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【春を想わなくても、涙が来る(花粉症にて)】

昨日の日記と、去年の春の記録、数日分。去年の春はまだ祖母は死んでなくて、花粉も少なくて、のほほんと春を享受していた。今年の春は、花粉にノックアウトされている。イモリの額は仲間の作品(くるくるアート)、右側の少女はウクライナの栞(ブックマーク)。つまりは、本紹介も様々に。私の名前も花粉に曝露される。ああ、死にとうない。


2023年3月某日
【花粉症が鍋焼きうどんと共にある】
杉と桧の花粉達に、戯(たわむ)れまみれているのだ。鼻水、喉と皮膚ガサガサ、眼うるうる、カユカユだ。すっきりしたいのに、すっきりが実現しない。ぽわんぽわんと苦しくなる。花粉は悪くない、ひたすら方向性が同じくされた植林のせいだ。だいぶ痒い。
この時期は能力が著しくダウンする。抗アレルギー剤を内服すると、粘膜はカサカサし出すし。なのに、ジュルジュルと壊れた蛇口にあちこちなる。
花粉休暇作ろうぜ!だがしかし、生理休暇すらあるけど無いこの社会に望みにくいし。

ウクライナとロシアの戦争がずっと続いている。一週間で流行り廃りの生じる時代に、膠着しておる。ゆえに人々は興味を無くし、頭の片隅を掠るが、無きがごとくだ。その間に、色々何かが決まってゆき、何気なく通り過ぎる。私には戦争が目の前なのに、日々だと思う今にいる。
明日いきなり、弾道ミサイルが、近くに落ちたらどうだろう?そこで死者数名が生じて、国としては遺憾であったと報じられ、裁判が開かれ、だがしかし、また近くに弾道ミサイルが落ちて、対弾道ミサイルへの対策が取り沙汰され、撃ち落とせましたと報道があり、でも、また落ちて、死者が出る。
ああ、怖いのだ。私は私が死ぬこと以上に、たくさんの知っている他者が死ぬことが。ああ、嫌なんだ。私は、私が消えること以上に、知り合った人々がアクシデント的に巻き込まれ、または、切羽詰まって死ぬことに。

何々だったらどうだろう?もしくは何々でなかったらどうだろう?という言い回しは、三歳になる甥っ子がよく使う。トイレに今のうちに行こうよ→今、トイレに行かなかったらどうだろう?なんて風に宣う。
戦争が起きたらどうだろう?戦争を起こさなかったらどうだろう?三歳の甥っ子が、二十歳を迎えられるよう、私は祈る。
ちなみに鍋焼きうどんの具は、鶏もも肉のぶつ切り、干し椎茸戻したの、しめじ、人参、水菜、豚肩ロース二枚、卵、葱で、花粉なのか湯気なのか、とかくジュルジュルしながら、屠(ほふ)る。


2022年4月某日
【山笑う】
この週末は、熊野市の山間にある「瀞流荘」に行く。そこは、熊野市駅からバスで小一時間ほど揺られて、瀞峡の端に建つ。ギリギリ県内だ。さらに、トロッコで湯元山荘「湯ノ口温泉」(源泉かけ流し)とも行ったり来たりできる。
いやいや、その前に津駅から熊野市駅まで、JRでガタンゴトンと3時間、旅行きのお供は「ポストコロナ期を生きるきみたちへ」内田樹編、「動的平衡2~生命は自由になれるのか~」福岡伸一著だ。
3時間もあれば、読み進められる幅が大きい。
前著からは「Aは事実であり非事実である」「Aは事実でもなく非事実でもない」というレンマ学を。後著からは「分解と合成が、互いに他を逆限定しつつ、流れゆくままにバランスをとる絶対矛盾的自己同一が、あるいは動的平衡が、そのまま時間を生み出すしくみである」というに至る。

一泊目は熊野市駅からほど近い「みはらし亭」の和室に泊まる。「食堂あお」で地魚に酔いしれる。「あそぼらん」(ブランド卵)の出汁巻きも美味しい。
翌日の朝イチでてくてくと、イザナミノミコトとカグツチノミコトが祀られる「花の窟(いわや)神社」に参る。社殿は無く、そこが、あまりにも天界から指令が直線に降りてきそうな、逆に地上から祈りをお焚きあげできそうな、ぽっかりした空間で、その有り様が沖縄の久高島のウタキに似た空気感で、一時間くらいボーッと木々と岩、及び細い縄で囲まれた結界ゾーンに佇んだ。

