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カシスタが友達のいない女子高生に教えてくれたこと


1日5食は通常運転!

読者の皆様、はじめまして。食べることが何より大好きな五十嵐メイです。私は美味しいものなら何でも好きですが、その中でもラーメンが大好きです。気になるメニューが複数あるお店は、一回の来店で複数杯食べる「連食」という必殺技を繰り出して、日々食べ歩きのレパートリーを増やしています。「連食」とは、同じ店で2人分を食べることです。要するにラーメンを2杯食べることをいいます。

現在はラーメン好きが高じて、中目黒にある「らーめん惠本将裕」という煮干しラーメンのお店で働いています。大将から厨房を任せてもらい、毎日元気にラーメンを作っています!!!

 そんな私は、茨城県出身の29歳です。父の影響を受け、筋金入りの鹿島アントラーズサポーターになりました。父の影響で娘が筋金入りの鹿島サポになったと聞くと、私の父を「スカジャンを着た怖いおじさん」だと想像した方が多いのじゃないでしょうか?残念ながらと言っていいのか分かりませんが、父は、趣味が散歩と盆栽いじりの在宅サポです。

 これから書くのは10代の頃の私が鹿島アントラーズに救われた話です。

私は高校生の頃から本格的にスタジアムに通い始めます。

きっかけは、鹿島サポの友達に誘われたからでした。

人付き合いが苦手だった私でしたが、鹿島アントラーズに出会ってから沢山の友達ができました。孤独で退屈な休日が、突然賑やかなものになります。週末に仲間と訪れるアウェーの地はまるで、今まで訪れた事のない国を旅しているようなワクワクする体験でした。

しかし、大切な観戦仲間の死と共にアントラーズから離れてしまいました。

それから約10年の時を経て、再びサッカーの旅を始めようとしています。

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何故29才のラーメン女子がサッカー記事を書こうと思ったのか?


 まずはじめに、何故OWL magazineに寄稿しようと思ったのかをお話ししたいと思います。


 大学を卒業してしばらく会社員として勤めた私は、27歳の時に思いつきで退社します。退社の理由は、毎日つまらないなと感じるようになったからでした。毎日職場と家の往復に明け暮れて、友達とご飯に行っても話題がない、そんな自分に嫌気がさしたのです。

退社後は、特にやりたい事もなくダラダラと過ごしていました。激務をこなしていた会社員時代とくらべ、時間にも余裕ができ、ふと思い出したように近場にあった味の素スタジアムに足を運んだのです。

2017年9月30日
FC東京vsジュビロ磐田

 どちらのサポーターでもない私は指定席でのまったり観戦でした。スタジアムに響くチャントやブーイングに、毎週のようにスタジアムの仲間たちと日本中を駆け回っていた頃を思い出して、久しぶりに心が躍りました。スタジアムの空気が好きだな、やっぱりサッカーが大好きなんだと再確認します。そんな中で、サッカーへの思いを、何か形に残す事は出来ないだろうか?と考え始めました。

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OWL magazineとの出会い

 

 とはいっても私には選手として、サッカーをした経験がありません。とにかくサッカーが好きという熱い気持ちしかありません。

こんな私になにができるのだろうか?

ありとあらゆる求人情報などに目を通しました。ネットニュースのスポーツ部門、テレビ局、クラブの広報、日本サッカーミュージアム内のショップ店員など。しかし、あまりピンと来るものはありませんでした。



そんな時にタイムラインに流れてきた、あるツイートが目に止まります。

以前から知っていたベガルタ仙台サポーターの峰麻美さんのツイートでした。インスタグラムでしか見たことがなかった麻美さんのツイートが、たまたまツイッターのタイムラインに流れてきました。

