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文学フリーマーケット大阪に参加してきました



人並みに平凡で、変り映えのしない、でも幸せな毎日を送っていると思う。
仕事は順調だし、家庭生活も満ち足りている。
たまに外食して美味しいものを食べて、映画を観て、本を読んで、ゲームしたり。そんなことで終わる休日。
確かに凡庸だけど、穏やかな休日。
20代のころは、こんな穏やかな日々が僕の生活にもあってくれたらどれだけうれしいかと、毎日思っていた。
それを今は手に入れた。最高だ。
それもこれも、仕事と家庭、そして僕の精神面の全部が安定しているから。
これが、僕がずっと欲しがっていた日常なんだって確信がある。


でも、何か足りない気がする。
それが、ここ1-2年の、ちょっとした悩み。





『桃太郎がもしおばあさんに拾われずにそのまま川を流れ続けてたら、一体どうなっていたんだろう?』

仕事の待ち時間程生産性のない時間はないと(個人的にはそう)思う。
一日中休む暇がないほどの激務をこなす人からしたら羨ましいと思われるのかもしれないが、僕の仕事はどうしても他部署の作業進捗に左右される関係上、数十分から数時間の待ち時間が発生することが多々ある。
その待ち時間の間に他の溜まった業務を片づければいいんだが、それも片付いてしまうと、必然、ただ待つだけの時間になってしまう。

「待つ」こともまぁ仕事のうち。そうやって時間が過ぎるのをただ待つ。
それは子どものころから繰り返してきた僕らのメインタスク。

思い返すなら。
思春期においては
つまらない授業、風邪をひいたときの内科の待合室、夕食における家族との会話。
社会人になってからは
出退勤での渋滞時の車内、朝礼での上司のありがたい訓示、休日前夜に誘われた飲み会の4人掛けテーブル席。
ただ立って待つ、座って待つ、時間が過ぎるのを耐え忍ぶ。

何十年と繰り返してきた。だからこういうときの対処法も分かってる。
ちょっとだけ目のピントをずらして、ぼやけた視界の中で考え事をする。
人といるときは少しだけ笑顔を作って、話を聞いている素振りをしながら。
そうすると一人の世界に入ることが出来て非常に便利だ。

そうして外界との接触を断って、僕は一人静かに内省する。

なんてカッコつけているけど、考えてる事といえば
『桃太郎はおばあさんが拾ってくれたから成長して清廉潔白な青年に成長したけど、もしあれを拾ったのがDVも平然とやる毒親だったらどうだったんだろ?そもそも育てずにまた捨てるんだろうか?そんで捨てられた桃太郎を次に拾ったのがもし鬼だったら、桃太郎は人間に復讐しようとするだろうから、最初にやさしいおばあちゃんに拾われたのは幸運だったとは思う。でもあのまま誰にも拾われずに川を流れていったとして、どんな選択肢があったんだろうか』
こんな仕様がない妄想ばっかりを、鉄面皮然としながら考えている。ムッツリ妄想変態野郎である。

不毛。
それ以外の何物でもない。

でも、不毛でいいんだ。
この時間が過ぎ去ってくれればそれでいいんだから。
もし生産的なことを考えれるほど前向きになれるなら、さっさと転職してこの味もそっけもない職場からサヨナラしているはずだし。

こうやって日々降りてきたテーマで愚にもつかない妄想を繰り広げている僕だが、この降りてくるテーマというのは、案外いまの自分の環境を反映していることが多いように感じる。

「寝ているときに全裸で空を飛んでいる夢を見た人は、性的興奮を発散したいという内なる欲求を持っている」とかなんとか、そんな夢診断をしたのはフロイトだったか。
これと似た論理だと思う。

なので、今僕に『桃太郎の桃がそのまま流されていったらどうなったんだろう』というテーマが降りてきたのにも、それなりの理由があるはずだ。



よし、ちょいと考えてみよう。



なんて考えてるうちに仕事が廻ってきて、この妄想タイムは終わる。

よし、今日もこの無味喧噪な時間を耐え抜くことが出来た。
えらいえらい。






先々週の9月10日(日)
大阪・天満橋駅直結のOMMビル2Fにて、文学フリーマーケット大阪11が開催され、僕も参加してきた。

「久々のイベント参加で緊張するけど、11時開場に間に合うようにいけば余裕もって回れるだろう。参加する人もみんなお昼食べてから来るんじゃないかな」
なんて根拠のない思惑でもって入場したんだけど


