した映像を映画館で流す企画が並んでいます。真ん中の段の右から3番目の作品は、イラン人監督によるヨーロッパ製作の映画です。日本では、『聖地には蜘蛛が巣を張る』というタイトルで公開された、売春婦連続殺人事件を描いた作品です(※この映画はロシアで5月11日から公開が始まったが、18日に内容が不適切だとしてロシア文化省により上映が禁止される事態になった)。意外と色々な映画が見られる、ということも言えるかもしれませんが、それでもやはりハリウッドの超大作はないわけです。
 このように、映画だけを例にとっても、ロシアでの文化を巡る状況は非常に厳しいことがわかると思います。こういった状況の中で、ソクーロフのような知識人というのはロシア人にとっても、またロシアの外にいる人たちにとっても、精神的な支柱となるわけです。そこで最後に、ソクーロフの言葉を紹介して今日の話を終わりたいと思います。

ソクーロフとヒューマニズムの価値について

 2018年に「ソクーロフとの対話」という、ソクーロフとロシア語圏の知識人の対話を収めた本がロシアで刊行されました。国内の状況は刊行時より悪くなっているわけですが、権力や独裁などについて知識人が語っているその内容は、今読んでも多くの示唆に富んでいます。
 今日紹介したいのは、2015年にノーベル文学賞を受賞した、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチという、ベラルーシのジャーナリストとの対話です。彼女との対話で、ソクーロフがまずこういったことを言います。
「もしヒューマニズム的な価値観が、あなたの生活、あなたの行動、動機を内側から制御しているなら、あなたは他ならぬ選ばれた者なのです。ヒューマニズム的な価値観に基づかない政治とは、殺人です。私たちはこのことを理解し、はっきり自覚する必要があります。なぜなら、私たちが何者であれ全員をひとつに束ねる、そうした唯一の価値観とは、ヒューマニズム的な価値観をしっかり遵守すること、この価値観が何であるかを明確に理解することなのです」。
抽象的なためわかりづらいですが、ソクーロフは、政治と対置されるものとして、ヒューマニズム的な価値観ということを強調しています。アレクシエーヴィチはすぐに彼の言葉に、「私はただアレクサンドル・ニコラエヴィチを支持します。合理的な人間が世界を救わないことは明らかとなりました。世界を救えるのは、ヒューマニズム的な人間だけなのです」と言って同意します。
 この言葉を私なりにパラフレーズしてみます。ここでは、政治は合理的なものということが前提になっています。よく政治は利益ということを話題にしますが、その利益というのは、決まって政治を行う側の利益のことを言っているわけです。プーチンはその典型です。そうして各々が合理性のみによって利益を追求していても世界は良くならないので、世界を良くするためには、人間性を重んじ、人間愛を実践するヒューマニズム的な価値観が不可欠なのだという点において、彼らの意見は一致するわけです。ロシア語圏最高の知識人ふたりのこの意見の一致には、たいへん励まされます。
 映画に即して言いますと、映画は他者を描くものです。観客に他者の世界を提示して、観客が他者の痛みを想像するようになります。他者というのは、普段政治がどこまで目を配っているかわからない、様々なマイノリティ、例えば、性的マイノリティ、移民や難民に目を配り、彼らに対する想像力を養うことができます。これこそが、ヒューマニズム的な価値観になります。今、ロシアを巡る状況はたいへん厳しくなっています。ソクーロフの作品もすべて、現在のロシアでは上映禁止になってしまいました。パンフレットで紹介したように、反権力の象徴であるソクーロフは、これまでプーチンに対してまったく恐れることなく物申してきました。そんな彼が撮った『独裁者たちのとき』では、独裁者たちが思い思いに自分の意見を喋ります。その映像はアーカイブ映像から採られているので、自然とすれ違いの会話になっているということもあると思います。しかし、そういった手法によって彼らがいかに尊大な人間であるかが浮かび上がってくるのです。自分の分身だけを兄弟と呼んで親しくしながら、他の独裁者たちには悪態をつき、関心を払いません。自己主張だけして噛み合わない会話を続ける、独裁者の姿を浮き彫りにしているという点に、『独裁者たちのとき』の優れている所以があるわけです。
 ロシアで公開されていない作品がこうして日本の劇場にかかり、多くの観客が集まって鑑賞をしているというこの現象自体が、反権力的な現象であると言えるのではないでしょうか。日本人が平均して年1〜2回しか映画館に行かないと言われる現在、ここに集まったみなさんは、間違いなくソクーロフの言うヒューマニズムを大切にされている方たちでしょう。私個人としても、この価値観を今後も大切にしていきたいと思います。ご清聴どうもありがとうございました。

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