 昭和の女、ヤンマースタジアムで平成にカチコミをかける

元ネタを知らなかった私は、このなにやら不穏なタイトルに吸い込まれるようにして、OWL magazineの記事へとジャンプしたのです。

そこからあっという間に「峰麻美ワールド」にハマってしまいます。


正直この記事を読むまでは、「可愛い女子サポががベガルタ仙台のサポーターにいるな」程度の認識でした。しかしこの記事を読んだ瞬間、「こんな魅力的な記事が書けるなんて、とってもカッコイイ!」と思いました。と同時に、「これだ!!」と思うわけです。自分の言葉でサッカーの魅力を伝えることができたら、なんて素晴らしいことなんだろうかと思ったのです。


「しかし、ライターにははどうやってなるのだろうか?」


全く知識がなかったので、とりあえず調べることにしました。そこで一つの、ライター募集の求人情報が目につきました。


【ライター募集】旅とサッカーに関する記事執筆【運営元不明】

ネットには様々な情報がありました。しかし、「ほとんどの項目が詳細不明」となっている求人情報が、どうしても気になりました。もっともこの時点ではまだ、自分が衝撃を受けた峰麻美さんの記事が掲載されている「OWL magazine」だとは微塵も思っていませんでした。

考えるより先にダメ元で応募してみよう!

私はいつも、あれこれ考えて結局行動せずに終わってしまうタイプなのですが、この時は不思議と行動力にあふれていました。考えるより先に求人情報の中に書いてあった応募方法である「中村しんたろう氏へのDM」を試みました。

DMを送った翌日に、中村さんから返信を頂いたのですが、そこで衝撃の事実が発覚します。なんとこの求人情報は、非公式に掲載されたもので、OWL magazineから発せられたものではなかったのです。

しかし、これも何かの縁という事で、中村さんのご厚意でOWL magazineの概要を説明をして頂きました。そして、一度中村さんと円子さんとお会いさせて頂ける事となりました。

 お二方とお会いさせて頂き、OWL magazineの活動の説明などを受けました。そこで私は、一通りの自分の気持ちを話し終えた後に、中村さんからこんな言葉を掛けていただきました。

物書きの世界では、五十嵐さんの歳から始めるのは決して遅くはありません。経験がなくても一生懸命取り組む事で、これからの可能性は、切り開いていけるものですよ。

一度会社員をドロップアウトし、フリーターを続ける自分に対する周囲の意見は、「この先どうするの?」「もう若くないんだからしっかりしなよ。」という旨のものが大半でした。あまりの忙しさに、楽しさも悲しさも感じず、心が死んでいくような経験をした私にとって、「正社員に戻る」というのは、簡単には超える事のできない大きな壁のように感じました。

そもそも、心惹かれない仕事について幸せなのだろうか?

私の心の中には、いつもこの疑問がありました。しかし、知らず知らずのうちに周りの意見に感化されてしまい、挑戦する事を諦めてしまった自分もいました。そんな心境の中で彷徨い、たどり着いたのが「OWL magazine」でした。

初めて会ったばかりの人達が自分に期待してくれたという出来事は、自分自身を半分諦めかけていた私にとって衝撃的でした。それと、同時にOWL magazineはなんて素敵な場所なんだ!絶対にここで頑張りたいと強く思ったのです。

以上、「何故私がライターを目指し始めたのか」と、「OWL magazineとの出会い」をお話しさせていただきました。

前置きが長くなってしまいましたが、それではいよいよ「10代の頃の私が鹿島アントラーズに救われた話」をさせていただきたいと思います。


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 父の仕事の都合で住む場所を転々とし、再びアントラーズのおひざ元である茨城の地に再び落ち着いたのは私が中学生になる頃でした。私の実家は、全国屈指の交通が不便なスタジアムの最寄駅である「カシマサッカースタジアム駅」まで電車で一本の場所にあります。そこに住むまでに、4回の引っ越しを経験しました。


 私が初めてサッカーに触れたのは、テレビ中継されていた日本代表戦でした。まだ茨城在住で、幼稚園に入る前だったので3歳くらいだと思います。一家揃ってサッカーの試合を見る時間がすごく好きでした。

クレヨンで描いた日本の国旗を割り箸につけ、テレビの前に座ってみんなで応援していました。家族が揃って、お祭りのような雰囲気でテレビを見ていたのでなんだかワクワクしていたのを覚えています。

