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読切小説/雨の話_20210625

「雨が笑っている、雨が笑っている」もう何日も降り続く雨空を見ながら、真一がはしゃいでいる。

真一は家の屋根裏部屋で暮らしている青年で、生まれたて5年が経ったころ、いよいよ心配した母親が秘かに隣町の医者に診せた翌日から約20年間、屋根裏だけで生きていた。だから真一が知っている世界は、5歳までの記憶と、この屋根裏と、孫の一生を不憫に思った祖父が拵えた小さな明かり取り用の窓から見える空だけだった。

「雨が笑っている、雨が笑っている」真一は祖父の形見の襤褸の着物をだらしなく体に巻きながら、同じく祖父の形見といえる小さな窓から空に向かって語りかけていた。下では、あぐらをかいて粟を食っていた父親が屋根裏に向かって「うるさいぞ」と怒鳴っていた。父親が怒鳴ると声は一旦は止むものの、しばらくするとまた「雨が笑っている、雨が笑っている」とはしゃぐ声が聞こえた。堪忍の切れた父親が真一を殴りに行こうとするのを母親が必死に止め、母親は屋根裏に上がって「お願いだから静かにしてちょうだいね、静かにしてくれたらご飯をあげますからね」と言い真一を黙らせようとした。しかし二日経っても四日経っても静かにならないどころか、空腹のせいで狂気じみた声に益々腹を立てた父親が、結局殴って真一を黙らせた。

真一の家は米農家であった。真一の家だけではない、この辺りの集落は皆、見渡す限り慎ましい米農家であった。冬にはたんまりと雪が降り、毎年何人も雪で死人の出る地域であったが、先の冬は、なぜかほとんど雪が降らなかった。雪の無い、秋の延長のような冬に、真一の両親は農家仲間と「おかしいねえ」「水不足にならないといいけどねえ」などと言いながらも、心の奥には「暮らしやすくて有難いもんだ」という気持ちを隠していた。真一だけがひとり、高く澄んだ空を見ながら「雨が泣いている、雨が泣いている」と心の底から憂いていた。

春が来て、豊穣の祈りと田植えが終わり、雨の季節がやってきた。やはり冬の雪不足で水が少なくなっていたので、真一の両親は雨を喜んだ。雨は強まりも弱まりもせず淡々と降り注ぎ、両親はたっぷりと潤う大地を見ながら、毎日喜んだ。7日経っても、雨は降り続いていた。両親は「今のうちにたくさん降ってくれれば安心だ」と言って満足そうに空を見ていた。この時、真一は誰も聞き取れないほどの声で「雨が笑っている、雨が笑っている」と嬉しそうにささやいていた。

14日が経ったが、雨は1日も休むことなく降り続けていた。気を緩めた母親が「あまり長雨にならないと良いけど」と漏らすと、父親が「縁起でもないことを言うな」と怒鳴りつけた。その真上では、両親の喧騒など耳に入っていない真一が、相変わらず嬉しそうに「雨が笑っている、雨が笑っている」と言って笑っていた。

それから雨はひと月降り続けた。集落の人々は、幾度も雨を止める祈りを捧げ、皆で資金を出し合い遠くから力のあると言われる祈祷師も呼び寄せた。それでも雨は止まなかった。この頃には真一の声は集落に住む全員の耳に届いていた。いくら殴っても、口を縛っても、真一は声とも言えないような声で「雨が笑っている、雨が笑っている」と嬉しそうに叫び続けた。父親はある夜、母親を近くの親類の家に行かせ、その隙に真一を山の上に連れて行った。目隠しをして山を登らせ、尾根を越えたところで口を縛った真一を坂の下へ突き落とした。父親は転がり落ちる真一を見届けることなく、逃げるように走って家に戻り、暑さも忘れて布団を頭から被ると目を閉じて朝を待った。

雨はまたひと月降り続けた。もはや人々は祈りを口にする気力さえ無くし、雨の音だけが日の光に見捨てられた集落を重々しく包んでいた。

そんな時、誰かがぽつりと「人身御供」という言葉を発した。どこかの誰かが呟いた言葉は、集落にとって日に変わる光となった。人々は恐れるフリをしながら、嬉々として隠していた心の堤を取り払い、取り憑かれたように熱狂して「人身御供しかない、人身御供しかない」と言った。ついに誰かが「誰がやるんだ」という問いを投げかけた時、人々は目線を泳がせながらも迷わず真一の父親を見た。

父親は人々に3日だけ待ってくれと言うと、真一を捨てた山に入った。もう生きてはいまいと思っていたが、一縷の望みをかけて必死に真一を探した。もし真一が見つからなかったら、自分だけでこのまま逃げるつもりだった。昼も夜も父親は森を探し回り、3日目の朝に聞き慣れた呻き声のような音が耳をかすめた。切れ切れとした音を頼りに行くと、沢のそばの木の元に、見慣れた着物を身につけた人間のようなものか蹲っていた。

真一はひと月ぶりに集落に戻ると、20年ぶりに風呂に入り、新しい着物を着せられ、膳にのった食事を与えられた。知らない人々が変わるがわる真一の前にやって来ては手を合わせ、横では父親と母親が優しく真一の手を握ったり頭を摩ったりしていた。真一は5歳の記憶を呼び覚ましながら、天にも昇るいい心地で「雨が笑っている、雨が笑っている」と唄った。


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