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エオルゼア文芸部:文芸書評①アーネスト・ヘミングウェイ【老人と海】


 ジビエ、という料理のジャンルがある。
 元々はフランス語で、狩猟で得た野生生物を捌いて作った食肉の意味で、転じて狩猟採集料理を指すものになった。日本においても、昨今の農作物への鳥獣被害への対策として、食べることで消費していこうという考えが浸透していくとともにジビエ料理を出す料亭や加工品販売を行う店舗が増えてきている。このジビエにおいては獲物を捕るのに猟銃を使うのが一般的だが、これは楽に仕留めることが出来る一方、銃弾によって獲物の体を損傷させてしまう可能性があり、衛生面に悪影響を及ぼす危険もある。これを避けるため、ごく一部では罠を用いた狩猟も行われている。
 この罠を用いた猟の達人という人を取り上げたドキュメンタリー番組を、偶然点けたテレビでやっていた。
 この人は猟師でありながら静岡で料亭を営む主人でもあり、手製の罠を使い手に入れた猪肉や鹿肉の料理を自身の店で出している。その罠はあくまで獲物を生け捕りにするためのもので、屠殺解体は自宅に戻ってから行う。罠にかかった獲物の口を紐で縛り、目隠しをして落ち着かせたうえで持ち帰って捌く。その主人曰く、獲物に目隠しをするのは

「動物に恐怖心を与えたくはない」

という考えからなのだそうだ。捌く時も獲物が苦しまないよう鑓で脳天を一突きして殺す。そしてすぐに血抜きと解体に掛かる。こうして出される料理は、ジビエによくある野生動物特有の臭みやクセのある味とは無縁の、素材のうま味が生かされた絶品だという。
 たまたま見始めた番組ではあったが、気付くと食い入るように見ていた。なぜだか分からないが、この人から【動物に対する敬意】のようなものを感じていたからだ。それはどちらかと言えば、動物園の飼育員さんに対して感じる
「あぁー、この人は自分が担当しているこの仔がすごく好きなんだなぁ」
という感情に近いものだった。でも何故そう感じるのかまでは結論が出ないまま、番組は終わってしまった。
 これが確か5~6年前のことだと思う。




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 『老人と海』という作品は、要約すると、老いた漁師サンチャゴが、バカでかいカジキを3日かけてなんとか釣り上げたものの、帰航の途中サメの群れに襲われ、食い尽くされて骨だけになってしまったカジキと一緒に港に戻ってくる、という話だ。自分を慕う少年マノーリンとの交流や港での暮らしぶりのくだりもあるが、その大半はカジキやサメとの死闘を詳細に描きだしたもので、ストーリーとしてはとてもシンプルだ。
 読者は主人公の漁師サンチャゴと共に海に出て、大物を釣り上げ帰るまでの過程を追体験する。それはサンチャゴの漁の一部始終がとても克明にかかれているからこそ可能になるものだ。たとえばホンダワラという海藻を引き上げそこに隠れる小エビを食べて腹を満たしたり、船に飛んできた海鳥と会話をしたり、カジキが掛かったあとに当たりがきた他の竿を咄嗟に切ることで、船が別の方に曳かれてしまうことを防いだりと、釣りや漁に関心のない読者でも鮮明にイメージ出来るほど詳細にサンチャゴの一挙手一投足を描くことで、読者がサンチャゴに感情移入出来るように仕上げられている。
 しかしこうした緻密な戦いの描写から生じる、冒険活劇の主人公で巨大なカジキに挑む孤独なヒーローとしてのサンチャゴ、という読者側のイメージの一方で、同時にサンチャゴは相対するカジキや海鳥や果てはサメに対しても、人間と接するような対等な関係を築く、慈愛に溢れたキャラクターであることにもまた気付かされる。
 たとえばカジキが掛かった網を必死に右手と左手で引き絞りながら、サキに釣り上げておいたマグロを食べ飢えをしのぐサンチャゴが不意に