 
 その後の幼稚園の年長から小学校5年生までは青森県青森市で過ごしました。自転車で学区外の駄菓子屋さんにドキドキしながら通ったり、毎日仲良しの友達と日が暮れるまで遊びました。自転車で側溝に落ちて傷だらけになったり、遊具から落下して病院に運び込まれたり、なかなかのおてんば娘だったことを記憶しています。

 小学校に入った頃に初めてテレビゲームを買ってもらったのですが、私が初めて買ってもらったゲームソフトがこれでした。

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「Jリーグスーパーサッカー'95 実況スタジアム」

1995年にハドソンから発売された、スーパーファミコンのソフトです。どんな内容かというと、ウイニングイレブンのようにプレーヤーを動かしてサッカーをするゲームです。これを買ったのは父でした。

父が野球のソフトを選んでいたら、もしかしたら今頃は、野球のファンだったのかもしれません。

ひたすらこのゲームをやり込んでいたのですが、選択するチームは絶対に、生まれ故郷にある鹿島アントラーズでした。小さい頃から父の影響で、サッカーに触れる機会が多かったのです。 

私が初めて名前を覚えた選手は、呂比須ワグナー選手でした。呂比須選手は1997年から1999年の間に代表歴があるので、小学校低学年のちょうどこの位の時期には、サッカーを見て、選手の名前を覚え始めていたようです。 

 小学校の高学年になると部活動が始まり、運動が大好きだった私はミニバスケットボール部に入りました。学校が終わると体育館に一目散に集合し、日が暮れるまで練習に打ち込みました。友達と過ごす時間も多く、毎日とても充実していた記憶があります。ところが親の仕事の事情で、慣れ親しんだ青森の地を離れることとなりました。


 引っ越し先は、水戸ホーリーホックのホームタウン水戸市でした。ちょうど2002年の日韓W杯の開催年でした。当時通っていた小学校で、「夢の翼」プロジェクトに参加しました。このプロジェクトは、全国の人が折った鶴を、決勝戦の行われるスタジアムで飛ばすというものでした。私は、小学校で配られたFIFAのロゴが入った折り紙を使い、ドキドキしながら一羽一羽丁寧に鶴を折ったのを覚えています。もしかしたら読者の皆様の中にも、鶴を折った方がいるのではないでしょうか?

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 茨城に引っ越してからは、建築中だった家の完成が遅れてしまったため、仮住まいから小学校までが遠く、毎日車で通っていました。その影響で、友達と過ごす時間も青森の頃と比べて格段に減ってしまいました。

この頃から段々と、母が変わっていきます。まだ小学生だったのですが、高校受験に向けて、学歴ばかりを気にするようになっていくのです。結果、高校受験に関わる事以外は挑戦させて貰えなくなりました。

母との衝突で居心地の悪い家の中、やりたい事を思いっきり主張できず自分を見失っていくのに、時間はかかりませんでした。そして、学力不足で親の希望通りの高校に進むことが難しく、親子関係が悪化してしまいます。


 やがて受験本番の中学3年生になった私は、高校受験に向けての冬期講習を受けに家から離れた学習塾に通いはじめました。この時に、私がJリーグに本格的に興味を持ち始めるある出来事が起こります。

朝から夕方まで学習塾に缶詰状態でしたが、お昼の時間は近くの駅前までご飯を食べに行きます。その時に、水戸ホーリーホックの選手達がチラシ配りを行っていました。私が声をかけられたのは、当時所属していた、塩沢勝吾選手でした。

「J2開幕戦があるので見に来てくださいね」

「お兄さん、サッカー選手なんですか?」

「そうですよ!」

「サインください!!」
 

どなたかも知らないのにサインをお願いしていまうミーハーな中学生でした。塩沢選手は、丁寧に試合の説明をしてくれてサインもしてくれました。サッカー選手から直接サインを貰ったことに、とても感動した記憶があります。