さて、「瀞流荘」では熊野牛や熊野地鶏にハマりながら、青竹のような香りがする温泉に浸かる。トロッコで10分の「湯ノ口温泉」は鉄分と湯の花が立ち上り、これまたひたすら浸かる。問題点は、立ち湯や寝転び湯のある素敵な露天風呂であるが、暖かくなった気候ゆえ、蚊にくるぶしや下腹を刺されゆくことだ。
けれども、臨む山の若葉の様々な緑や咲く花が、風が吹くたびに、さわさわと揺れて、本当に笑っているみたいだ。きれい。
そして、カーブする川を見て、ここでなぜか気持ちがのびやかになるのは、自然な川の流れに人の手が入らず、その自然の形に沿うように、道路がささやかにあるだけだからだ、と感じる。ウグイスや様々な鳥のさえずりが聞こえる。

それから、帰宅してたまたま、NHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか?~abc予想証明をめぐる数奇な物語~」を見始めた。
宇宙際タイヒミューラー理論、という、かけ算と足し算を繋ぎ合わせることへの挑戦がなぞられており、「全く同じものでありながら、異なるものとして扱う」という前提を見つめる。
・・・愉しいなあ。この世を余すところ無く享受しておる、この春に。

2022年4月某日
【多少の思考】
いじめられた、を主観で持つことは行いやすいが、いじめていた、を主観として持つのは難しいのでは無かろうか。いじめていた、と他者から言われたが、いじめている、とは思ってなかった。いじめていると言われて、いじめたと言わざるを得なくて、いじめていたことになったが、そういう主観にはなったことがない、という現象は案外多いのでは無かろうか。
かつては、いじめっ子というレッテルが貼られることで、「ジャイアン」と名付けられることで、ゆるやかにその主観が持てたが、今は、いじめた側になった途端、犯罪者のような響きとなり、「かつて私は友達をいじめていた、と規定された」ということをどこにも誰にも言えないままになる気がする。

生活歴をインタビューするときに、学校でイジメにあったことがありますか?という問いはあれど、イジメをしたと言われていたことはありますか?という問いはなされにくいというか。

ライオンはコアラにはなれないのである。かくいう私は、ADHD(注意欠陥多動性障害)強めで、ともすれば喧嘩上等だが、ASD(自閉症スペクトラム)的マイルール偏重があるため、その正義感により所謂(いわゆる)いじめっ子に対して、タイマンを張りに行ったことのある小学生時代、取っ組み合いの喧嘩をして勝って、以降私に対しては、その男の子は爆発をぶつけてこなくなった。でも、その子の生い立ちが、暴力的な家庭であり、その鬱憤をはらすごとく、窓ガラスを割っていたことを、その頃から薄々感じていた。だから、哀しみを想っていた気がする。今になって言語化できるようになったが、当時は丸ごと対峙しておったなあ。

一方で知的障害があり、特別支援学級に行ったり来たりしていた男の子が、掃除の時間に何もせずフラフラしていることに憤り、机をつるのに片方持ってよと言い放ったり、鼻くそをにじりつけてくることで、コミュニケーションを取ろうとする女の子に、それは止めろ(やめて)とノーを突きつけた。
脳に爆弾をかかえる体育に参加できない男児の家に、お呼ばれして訪れた際には、当時は珍しい手作りのアップルパイとクッキーと紅茶でもてなされ、その男の子が母親に何かものすごく大切にされていることを感知した。

その頃の私には団子蟲とドングリを集めることが大切で、平均台を渡ったり、ケイドロ(警察と泥棒)で遊んだり、図書館で本を読むことが楽しみだったけれど、あの時代の経験が時折よぎる。
今晩はスパイスを揉み込んで、ココナッツパウダーとヨーグルトに漬け込んだタンドリーチキンと、エリンギ、玉ねぎ、ネギ、人参、芹、ゴボウを入れた豚汁、キュウリと新玉葱のピクルスを用意して食べる。今、こう在れるのは、確率の端っこを掴んで通り抜けて、この社会というか世界を、なんとかすり抜けて来たんだろう。恵まれた分を返して行こうと思う。

