パンドラの散歩 「奇跡」
ある出来事を境に、イヤなことしか起こらなくなった。客観的に見ればめちゃくちゃ恵まれた環境で幸運もたくさんあると思うんだけど、それを享受する本人が幸せを幸せだと思える受容体を停止させちゃってる場合、その人の目に世界は色褪せて見えると思う。色褪せたうえに、カピカピになってると思う。嗅ぐと病院のソファーの間みたいなにおいがする。するはずだ。
こんな日は散歩をするに限る。べつに限らないような気もするが、限ってみるのだ。
暗い気持ちを抱えた人が散歩をするにあたり気をつけることは2つ。鬱々と考え事を繰り返すことのないように目的地をきちんと決めることと、踏切で立ち止まらないようにすることだ。
そんなわけなので前々から気になっていた所に行ってみることにした。とある研究をしている施設で、科学館みたいな形で近所の小学生が社会科見学に訪れたり、休日は体験教室を開いて親子連れのお客に科学的なワークを行っていると地元紙に載っていた。こういう日のためにあまり面白くもない地元紙を購読しておくものだ、余裕のある大人というのは。(余裕があるから倒置法を使ってみた、どうかな)
マップアプリを見ながら、いつも使う大型スーパーを越え見慣れない色で舗装された通りを歩いているうち、どうやらその研究所らしき建物が見えてきた。意外と横に大きいし色も派手だ……あっこれはアカチャンホンポだった。その奥に見える白い建物が目的地みたいだ。マップに頼っているとこういうことがあるから気をつけよう。みんなもだよ!でもまあみんな意外と地形強かったりするしな…………
建物の入口には簡素なプレートが出ており、「奇跡研究所」と印字されていた。そう、ここは奇跡を研究する施設らしいのだ。
エントランスは広めで天井が高く、なるほど研究施設というよりは博物館というイメージの方が近い。平日の昼間で人も少ないため自分の足音が反響し、遊びに来た感が高まっていく。ちょっとどころじゃないくらいワクワクしてきた。
「一般1枚で」
780円の入館チケットを買ってパンフレットをもらう。研究所の公式キャラクターらしい「ミラくるん」という、クリップスタジオのロゴに目がついたようなのが展示物について説明をしてくれている。こういうのは読まずに先に進む派なのでポッケに押し込んでドンドン行く。
エントランスの階段を降りるとさっそく展示ケースと資料がカーブした壁に沿ってぐるりと並び、囲まれた中央には巨大な球体のオブジェが鎮座している。よく見ると見覚えのある大陸が並んでおり地球を模した銅製の作品だとわかった。作品プレートも出ており、「奇跡の惑星 潟山鷲三 1986年」と書かれている。恐らくこの研究所のために作られた作品ではないが、扱うテーマと合っているからという理由で気に入った館長とかが買ったんじゃないだろうか。微妙に周りの展示物や建物の現代的な雰囲気と銅の質感がミスマッチっぽく見える。
周りの展示物も惑星誕生や一つの個体がいわゆる受精レースを勝ち抜いて発生し無事生まれる確率について、難しげな数式とよく知らないドイツの博士らしき人物の写真と共に角ゴシック体でつらつらと説明されている。最初は真面目に読んでいたが、真面目さではどうにもならない興味の壁を感じたので適当に見出しと図版だけ見て先に進むことにした。資料の展示は施設側としても前段のつもりだったのか、先へ進むと先程のミラくるんが「ここからは実際の奇跡をその目で見てみてね!」というセリフと一緒にラミネートされて壁にくっついている。写真撮影禁止の表示もある。べつに撮る気がなくても、なんとなくここにルールを生む空気を感じて緊張感が現れる。
ここからは狭い一本道になっており、それまでの白い壁とはうって変わって黒い壁と暖色のライトで雰囲気ある廊下を歩く。さっきまで遠くに老夫婦が見えていたが気付いたら先の角を曲がったのか消えている。空いている公共施設を歩くのは楽しい。少し歩くと壁に水槽のようなものが埋め込まれており、中にはジオラマの街と木、それと小さい男の人形があり両側面についた噴霧口から煙のようなものが出ている。「落雷の発生について」という説明書きがあり、しばらくすると煙が雲の形になって、ピカリと光った。すると建物のひとつに雷が落ち、黒焦げになった。一瞬のことに唖然としていると床が回転してセットが引っ込み、雲も霧散した。一周したようで、また床が回転するとジオラマは元通り綺麗になっていた。