今まで以上にJリーグに興味を持ち、その足で本屋さんに向かいました。スポーツコーナーに並んでいる雑誌の中から適当にサッカー雑誌を手に取りました。しかし、当時売られていた主要なサッカー雑誌で大きく取り扱われていたのは、J1の鹿島アントラーズでした。

何となく存在を知っていた事もあり、最寄りの駅にはオフィシャルショップも有ったので、自然とそのまま鹿島アントラーズのファンになりました(丁寧に説明してくれた塩沢選手ごめんなさい)。といってもまだ、雑誌を読んだりテレビで試合を見るだけでした。


 私は茨城に戻ってきてから、母親の教育方針で友人と関わる事をほぼほぼ禁止されていました。それでも休みの日は友達と出かけたりしていましたが、次第に母と言い合いになるのが面倒になり、私は段々と人と関わる気力をなくしていきました。 

 友達と遊ばせてもらえない休日にテレビでサッカーを見る。自分の部屋で、サッカーの雑誌を片っ端から読み漁る、そんな時間だけが私の中で唯一心が休まる時間でした。

 そのような状態で進学した高校では、どうやって人と接していいのか分からずに、クラスにあまり馴染めませんでした。そんな中で、隣のクラスのアントラーズのサポーターの女の子と出会います。そして、「鹿島が好きなら一緒にスタジアムに行こうよ!」と誘ってもらうのです。それは、今まではテレビ観戦が中心だった私が、初めてスタジアムに行くことになるキッカケとなった出来事でした。休日は一人で過ごすのがデフォルトだった私が、数々の旅を共にする最初の仲間と出会った瞬間でした。

 
初めてのカシマサッカースタジアム

 今までは、初詣で鹿島神宮に行く途中にあるスタジアムを外から眺めるだけでした。しかし遂に、中に入る時が来ました。試合のない日のヒッソリとしたスタジアムしか見たことのなかった私は、入場してビックリしました。

囲まれたスタジアムの中は、まるで外とは別世界でした。

スタンドの中に入ると、天井から見える気持ちのいい青空

コンコースいっぱいに並ぶスタジアムグルメ

サポーターが試合への期待を膨らませ、どこかソワソワしている雰囲気

スタジアム全体が作り出している非日常的な空間に圧倒されると同時に、心の底からワクワクしました。

壁に囲まれているのに内部は活気があって、まるでお城みたいだ!!!

当時ハリーポッターにどハマりしていた私は、城壁を超えてホグワーツ城の内部に入ったような気持ちでした。

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初めてのスタジアム観戦は、ゴール裏でした。当時高校生だった私にとって、指定席は「お金がある大人が座る席」という印象だったので、1番金額の安いサポーターシートしか選択肢がありませんでした。そんな流れで私は、チャントを予習する事もなくゴール裏に向かってしまったのです。

しかし、テレビで試合を見ていたおかげで自然と応援歌が歌えました。そして、初めてのゴール裏にも関わらず抵抗なく溶け込めた記憶があります。

友人が少ない私にとっては、大人数で同じ歌を歌い、飛び跳ね、応援し、見ず知らずの人とゴールの瞬間の喜びを分かち合う体験が、とても新鮮なものだった事を覚えています。

そして、試合後に物理の先生とスタジアムで出会ったことから私のサポーター人生は始まりました。


学校ではもの静かで怖いと評判の先生でしたが、ゴール裏では試合結果にみんなと一喜一憂する、とても熱いサポーターでした。それまでは積極的に人と関わってこなかったので、人と関わる事に苦手意識のあった私でした。しかし「人間は共通の話題を見つけると、あっという間に距離が縮まるものなのだな」という事を知りました。


 先生は、10名前後のグループで観戦しているという事で、仲間に入れてもらう事となり足しげくスタジアムに通う事となったのでした。

アントラーズが好きなグループは、人付き合いが苦手な私にとって居心地のいい場所でした。

朝早くから開場までの時間は、各々持ち寄ったお土産などを食べるのが楽しみでした。開場後からアップ開始までの時間は、カシマの豊富なスタグルを食べ尽くし、好きな選手の話をして過ごしました。休みの日が退屈で寂しいものだった私にとって、楽しくて楽しくて仕方がない時間でした。


