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死という選択について

 これは文章作品でもなんでもなく、自分自身の思考を書き殴るだけの正しく暴論、妄論であるからして閲覧諸氏においては了解願いたい。
 さてはて、タイトルからして気を病んでいるのではないかとか、かまってちゃんじゃないかとか、メンヘラかよ、など様々なお言葉が脳裏に雲の如く浮かんでくるが、クラウド思考読みなどということは不可能であるので被害妄想も甚だしいな、などと自己嫌悪に陥りほとほと自分という人間が嫌になる。
 と、書いてしまうと病んでいるのではないかと誤解されてしまうので戯文はここまでにして本題に突入していきたい。
 自殺についてプラスイメージを持っている人は少ないのではないかと思う。
 それは幼少の時分から半ば洗脳に近い倫理的道徳的教育の賜物ではないかと思う。
 しかし、自殺は悪いことだ!で思考を止めてしまうのはそれこそ'''悪いこと'''ではないだろうか。
 時に自殺した人間を弱い奴だ、自殺なんてしなきゃ良かったのに、残された人間の気持ちがどうのと死者を責める愚かな人間が存在する。
 肉塊になった物体を責めてもどうしようもないだろうというのは尤もであるが、それはさておきここで問題なのは自殺を選ぶ過程を考えもせず、'''自殺'''という行動そのものにフォーカスし、先述した幼少の頃から脈々と洗脳されてきた後天的な倫理価値観によって自分達は正しいと思考停止し喚き散らしてしまう点である。
 歴史を語る時に、戦争をした日本は愚かだ!と結果を見て過程を見ず、自分達が戦後教育によって植え付けられた後天的な価値観によって論じる人がいるがそれと酷似しているのだ。
 その時代の価値観、背景、事象、そこに立って考えてなぜ愚かであったのかを論じなければならないにも関わらずそれらを一切考慮せずーーー、話しが脱線しそうなので元に戻そう。
 要は、自殺するに至った背景、その人に起きた事象、そこに立って考えねばならないのに自殺という結果だけを見て非難しているのが愚かなのである。
 自殺とは、選択した結果であり選択するに至った事象、また自殺を選択しなかった結果起こり得た事象にまで思考を伸ばさねばならない。
 例で言えば、虐められて生きていくのが苦しい、その結果自殺を選んだ。
 自殺を選ぶほど未来に絶望し、またこの先の人生において苦痛が伴うことが予見できるのあれば死というのはその人にとって'''救済'''となる。
 残される親兄弟や友人のことまで気が回らないほど追い詰められていたと、簡単に想像がつく。
 しかし、それでも周囲は自殺をした人間をセンセーショナルに責め立てる風潮がある。
 これは一例に過ぎないが、他にももう毎日生きているのが単に面倒臭い、これで自殺する人間もいるだろう。
 或いは恋人に振られこの先の人生に光明が見えず絶望し、深淵の闇に吸い込まれたいと思い自殺する人も存在するだろう。
 自殺という選択にはそれぞれの事象、事由があり、1人の生人としての憶測に過ぎないがそれらに共通しているのは'''救われたい'''もしくは'''逃げたい'''という意識ではないだろうか。
 死んでしまえば、全てが終わり過去にあったことやこれから起きること、不安や苦痛、全てから逃れることができる。
 生きてこそ、よりも、死んでこそ、に救いを求め自殺した人間はある意味では本能的な恐怖を克服し現世から解脱した勇者ではないだろうか。
 死を選択した者に対する憐れみなどは不要である。
 それらの憐れみや、ある種侮蔑的な意識は洗脳によって植え付けられた倫理的価値観であり、自殺という結果に対してのみ抱く悲観的な感情であるからだ。
 自殺は悪いこと、死ぬことは許されない、そんなチンケな思考に囚われ続けている人間こそ、救いようがないのである。
 死という選択肢は必ずしも悪いことではない。
 悪いことではないが、自殺した後のことで誰かしらに迷惑をかける、ならば自殺なんてするなという意見を見かけることも多々ある。
 だが一つ言っておきたいのは生きるも死ぬも他人に迷惑をかけるという点においては同じだということだ。
 死んだ後には死体を片付けねばならないし、その作業をする人間は無論いい気はしないだろう。
 生きている人間でも赤ちゃんや老人は下世話を誰かにしてもらわねば生きてはいけない。
 赤ん坊ならともかく、誰とも知れない老人の下世話をする人間も無論いい気はしないであろう。
 だからして、この自殺というテーマについて善悪を論ずる時に'''終わった後にかける迷惑'''でバッサリ斬り捨てるのは論ずるに値しない意見なのである。
 しかしながら、帰宅ラッシュ時の飛び込み自殺だけはどうか控えて頂きたい、というのは申し述べておこう。
 結論としてこのnoteで何が言いたかったのかというと、死にたければ死ねばいいしその選択は決して悪ではなく、悪と決めつけ後ろ指を指す人間は現代洗脳教育の成功者として堂々と胸を張り生きてほしいということだ。
 自分のような、救済とは死ぬことと見つけたりと宣う社会不適合者版新渡戸稲造のことはどうか放っておいてほしい。
 日陰で誰にも見られず、ただただ朽ちて枯れ果てていきたい、ジメジメとした場所がお似合いな自分には人間の倫理観は火傷するほど、眩しいのである。


完。

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