開場30分でこれよ。
横幅120mほど、縦60mほどのスペースに人がすし詰め。
てか10時30分ぐらいに現地に着いたときには数百人の列が出来てたし、物事を甘く見てはいけないという教訓を得たね。

なにせ人であるよ。
東北の田舎、一日で出会う人の数が家族知人他人含めても15人程度しかいないような辺境田舎町から出てきた人間にとって、これだけの人数はキャパシティ限界を超えている。
来場してからずっとうわ言のように「酔う酔う酔う、人に酔う、酔う酔う酔う、人に酔う、酔う酔う酔う、人に酔う」とか口走ってた。慣れてなさすぎだろ。
開場待ちの列に並んでいるときに真後ろにいた人の会話を盗み聞きして分かったことだが、この日はどうも『鴨川ホルモー』で有名な万城目学がブースを出していたみたいで、万城目学の書下ろし目的の人が多数並んでいたみたい。
ははぁん、どおりで?

そんな大都会恐怖症の僕だけど、一日回ってたくさんの戦利品を入手することに成功した。


一部頂いた差し入れも含む


お部屋のインテリア本なのに、ちょっと前まで自分の部屋が汚部屋だったことをその経緯と状態も含めて紹介してくれる変わった本とか


著者が今まで経験してきたイキり・黒歴史エピソードを面白おかしく紹介してくれる本とか

かわった本がたくさんあって、気付いたらトートバッグがパンパンになるくらい買っていた。ずっと肩掛けしてたから左肩がイテェよ。

そんでもって、今回自分が原稿を書かせてもらった本が写真右側の本。

左は今回製本等色々取りまとめてくれたお友達の 穂坂ユズハさん が個別に出してた本。苦手なコーヒー克服記とか日々の出来事を日記形式で書いてある。ユーモラスな文体と、たまに出てくる後ろ向きな雰囲気とのバランスがとっても好き。クスッと笑える文章を書きたくても書けない自分にとってはちょっと嫉妬するぐらい好きな文章だったりする。会ったときに言いそびれたからここで書いておくけどやっぱり面白くて嫉妬心がメラメラしてしまうからみんな読めばいいじゃん?と思ったけどもう完売してしまったらしいユズハさん本当におめでとう!あとリンクを貼っておくからみんなユズハさんの記事も読んでくれよな

『忘れられない一冊』というテーマで、僕を含めて12人がそれぞれ思い入れのある本をテーマに書くという合同エッセイ本になった。過去の失敗談を書く人もいれば本を下敷きにした一次創作風小説として書いている人もいたり、バラエティに富む。
僕は、自分が一番鬱屈していたころの記憶を思い出し、それを好きな本のセリフと重ね合わせて書くエッセイと私小説の中間みたいなものにした。
書きあがった文章を読んでみると、過去の自分をどうにも美化しているようで後ろめたい気持ちになったが、楽しい・嬉しい記憶よりも辛い・悲しい記憶を掘り起こして血へどを吐きながら身もだえているほうが創作のし甲斐がある気質なもので、そこはなんともならないところで平にご容赦頂きたい。

設営ブースはこんな感じ。一緒に書かせてもらった皆様にもご挨拶させて頂いた。本当はどしどし喋ってみんなを笑わせたり盛り上げたりしたかったのに、実際は肩掛け鞄の紐を強めに握りしめながら「へ、へへ、はいぃ……w」なんて俯きがちにヘラヘラし続けるというコミュ障上級職ぷりを発揮してしまった。普段はこんなんじゃないのよ?会社じゃコミュ力お化けで通ってるんだから。信じておくれよ。

こうして自分が携わった本を目にし、改めて手に取ってみると、

「あぁ、これが僕の本なんだな」
「この本は、今この世界にちゃんと存在しているんだな」
「生きていると、自分の妄想の中でしかありえなかったものが、こうしてキチンと形になったりするんだな」

とかとか、たくさんの情報がぶわっと僕の脳髄に大波に乗って押し寄せてきて、少し呆然としてしまった。意味もなく表紙を撫でてみたりしてね。表紙の肌触りも格別だったよ。

17時に無事に文学フリマ大阪は終了。その後撤収作業をやったあとに

U☆TI☆A☆GE


オシャレハンバーガーセット。刺さってる旗はもらって帰った
デザートのケーキ。なんで青い鳥がいるかって?ネタバレだから言わない。
メインジョブの暗黒騎士のコースター貰った。好き。