誕生日に千葉へと遠征した時に、田代有三選手が投げたTシャツをゲットしたのをみんなで喜んでくれたり、大阪遠征の際には、大好きなお姉サポさんがお寿司をご馳走してくれたり……。


学生時代は本当に可愛がってもらいました。でも実は、こんなによくしてもらっていいのかなという気持ちもありました。積極的に人と関わってこなかった手前、こんなに多くの人の厚意を受ける機会もなく、戸惑いも有りました。私は知らずのうちに申し訳なさそうにしていたのでしょう。そんな私にこんな声をかけてくれたサポーター仲間がいました。


「いつかゴール裏に来た年下の子達におんなじ事をしてあげればいいんだよ!」


その言葉は、私の気持ちを軽くしてくれただけでなく、今でも深く私の中に刻み込まれています。


 鹿島アントラーズの応援歌である「Max Volume In.Fight Ⅱ」の中に、こんな歌詞が有ります。

晴れたって雨だってゴール裏に集まろう

学校という限られた空間では、人付き合いの苦手な私でしたが、どんな時もゴール裏に集まれば、心許せる仲間達と会えるのです。そして、休日に一人で過ごす事に慣れていた私は、誰かと過ごす時間があるという事がとにかく嬉しくて仕方なかったのです。


東日本大震災での被災

 私が一人暮らしを始め3年目になる大学生の頃に、3.11東日本大震災が起こります。

食料品の買い置きもなく、私の家の周りのコンビニやスーパーもガラスが割れていて、営業ができる様な状態ではなさそうでした。営業中のコンビニを見つけても、ほとんど買い占められてしまっている状況でした。

とはいってものんきな私は「あー。食べ物ないな。明後日くらいには買えるかな?」くらいの軽い気持ちで、震災直後には、その被害の大きさを実感できずにいました。

幸いにも、携帯電話は繋がりました。同じグループで応援していた東京在住のお兄さんが、心配して連絡をくれたので被害状況を話したところ……。



次の日、お兄さんは電車やタクシーなどを乗り継ぎ、茨城まで山のような食糧を運んできてくれました。

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ほんの一部ですが当時届いた物資の写真が残っていました。

本当に驚いたのを覚えています。交通機関が麻痺している状態で、これだけの物資を届けることはどれだけ大変だったのでしょうか。驚きと、感謝の気持ちで一杯でした。

それから私が大学を卒業するまで、お兄さんには何かと気にかけて頂きました。
 
 お兄さんといえば、学生の頃に新潟に遠征をしましたが、資金節約のために無茶なスケジュールを組んでしまいました。そのため、深夜一番遅い時間の夜行バスをベンチで一人待つ事となりました。

その時に、全身黒ずくめで、聞きとる事のできない怪しい言葉を話す人に、追いかけ回されました。なんとか助けを求めようにも、周りに人っ子一人いない状況で、絶望しかけた私の前に一台の車が止まります。


新潟県警の覆面パトカーでした。

怪しい男がいたので、後をつけていたという事でした。危機一髪の状況で助かった私は、震え上がってしまい、うまく話す事ができませんでした。
その時に、直前まで一緒に試合を観戦していて、一足先に新幹線で帰宅していたお兄さんが、電話で刑事さんとやりとりをしてくれました。


お兄さんとは7個くらい歳が離れていました。しかし、当時学生だった私の友人関係の悩み、就活の悩みなど、嫌な顔一つせずに聞いて頂きました。今の私が社会に出て、人間関係につまづく事が少なくなったのは、本当にお兄さんの助言のおかげです。お兄さんのお姉さんも鹿島サポでしたが、お二人揃って何かと気にかけて頂き、本当に妹の様に可愛がっていただきました。