2022年4月某日
【安心って?】
安心安全というフレーズを耳にするたびに、不安になるのはなぜなんだろう?それは永遠を求める傲慢さに感じるからだろうか。不安で不安全に親しみを感じているからだろうか。
もし、戦渦にいるならば、かくなる悩みは雲散霧消する。私は亡き夫ぽんが末期癌とわかり、死に至るまでの日々、安心安全からはひたすら遠かったが、生命体としてはまっとうだった。少しでも長く一緒に居たかったけれど、ちゃんと死にいくことの側(そば)に最期まで居たかったし、その望みは叶った。
恒常性を望むのは平和だから、それを望めるという環境にいるからであろうか。

生活のパターンがあるのは、自分のキャパシティと見合っていたならば、それを永続したいと願うのかもなあ。でも、どこかで破綻するイベントが勃発すると、不確実性が立ち現れ、困惑する。
今の私はまだ死にたくない。死をなるべく遠くに置きたい。でも、いつ死んだっていいとも思っている。それから、私の環境が不安定で不確実すぎたら、死を望むかもしれぬ。いや、それでも、生きたいと思うのかなあ。

おばあちゃんは戦時中、死にたいと思ったことはなく、疑うことなく生き延びたいと当然のごとく思っていた。どのように、どこまで生きたいかというゴールは見えて無くとも。そのことが、思春期の私には大層プレッシャーだった。
私は職業柄自殺を止める立場にあるが、生きてりゃいいことあるよ、なんてことは思ったことはなく、むしろ死にたいと思う気持ちはわからなくはないが、なぜ今、私は死のうとしていないかを考えるしかなく、それを少しでも表現し伝えるために、泥沼ならぬ泥壺に丸ごと突っ込む。パカーンと割れて、泥状の訳の分からない物が流れ出る。考えてわかることであれば、すでに三周くらいしておるわい。
「安心して絶望できる人生」向谷地生良著のタイトルコールは幾たびも支えになった。「夜と霧」(新訳)フランクル著に幾たびか救われてきた。それは、確かな生の実感だ。

昨晩は、レインボーカラーのクラゲの構造について、論じる夢を見た。今晩は牛ミスジ肉の焼き付けたの山椒醤油浸し、インゲンゴマ味噌汚し、小松菜のお浸し、ひじき五目ピリ辛薩摩揚げを食べた。
眠くなった私は緩やかに肌寒い春の夜に布団に潜り込む。最近近所で朝から叫んでいる若い人の声が聞こえてきて、それが少し、怖い。

2022年4月某日
【よく働き、よく休む】
生物学者の福岡伸一さんに嵌っており「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅~」池田善昭・福岡伸一著を読了。哲学者と生物学者の二人がダイアログ(対話)の形式で、西田幾多郎の思想を紐解いてゆく。知のプロセスを共に歩めるのが醍醐味だ。エキサイティング!西田哲学を知らずに飛び込んでも、気がつけば、わかり始めている。

一部を書き出すと(願わくば、全部を最初から読んで欲しいけれども)
・エントロピー増大の法則を「先回り」するような分解
・何億回、何兆回もの分解と合成の試行の中で、たった一回だけ、分解と合成がほぼ釣り合い、しかしながら、分解がほんの少しだけ「先回り」して起こるようなバランス、つまり動的平衡が成立した瞬間が起きたのだ。これが生命の出発点だった。

本の論旨とは関係なく、実に極めて私見だけれど、男性脳と女性脳の違いとして、男性は理論の破綻を起こさせないように、定義を重ねていくが、女性は言葉にしなくても察することで変化や実存を体感としてわかっている。前者がロゴスならば、後者がピュシスだ。
女性脳は言語を使えない赤ちゃんが泣いたりむずがったりするのを、全体的にキャッチし、乳の飲み具合でそのときのコンディションを直感的に把握していくが、男性脳は基準や数値化をもってして観察する。
よく、女性は感情的だというが、女性同士でコミュニケーションを取る際に、とりわけ感情的になったりすることはなく、ヒステリックにもならず、和やかに井戸端会議が開催される。雰囲気や空気感で全体性が伝わりあうからだ。
ところが、男性相手だと、合理的な結果や破綻のない説明を求められ、女性サイドはなぜ感覚的に届かないのかと苛立ち、結果感情的な表出(泣く、わめく)をせざるを得なくなる。感情的なのではなく、感情的にさせられてしまう。
どちらが優れているとかではなく、性質の違いだと思う(もちろん女性であっても男性脳メインであったり、その逆や混じり合いもある)。この本を読めば、女性脳である私も哲学者にはなれずとも、哲学的にはあれることを感じられる。