「できればあの魚(カジキ)にも食わせてやりたいが・・・」

と思う部分や、夜空の星を見上げながら

「やつもおれの友達だからな」
「あれほどの魚はみたことも聞いたこともない。
 なのにやつを殺さにゃならん・・・」

と幾分哀れみの籠った独り言を言ってみたり、船にやってきた海鳥に人生の先輩としてのアドバイスをしてみたりと、人が人に対する態度そのままに周りの事物を見て、それに敬意を持って接している。

 サンチャゴは海のことを『ラ・マール』と呼ぶ。これはスペイン語では女性形で海を表すときに使われる。
 対して他の漁師の中には海を男性形である『エル・マール』の名で呼ぶものもいると、作中では述べられる。
 この二つの単語の間にある決定的な違いは、『エル・マール』が男性的尺度で見た場合の海 
ー征服の対象であり、成果とそれに見合う報酬を得る場所であり、自分たち漁師に従属するためにある空間ー 
である一方、『ラ・マール』は女性的大らかさや包容力の象徴としての海 ー恵みを与えてくれたり、またそれを出し惜しみしたりする、駆け引き上手な女性のようでありながら、それでいて海で起きるありとあらゆることを全て受け入れてしまう包容力に溢れた空間ー 
ということになる。
 つまりサンチャゴは海を、気ままだが慈愛に溢れた友人と見ているし、その海の規範に従うことも分かっているし、海とそこに生きるものに最大限の敬意を持って接していることになる。
 だからこそ上記したように、命の取り合いをするカジキに友情を感じたり、洋上をたった一羽で放浪している海鳥に優しい言葉をかけたり、自分が突き殺したサメを気高い存在だと思えたりするのである。
 そうして漁を行うサンチャゴは、本当の意味で海に生きる存在 ー海から搾取せず、海の生態系の中で、魚たちと対等に命の取り合いをする存在ー になっていくのだ。

 身の回りの環境から搾取するだけ搾取することで回っている、現代の社会に生きる我々からすると、海と一体化して生きるサンチャゴは、一介の老漁師という枠を遥かに超えた存在、海そのものかの様に映る。

 しかもサンチャゴの海全体への畏敬の感情は、人間に元来備わっている『相手の立場にたって考えること』と『そこから芽生える相手への共感』から出発している。
 番いの片割れの雌カジキに寄り添おうとする雄のカジキを見て、悲しみから(その当時は一緒に船に乗っていたマノーリンと一緒に)すぐに船の上でカジキを捌いたことは、私からすると、先に妻を亡くしていたサンチャゴが番いのカジキに同情したからと思えてならない。
 また釣り上げたカジキがどんどんサメに食われていく様をみて、

「おまえさんを釣り上げたのは間違いだった。すまんことをしたな、魚よ」

と謝る場面も、死闘の中でカジキに共感し一体化したからこその言葉だし、カジキが食われることはまるで自分の体を貪られるのと変わらないと感じたのではと、私には思えてならない。


 人間的な他者への共感と、海のようにあらゆることを受け入れる包容力 
これを同時に持ち合わせるからこそ、サンチャゴは我々読者に圧倒的な人物として映り、マノーリン少年が尊敬してやまないことにも、その生きざまに涙を流すことにも共感出来てしまうのだと思う。




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 冒頭で書いたドキュメンタリー番組の最後、猟師兼板前の主人が、見せたいものがあるからと、自宅の庭先に取材スタッフを案内してくれた。
 取材スタッフ達がそこに行くと、そこには大きな囲いがあって、大きなイノシシが飼われていた。
 スタッフが困惑しながら尋ねると、主人は恥ずかしそうに
「ちょっと前に、イノシシを一頭仕留めて、そしたらその傍から小っちゃなウリ坊が出てきてね 可愛いし可哀そうだし、そのままにしておくのもなんだなと思って連れて帰ってきちゃったんですよね。。。」
と言い、それからイノシシの頭を優しく撫でていた。

 自分が殺してしまった母親の代わりにウリ坊を育てる主人と、仕留めたカジキを友達だと思うサンチャゴ。二人に共通する、山と海への畏敬の念とそこに住むものと対等に向き合い命のやり取りをすることで生まれる優しさが、自分が6年前に感じていた【動物に対する敬意】の正体なんだと、この文章を書きながらやって分かったことが、なんだかちょっと、嬉しいのだった。

 

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