 心残りなのは、お二人に成人のお祝いなど、数え切れないくらい恩があるにも関わらず、当時学生だった私はその有り難みを十分に分かっておらず、お礼もままならないまま、疎遠になってしまった事です。


C大阪のおばちゃん達の手厚い歓迎

 
2011年3月29日 長居陸上競技場

「東北地方太平洋沖地震」の復興支援マッチが、長居陸上競技場で行われるという事で大阪へ向かいました。
 
 試合は大阪に住むサッカー友達と見る約束をしていました。そして、友達が来るまで、試合前に行われたJリーグ選抜と日本代表の公開練習を見ることにしました。

アントラーズのユニフォーム姿の私に、隣に座っていたセレッソのユニフォーム姿のおばちゃん2人組が突然話しかけてきました。「茨城からきたん?大変やったろ!!これよかったら食べてや!!」と手作りのお弁当を差し出してくれたのです。その他にも、焼きたてのパンや温かいコーヒーも飲ませていただきました。練習を見てるとき、電光のパネルに被災地の名前全部表示されました。当時私が住んでいた龍ヶ崎市や、アントラーズの本拠地である鹿嶋市の名前を見て「あんたんとこやろ。」とセレッソのおばちゃん達が泣いてくれたのでした。

さらに練習後に、選手による募金活動が行われたのですが、そのおばちゃん達は「試合には行けないから、チケット代の代わりに。」と5000円ずつ募金をしていました。当時大学生の私は、時給750円のマクドナルドでアルバイトをしていました。お金はありませんでしたが、代わりに時間は沢山あったので、約2500円で大阪まで行ける「青春18きっぷ」を利用していました。そんな私にとって、5000円は大金に感じ、驚いたのでした。


 鹿島のユニフォームを見ただけで心配してくれて、被災地の事を思い泣いてくれる、そんな心優しいおばちゃん達に出会えたチャリティーマッチでの出来事は今でも忘れられません。

試合内容ははっきりとは覚えていないのですが、キング・カズこと、三浦知良選手のゴールがとても印象的でした。今まで試合を見た中で、このゴールほど印象に残ったものはありませんでした。

チャリティーマッチだった事もあり、敵味方関係なく、全員が総立ちになりカズのゴールを喜びました。

ゴールを決めた瞬間に見せたカズダンスに、サポーターのテンションは最高潮に達しました。ライトを浴びて光り輝く長居のピッチで、躍動したキング・カズの姿を今でもハッキリと覚えています。

セレッソサポーターのおばちゃんとの出会いもあり、とても温かい気持ちで茨城まで帰りました。


Jリーグってなんってスゴイんだ!こんな見ず知らずの人でもあっという間に仲良くなれて、ユニフォームを着ているだけで、色んな人の思いやりや温かさに触れられるってめちゃくちゃ素敵なスポーツだ!!!


当時の心境を忘れたくありませんでした。そこで次の日、茨城まで帰る途中に横浜で乗り換え、横浜FCの練習場に向かいました。そして当日配られたステッカーとチケットに、三浦知良選手からサインを入れて貰いました。

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私がアントラーズから離れた理由


それはある出来事がきっかけでした。

その連絡があった日は、2010年10月13日でした。その日私は、磐田で開催されていた天皇杯の磐田対甲府を観戦していました。試合が後半に差し掛かった頃、鹿島サポのみんなから沢山の着信がありました。

「なんだろう?次の集合時間の事とかそんなことかなあ?試合が終わったら、かけ直してみよう!」と呑気に試合観戦をしていました。すると、今度はメールが届きました。

奈々ちゃんが交通事故で亡くなったので、お通夜とお葬式の連絡です。

このメールを見た瞬間はあまり実感が湧かず、その試合の後も普通に夜行バスで帰ってきたのでした。

グループは違いましたが、家が近かった彼女とは、出会ってから遠征に行く際はいつも一緒でした。しかし、2010年8月28日に行われた浦和戦の後、引き分けに終わったモヤモヤもあり、些細な事で喧嘩になってしまいました。そしてそのまま、ナビスコカップの為の中断期間に入ってしまい、それが彼女と会った最後になってしまいました……。