少し進むとまた同じようなガラスケースがあり、中には交差点のジオラマとおじいさんの人形。向こうから車の模型が走ってきて、おじいさんに激突。模型から煙が出る。床が回り、また元に戻る。どうやらこの展示エリアでは身の回りで起きる奇跡的な出来事をジオラマで再現しているらしく、これは交通事故の起こる確率について説明がされている。他にも飛行機墜落から自動販売機の下にお金が落ちている確率などについても展示があり、そのどれもが知らないことではなかったのでフーンよくできたセットだなと思いながら進んだ。正確には知っているけれど体験したことはない、だけど世界の誰かが経験しうることが展示のほとんどであり、普通に生きている以上は奇跡的な確率について他人事でいる。このnoteのオチとして実は筆者は1000万人に1人の難病を抱えており、みたいなこともなく本当に普通の人生を歩んでいる自分にとって確率論はフーンでしかないのである。ちなみに交通事故は本当にイヤなので車を運転したくない。自分が運転する車が交通事故に遭ったとき、自分が悪い確率を計算すると恐ろしくて車は運転できない。
なんだか暗い気持ちになってトボトボと考え事をしながら歩いていると展示エリアも後半に差し掛かってしまったようだった。先程の狭い通路から、広い空間に出た。そこは水族館の大水槽のようなのものが設置されていて、中には地味なスウェットの男女が数人入っていた。部屋を2つに分けるように分厚い壁があり、彼らは等間隔な動きで何度も壁に向かって体当たりをしている。その表情は虚ろでも苦しそうでもなければ別段楽しそうなわけでもなく、ただ職務としてやっているようだった。壁の向こうには白衣を着た人達がおり、モニターを見ながら何らかの計算や集計を行っていた。どうやらここは「奇跡的に人間が壁を抜ける確率」を探っている部屋らしかった。量子力学では素粒子からなる人の体が壁を抜ける可能性がどうたら……というような説明があったがその学問が現れた時点で理解を諦めて先に進んだ。更に広い部屋が出てきて、そこでは25メートルのプールが渦を巻いていた。どうやらこの中に腕時計の部品が散りばめられているようで、この中で奇跡的に腕時計が組み立てられる瞬間を記録しようとしているところらしく、その確率は地球が誕生する確率と同じだという。文字で書くとバカバカしく感じるかもしれないが、この施設に足を踏み入れてからの一貫した奇跡や確率へのアプローチや空気感を体験すると、なんとなく偉大な試みである気がしてくるのだ。
展示の最後はまた白い綺麗な壁に戻り、太陽がてらてらと照っており気付くと正午過ぎになっていたことに気付く。広い部屋の向こうにショップがあり、その横の休憩スペースではワークショップに関するポップが見える。目の前の壁に仰々しい装置が埋まっていてなにやらゼンマイ仕掛けになっているらしい歯車がギコギコと音を立てている。試しにゼンマイを回してみると歯車の回転周期が少し早まって、中央にある砂時計がくるくる回っている。その下には大量の薄い木製パネルに数字が書かれており目まぐるしくその数値が変化する。何の数を表しているのか分からないが、「奇跡発生装置」と書いてあるので何らかの確率を調べる機械なのだろう。
私は腹も減ったのでショップを見ることもなくそそくさと研究所を出た。スタッフオンリーと書かれたエレベーターでは展示エリアのさらに地下に位置する研究室に繋がっているのだと思うが、一体何をしているのか、なんとなく知りたくない気がするのだった。
奇跡研究所を出て家までの道のりを戻る。行きの道と帰りの道はまるで別の景色になっているのでやはりマップは手放せない。それにしても不思議な感覚が残る。私はここ最近、以前のような幸福を感じなくなってしまったので楽しいという感覚についても微妙にしっくり来ない感じがあるが、まぁ楽しかったと感じたから、今日の散歩は成功だということになるんだろう。明日からもカピカピな日常が帰ってくる。毎日散歩する気力はないので日がな寝転がって天井や液晶を眺めることになるんだろう。ぼんやりと今日の昼食について考えながら帰路についた。
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