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人の事を勝手に可哀想とか思わないこと。

唐突なんですが、私にはピアノの好きな曲があります。

ラヴェルの「水の戯れ」です。

小学校の教科書に載っていて、昔から好きな曲。

大人になってからも、時々はYOUTUBEで検索して聴いていました。

ピアノというのは、同じ曲でも弾く人によって随分違うように聞こえるもんです。それは速いとか遅いとか、強い感じとか弱い感じとかそんな簡単な違いではないです。(中にはそういう人もいる)


ある時、これは…!と思うような人がいました。

ビビビっ!って電気でも走るような。今までイメージがあった訳でもないのに「これだ!!!」と思いました。

小川の水面が太陽の光に照らされて、キラキラとどこまでも流れているような…。

YOUTUBEは動画なので、勿論弾いてる姿が映っているわけなのですがその人は目を閉じているようでした。

他の動画を見てみると、他の人につかまる形で退場していかれたのでそこで初めて瞳は映ってらっしゃらないのだと気づきました。

楽譜を読まずに、見ずに、鍵盤も見えないまま演奏してらっしゃる事は勿論なんでしょうが…「この人の中にある、水はどんなだろう?」目を閉じてそんな事ばかり想像してしまいます。

空が飛べたらどんなだろう?

とか

こんな風に上手に歌えたら気持ちがいいんだろうなー

とか…素敵な人や、存在を想像(妄想でもある)しちゃう時ってないですか?(え、もしやない…?笑)

そもそも、目が見えないとか、耳が聞こえないとか…そういう事を不自由という事が、見たり聞いたりしていてなんか嫌な気持ちになる。

そういう方のドキュメンタリーなどがあると必ず湧いてくるのが「健康に生まれてきた事に感謝しないといけないと思った」というような書き込み。

自分は貴方みたいじゃなくて良かった

って言っているようで、心底気分が悪くなる。

目が見えて、耳が聞こえて、歩けて、手があって指があって…そういう人が多いからそれが普通だとなんとなく思ってしまうかもしれないし…そういう事に感謝するのは別に構わない。

でも普通じゃなかったら、可哀想とはならないんじゃ…?

当たり前の事に感謝するなとは言ってない、そもそもどんな人にとっても当たり前の事など一つもないのだから、楽しかった時や、ふとした時、人生や誰かに感謝したっていいと思う。

目が見えないとか、耳が聞こえない事(その他もろもろ)がその人にとっての普通なのに、勝手に自分は良かったーなんて、普通に歩いてたらいきなり殴られるくらいの「は?」だと思うんですよね。

自分以外の人の事を不幸だ幸せだなんて、誰も決める事は出来ない。

その人の何を知っているというのか。

どっちが良い悪いとかではなくて、

私達はお手伝いする側として生まれてきたに過ぎない。

高い所にある物が取れない時、背の高い人に代わりに取ってもらう。

わからない事をわかる人に教えてもらう。

持ちつ持たれつ、出来ない事は出来る人が手伝おう…それだけなのではないのか。


可哀想な人なんて、本当はこの世界のどこにもいないと思ってしまう。

可哀想な人を作り出してるのは、自分が気持ち良くなる為に誰かを決めつける人なんじゃないかと思うんだ。

宜しければ素晴らしいピアノを是非聴いてみてください♪

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お腹いっぱいシャウエッセンが食べたいです。