告別式の際、私が預かっていた「増田誓志選手のタオマフ」を棺に入れさせて頂きました。涙が止まらず、ずっと泣いていた私のところに、面識のなかった彼女のおばあちゃんがきて、「メイちゃんだよね?奈々と仲良くしてくれてありがとうね?ありがとう。」と何度もお礼を言ってくれました。

私はいまだに家族と、友達について話しをしたことがありません。父も母も、私にどんな友達がいるのかなんて知りもしないだろうし、興味もないだろうと思います。それが当たり前だと思っていた私には、凄く不思議な出来事でした。

それと、同時に温かい気持ちにもなりました。奈々とはよく喧嘩もしましたが、奈々が私の事を家族に話してくれていたからです。

後日、彼女のご両親からお誘い頂き、家族みんなでご飯を食べました。おじいちゃんとは一緒に、日本酒を飲みました。ご両親から、奈々が応援の際に着用していたキャプテンマークと、増田誓志選手が当時つけていた番号である14番のリストバンドを預かりました。このキャプテンマークは、彼女が以前から、「わざわざ取り寄せたんだ!」と大切にしていたものでした。その後は試合に必ず、その二つを持っていくようになりました。


彼女が亡くなって、最初の試合はアウェーの湘南戦でした。朝から湘南に向かい、開門までサポーターの人達と談笑したり、挨拶をしたりしていました。すると、今まで話したこともなかったインファイトの皆様が、「大丈夫か?今日は絶対勝とうな!」と、代わる代わるに声を掛けてくれました。

私とは正反対で社交性があった奈々は、中心部のサポの方々との親交もありました。そんな彼女の為に、湘南戦のゴール裏では喪章が配られました。湘南戦の時のコールリーダーの肩にもしっかり喪章が付けられていたのを覚えています。

鹿島アントラーズのインファイトと言えば、Jリーグ屈指の過激派組織として名を馳せております。他チームのサポーターからはもちろんの事、鹿サポの中からも「近寄りがたい」と言う声も時折聞きました。そのインファイトが奈々の友人である私に声をかけてくれたり、喪章をつけたりした事に驚きました。

その後、私は一人でスタジアムに向かう事で、奈々との別れを思い出し暗い気持ちになってしまうようになりました。一人でスタジアムまで向かう道中がとても寂しいものに感じてしまいました。喪失感が埋まらないままでしたが、なんとか2010年のシーズンを終え、翌シーズンの開幕戦に奈々のご両親と遺影を持ってゴール裏で観戦したのを最後にアントラーズから遠ざかる事になりました……。


再び鹿島アントラーズへ

2019年9月14日 カシマサッカースタジアム

 この試合はFC東京との首位決戦でした。この日は仕事が休みだったので、久しぶりに鹿島の試合に行こうと思い立ちました。気まぐれに思いついた急な観戦で、しばらく鹿島を離れていた事もあり、ボッチ観戦を覚悟していました。すると、以前から知り合いだったゴール裏のサポーターさんからSNSで、「大事な試合なので、俺たちのグループで一緒に戦いませんか?」とお誘いを頂きました。それ以前も、何度かゴール裏へのお誘いをしてくれてる方はいたのですが、ずっと断っていました。しかし何故かその時は、素直に「ゴール裏へ行こう!」と思えたのです。

2011シーズンの開幕戦以来のゴール裏でした。新加入選手の個人チャントが曖昧になってしまうなど、多少のブランクは有りましたが、久々チャントを歌い、飛び跳ねての観戦は楽しいものでした。そして、相手陣内にボールを持って駆け上がる、選手の背中が輝いて見える鹿島のゴール裏からの景色はとても懐かしく、特別なものでした。そしてこう感じたのです。


どんなに高価な席よりも、やっぱり「サポーターズシート」ここが一番の特等席だ……
 

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思い返せば学校での私は、人と関わる事が苦手で他人を思いやる心が欠けていたため、クラスから浮いてしまいました。