人生初のコラボカフェ。料理がオシャレである。たくさんコースターもらったりグッズ買ったりした。
このときも僕は俯きがちに「へへ…暗黒騎士…へへへ」とか挙動不審全開でハンバーガーを食った。そして大口で頬張ったら見事に間に挟まってるハンバーグを丸ごと皿に落とした。
僕はやっぱりオシャレ空間での食事には向いてないらしい。
しかし料理は美味しいしお喋りは楽しいしで最高じゃった。今度はもっと時間とってじっくりみんなとお話したいねぇ。


こうして僕の初めての文フリ参戦は終わった。
楽しすぎて気付かなかったけどかなり疲弊していたみたいで、翌朝奥さんの実家で「ウベェ…ベェ…ベェ…」とか言いながら布団でのたうち回っていた。30代も半ばになると疲労感がダイレクトに体にくるものだ。

皆さま今回は本当にありがとうございました。来年も何卒参加させてもらえればと思います。ありがとうございました。

あと、大雨で笠がないときにわざわざ傘を買ってきてくれたヌマさん。マジでありがとうございました。マジで後光がさしてみえるくらいの精神的イケメンぷりでした……




生きている実感が、欲しい。
随分と大それた願望だ、人間と生霊の中間みたいだったころの自分からすれば。
でも、人間は満足できない生き物だから。
一つところで満足することが出来ないから、次へ次へと新しいものを求めて移り住んでいくものだから。
理性的に考えてみれば、今ここにある凡庸な日常を愛せよということも理解できるし共感もする。それがあるから今の自分が前に進めることも分かる。僕も変わり映えのしない日常を愛している。

でもね。
そんな日常のルーティーンからから抜け出してどこか見たことない遠くへ行けって、体が言うんですよ。
汗をたくさんかくと水が欲しくなるみたいなものなんだと思うけど、僕はどうも新しい場所に進み続けないと安心できない人間のようで。
それを今までは「時間がないから」とか「金銭的に難しい」とか言って今の場所に留まろうとしてたけど、でもやっぱり体が訴えてくる本能的な欲求には敵わない。

一昨年あたりから、そうやって体が欲する方向に任せてやりたいことをやることにしてみた。そうしたら

いつの間にか、自分の実存が形になって目の前に現れた。

これを書いている今も、この本は僕の横にあって、僕がこの世に存在していることを僕に証明し続けている。

こんなに嬉しいことは、なかなかない。




体が欲する欲求って即物的で、将来設計とかはまるで無い。
突発的で衝動的で、偶然に身を任せる行為だから、その後の展開が予測がまったく読めない。
だから周りは「きちんと計画性をもって行動しなさい」って言ってくる。
でも、そんなこと気にしてタイミングを計っていると、良い流れを掴みそこなったりすることが多い。

この川の先に流れ着く先に何があるのかなんて考える前に、まず飛び込んで水の冷たさを川底の石のゴツゴツした感じを肌で味わう。
そうしてると、体は満足するし、生の実感みたいなものを骨身で味わうことが出来る。
やっぱり体が欲するものには、素直に従ってみるものだな。



もしも、もしもだ。
また来年もこうして一緒に本を出させてもらえるとしたら。
そしたら僕は毎年自分の実在を更新し続けることが出来る。

やっぱり。
こんなに嬉しいことは、なかなかない。

来年も、どうぞ皆様よろしくお願いします。






人並みに平凡で、変り映えのしない、でも幸せな毎日を送っていると思う。
仕事は順調だし、家庭生活も満ち足りている。
たまに外食して美味しいものを食べて、映画を観て、本を読んで、ゲームしたり。そんなことで終わる休日。
確かに凡庸だけど、穏やかな休日。
20代のころは、こんな穏やかな日々が僕の生活にもあってくれたらどれだけうれしいかと、毎日思っていた。
それを今は手に入れた。最高だ。
それもこれも、仕事と家庭、そして僕の精神面の全部が安定しているから。
これが、僕がずっと欲しがっていた日常なんだって確信がある。


でも、何か足りない気がする。
それが、ここ1-2年の、ちょっとした悩み。

だった。


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