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無いものを感じるとき
人間は無いものを感じることがすごく苦手にできているらしい。
例)お腹がいっぱいの時に空腹を想像する、または逆の状態
例)健康な時に健康を著しく害する状態にあること、または逆の状態
特にないものを意識することは難しいかと思いきや、そうでもない事情はいつものことである。
例)貧困から富裕層という状態に移行した人間、または逆の状態、これはなぜか状態を想起できるみたいである。
最初の事例で空腹、満腹というのがあるが、自分の許容量を認識できないというのが人間であったりする。料理を頼めるだけ頼んで、残すこと。食べ放題が好きな人等。
同じ状態の変化であっても恒常的な変化と非恒常的な変化では人間の認識はかなり変わることが推察できる。
ただ、時間をかけた変化が非恒常的なものかについては疑問が多い。
幼少期から青年期での変化(15年)と青年期移行での15年の変化という同じ15年であっても与える影響を同一視するのは難しい。
無いという状態に慣れることで、新しい境地に達することができるかもしれない。(無いとういう状態に慣れていない方)
私は一時期、一日350円(断続的に数年)という食費で生活していたので気分的には無いなら無いでと開き直ったりする精神があるが。
昨今は個別デリバリーサービスの拡充が甚だしいが、1食あたりのコストを考えると凄まじい。
生活水準も然りで、上げると戻せないという固定概念の縛りにより、えらい大変なことになっている。
しかも日本は固有の「家」事情により築年数が経過するほど価値が毀損されていくようなシステムになっており、これに縛られることでさらに汲々としたことになる。(欧米の一部の国では古い方が価値があったりする)
どれくらいのことを想定できるか、創造できるかそしてそれを許容できるか肝になっているが、どうだろうか。
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