今晩はミミガーに唐辛子粉(プリッキーヌ)をまぶしつまみにする。それから、茹でインゲンのマヨネーズがけ、ウドのタバスコ&酢&味噌和え、野蒜の醤油漬け、おあとローソンの明太子バターのパスタに、黒酢漬けの輪切り生唐辛子、マグロの酒盗を足して啜る。
外は風が強い。明日も仕事だが、忙しいと想像し、うんざりする気持ちに飲み込まれつつも、できるだけフレッシュにフラットに持ってゆくため、さっさと休もう。
そして、テレビ番組「ヒューマングルメンタリー・オモウマい店」に出てくる店主さん達は、ことごとく生命的だ。あるように働き、あるように仕事に取り組んでいる。そこがいいなあ、と眺めながら、私は今、明日までの夕方を休んでいる。

2022年4月某日
【「嬉しい」をないがしろにしていた】
朝の電車の中で、我が喜怒哀楽について考えていた。私は「哀しい」には馴染み深いが、喜びは少々、楽しいは時々、怒りも大さじ一杯程度で暮らしている。ふと、嬉しい、が忘れ去られていることに気がつく。嬉しいが行方不明になっていた。そこで、嬉しい、を使った文章を、敢えて思い浮かべることにした。
・勝って嬉しい花一匁
・お目にかかれて嬉しい
・試験に受かって嬉しい
・孫が産まれて嬉しい
・山菜がたくさん採れて嬉しい
など。しかして、ここ何年かの私は嬉しい、を意識に上らせることがあまり無かったなあと。恐らく生じたとしても、あっさりと無反応を装い、それを味わうことなく亡きものにしていた。また、他者が嬉しそうにしている様子に、めでたいな、とキャッチしていても、すぐにリリースしていた。

どうしてこんなにも、嬉しいが思い浮かばぬのか、感じられぬのか。そうして、ぷかぷかと記憶を辿っていたらば、あー、私、亡き夫ぽんと一緒にいるだけで、すごく嬉しかったんだ!と発見する。
とにかく一緒にいることが、ずーっと嬉しい、だった。この時期は、春の薔薇展や山野草展の準備に追われ、販売苗の準備をしたり鉢植えや水やりを手伝っていた。 大変だったけれども、時に不機嫌になったり、疲れたりしていたが、単に嬉しくて夫ぽんの側にいたくて、気持ちが繋がっていて、ひたすら無心に作業を行っていた。
そう、夫ぽんが死んで、私は私の嬉しい気持ちを、無意識のうちに封印していたのだった。夫ぽんといたときに感じていた、ただただ嬉しい、を永久凍土と化させていた。かしもとかなえには、アイオオアアエでウが足りない。亡くなった夫ぽんの名は、あつし、でアウイでウがあった。私にはウがない、嬉しいが無いことを憂いておった。
ごめんよ、私の「嬉しい」さん、夫ぽんと過ごした時を思い出したら過去になりそうで、記憶の中の新鮮な空気が消えそうで、真空パックに閉じ込めておったよ。気がついて、ようやく、私は「嬉しい」を自由に解放しようと決意する。

今晩は、黒胡麻担々麺、蛸とキュウリのピリ辛和え、焼き餃子、冷やしトマトを、生ビールと紹興酒で独り食べた。美味しいなあ、でも、嬉しくない。って勝手になってしまう。それは、夫ぽんという存在がいないことへの哀しみが、自動的に自己主張を始め、嬉しいに覆い被さるからだ。捕らわれ隠された嬉しいを、今一度発掘し、天に飛ばすよ。
夫ぽんは桜を見ることなく二月に亡くなり行ったが、私はあなたのいない七年目の春を迎え、春が嬉しいと今思う。


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