林間学校でのグループ登山は、仲間に入れずに一人で登りきりました。キャンプファイヤーの時の花火も、分けてもらう事は出来ませんでした。林間学校の最中にストレスで起き上がれないほどの腹痛に襲われました。相談できる相手も居なくて、自分の悪い部分を理解できずに、クラスメートとの溝は深まるばかりでした。

しかし、人付き合いが苦手な私をそのまま受け入れてくれて、人と関わることの素晴らしさを教えてくれたのは、鹿島アントラーズのゴール裏でした。

大人になった今、何度もつまずき、挫けそうになった時に支えてくれているのも、当時サッカーを通して仲良くなった友達ばかりです。

私は今現在、大好きな友人たちに囲まれて幸せな毎日を送っています。

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鹿島サポの方から教えていただいた優しさや、人を思いやる気持ちは、今の自分を取り巻く幸せな環境を作るのには、本当に大切な事でした。

正直なところ今自分が、「沢山の人から幸せをもらっている」と、堂々と人前で発言できていること自体に驚いています。

あの時声を掛けてくれた、塩沢勝吾選手が居なかったら……      

スタジアムに誘ってくれた隣のクラスの女の子が居なかったら……

私を受け入れてくれた鹿島サポのみんなが居なかったら……

セレッソのおばちゃん達に出会わなかったら……

奈々と出会うことがなかったら……

もし、鹿島アントラーズと出会う事がなかったら、私は今でもすごく寂しいまま、退屈で心の貧しい生活を送っていた事でしょう。



新たなる旅立ち

 

 皆さん自分のホームタウンは好きですか?自分の地元にあるチームを応援している人、そうでない人と様々な人がいると思います。私は、自分の地元にあるアントラーズだから応援したいと思っていますし、地元の誇りだと思っています。

しかしながら、Jリーグ屈指の強豪チームがあるにも関わらず、私の地元の茨城県は7年連続で「都道府県魅力度ランキング 最下位」という不名誉な記録を更新し続けています。

私自身も、20代前半は「こんな田舎、二度と帰るもんか!」と考えていました。

今までは、地元にある景色のいい場所や、美味しそうなお店などは、「どうせ行くにも、移動手段が無くて不便だから……。」と、調べることもしませんでした。しかし、ホームタウンにある美味しいお店を積極的にSNSで紹介したり、試合の後にみんなで食べに行ったりするサポーター仲間のホームタウンとの関わり方を見て、段々と考え方が変わっていきました。そして、自分自身でも積極的にホームタウンにある、行ってみたい場所を調べることにしました。茨城県のいいところを発見していくうちに、私自身が自分の地元である「茨城県」を段々と好きになっていきました。

カシマサッカースタジアムの2019年度の平均入場者数は、20569人でした。毎試合、これだけの人数の人が鹿嶋市に足を運ぶのです。アントラーズは、地元出身者以外にも愛されているチームです。だからこそ、県外の方に一つでもいいところを発見して帰っていただけるような事を、これからOWL magazineで発信していけたらと思っています。

不便なスタジアムでも、沢山の人にカシマに行ってみたいと思っていただけますように……。

茨城の魅力を探して、いざ出発!!!!

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以下有料部分では、鹿島アントラーズのホームタウンにある、景色の綺麗なお気に入りスポットを紹介させて頂きたいと思います。試合でカシマにお立ち寄りの際は行ってみてください。

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OWL magazineでは、毎月15~20程度のサッカー記事や、旅記事が更新されています。Jリーグだけでなく、JFLや地域リーグ、海外のマイナーリーグまで読んでいるだけで自分も旅に出たくなるような記事が盛りだくさんです。
アウェー遠征の際のガイド代わりに使うもよし!毎日の通勤時間に読んで、旅に出た気分になるもよし!

私もこれから頑張って書いていくので、ご購読をよろしくお願いします。

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サポーターはあくまでも応援者であり、言ってしまえばサッカー界の脇役といえます。しかしながら、スポーツツーリズムという文脈においては、サポー…

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