終末日本 vol.11

「でる時、はいる時」に感じる、日本人の残念さ

お店に入るとき、エレベーターから降りるとき、電車の乗降時、日本も終わりだな、と、いや、日本人自体、終わりだな、と感じることが、しばしばある。

先日、マクドナルドへ行ったときだ。
午前中だったが、レジの前にはお客が並び、入口まで溢れていた。
私は作業するつもりで来たので、先に席をとろうと、列の脇から入店しようと、店内に足を踏み入れようとした。
すると、中から退店しようとする人と向かい合った。
エントランスは列のために人一人が通れるくらいの隙間しかない。
すれ違うのは無理なので、私は中から出てくる人に、まず道を譲った。
その人が出たら入ろうと思ったが、なんと、その人の後ろに人が。別に最初の人の連れというわけではなかったが、私は再度、2番目の人が出るために道を譲って待った。
2番目の人が出て、私が進もうとすると、またしても、人が出ようとしている。今度は女性だ。その人は私が待っているのも気にせず、出てこようとしたが、さすがにキリがないので、私は彼女より先に店に歩き出した。
が、彼女はなんら気にも止めずに、私と強引にすれ違う。
そのとき、私の手に持っていた日傘が彼女にあたり、私の手から離れ、床に落ちてしまった。
それでもその人は振り返ることもなく、店を出て行ってしまった。

もちろん、私が道を譲った先の人も、その前の人も、道を譲った私に「ありがとう」「すみません」という言葉はなく、会釈すらなかった。

別に会釈してほしいわけではない。もっとも私は、エレベーターでボタンを押したまま、私が出るのを待ってくれている人には会釈はするが。
私は幼い頃から、電車でも店でもエレベーターでも「出る人が先」と教わっていた。だから、それが習慣化しているため、それが社会の中でのマナーだと思っているし、たとえ教わっていなくても、「出る人が先」の方がムダがなくスマートなので、教わっていなくても「出る人が先」を実践していただろう。

考えてみてほしい。
電車でも店でもエレベーターでも、入る人が先になったら、車内も店内もエレベーター内も出入り口付近が混雑し、出る人が遅くなれば、電車は遅延の原因になり、店では混乱の元になり、エレベーターも動くのが遅れ、他の階で待っている人がさらにイライラしてしまうだろう。
「出る人が先」なら、用事を済ませた人たちがいなくなり、空間ができるから、その空間に「入る人」がスムーズに収まることができる。混乱も苛立ちも時間のロスもなくなる。
つまり、ほんのちょっとの「譲り合い」が社会活動をスムーズに快適にさせるのだ。

こんなことは、昔から知っていたし、ほぼ「出る人が先」ができる社会だった。
しかし、最近はなんだろう。
「出る人が先」より「自分が先」の人がよく目につくようになった。
それは若い人にとどまらず、老若男女みんなだ。
かつては「出る人が先」だった年配の人たちも、日々人を相手に仕事している現役の人たちも、「出る人が先」ができなくなってきている。この現役の人たちも、もし「出る人」に自分のクライアントがいたら、できるはずだろうに、プライベートではないがしろにしてしまう。
子供にとってみれば、混雑した駅で、電車から降りる人を待たないで、降りる人の塊に突っ込んでいく。それを諌めない親。

人に譲ったら、譲った自分が損する社会。

いつのまにか、そんな印象を私たちは持ってしまっている。
私もこのマクドナルドでのできごとで、これからは決して「出る人」も「入る人」も待ったりしない。ぶつかろうが関係ない。「自分が先」にしないと、迷惑をかけられるし、損をするのだから。
ーーなどという考え方になっていくかもしれない。
それは、非常に哀れなことだ。

海外に行くと、たいがいは「自分が先」だ。
アメリカでもヨーロッパでも、電車から降りるとき、「出る人」を待たずに入っていく人たちをたくさん見た。特にアジアは顕著で、ぼやっとしていると、入ってくる人たちに押されて、電車から降りられなくなってしまう。
とりわけ、インドはひどく、降りる人と乗る人でごった返しになり、もみくちゃになり、怒号や叫び声が飛び交い、そうしているうちに人が車内に収まりきる前に電車が発車する。ドアは閉まらず、ドアの手すりにぶら下がるように人が行く光景をよく見ていた。
それらを見るにつけ、「出る人が先」が習慣になっている日本と日本人は素晴らしいと思ったものだ。「出る人が先」ができれば、こんな騒乱は起きないのだから。
(ただ、大阪ではインドとほぼ同じで、とても驚いた記憶がある)

小さなことかもしれないが、ちょっとした譲り合いができなくなりつつ日本、そして日本人。へつらったり、おもねったり、まして日本の長所はおもてなしです、などという必要は全くないが、社会生活を快適にする、ちょっとした習慣や気持ちは日本人のプライドとして、失いたくないと思う。

例えば、前出の、

エレベーターでボタンを押したまま、私が出るのを待ってくれている人には会釈はするが。

前出

では、実際、自分がエレベーターの「開く」ボタンを押し、他の人たちを先に降ろそうとしたとき、先に降りていく人の中で、「どうも」「すみません」「ありがとう」、もしくは軽く会釈された場合、正直、自分は気持ちよくならないだろうか。
とてもささいなことだ。それでもちょっとは気持ちが上向きにならないだろうか。
今回はココがポイントだが、
「自分が先」でいい思いができるかもしれないが、他の人に不快感を与え嫌悪されたり、それが元で文句を言われたり怒鳴られたり、いらないトラブルに巻き込まれる危険性は高くなるし、そうなった場合、自分も消耗してしまう。
だが、「出る人が先」なら、ちょっとした感謝の意を示されることもあり、気持ちもいい。つまり、ちょっと譲ることが、結果的には自分を快適にしれくれる、ということだ。
情けは、人の為ならず。

なるほど。
自分で書いていて、妙に納得してしまった。
これは、終わらせないために、必要なことではないのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?