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読切小説/忘れられない人RtoS_20211021

 私は薄情な人間なのだ。
 3年ぶりに訪れた三宮駅で、熱いブラックコーヒーを飲みながらそんなことを考えていた。
 帰省をするたびにこの駅のスターバックスに入るのが、いつの間にか決まりになっていた。札幌のマンションからここまでは、電車と飛行機とバスを乗り継いで、短くない時間と安くないお金をかけてやって来る。あとは私鉄を3駅乗り継ぐだけで実家だというのに、私はいつもここで、まるで立ち止まるように寄り道をしてしまう。
 きっと実家に帰るが億劫なのだ。いつの頃からか、他の誰でもない私という存在になるのが、私はひどく億劫になっていた。
 私は薄情な人間なのだ。私にとってはローストの強すぎる苦々しい液体を口に運びながら、私は心の中でつぶやく。

「君は薄情なんだよ」
 一年前に別れた恋人は、ひどく傷ついた顔を私に向けてそう言った。6年という歳月をともに過ごした彼の、まるで自分だけが不幸を知っているような顔を、私はひどいことに、面白いな、と思ってしまった。
 自分では気が付かなかったが、確かに言われてみればそうなのかもしれない。過去の恋人たちとの喧嘩も別れも、薄い記憶を拾い合わせれば、ほとんどが私の薄情さに起因しているような気がする。
 みんな、私を大切にしてくれていたのだ、彼らなりのやり方で。でも私だって彼らを大切にしていた、私なりのやり方で。

 いつかの恋人は、私が貰いものの食べ物を捨てるのが気に入らなかったらしく、私たちはそのことでよく小さな喧嘩をした。
「だったらあげるよ」
 どちらも絶対に食べないような代物を私が彼に差し出すと、彼はたいてい
「そういう問題じゃないよ」
と言って、貰ったものをすぐに捨てるなんて良くない、というようなことを説いた。
 そのため大抵の場合私は、貰いものの食べ物を部屋の隅に置いたまま、それが腐って食べ物で無くなるのを待つことになった。どうしようもなくなったもの捨てることには、彼も異論は示さなかった。

 またいつかの恋人は、私が物を欲しがらないことが気に入らなかったらしく、私たちはそのことでよく小さな喧嘩をした。
「ねえ、楽しくないの」
 デートではよく買い物に行った。私は物を増やすのが好きじゃなかったけれど、買い物を楽しむ彼の横で綺麗にディスプレイされた商品を見て歩くのは楽しかった。だから一日の終わりに紙袋を下げているのは彼ばかりで、私は何も持っていないことがほとんどだった。
 物を持つのが好きじゃないの、私は買い物好きでコレクター気質の彼に、出会ってすぐにそう話してあった。お互いを傷つけ合わないためにも、お互いの価値観ははっきりとさせておいた方がいい気がしたのだ。
「そんなことない。私は見てるだけで楽しいの」
 そう言って、私はそばにあった熊の置物を触った。かわいい、という言葉を添えて。それは繕ったわけではなく、本当にかわいい置物だった。
「じゃあ、プレゼントしてあげる」
 そう言った彼はたしか、自信に満ちた顔をしていた。私を喜ばせようとする優しさと、私を喜ばせるられるという確信に、疑いを持たない顔だった。あれがふたりの幸せの限界だった。

 私の薄情さは、物だけに限ったことではない。
 学生時代の同級生の名前はもうほとんど覚えていないし、過去の恋人たちのフルネームだって思い出せない。
 18年暮らした兵庫からわざわざ北海道の大学へ行ったのも、なんとなく遠くへ行ってみたかったからだ。その後北海道に居着いているのも、なんとなくの成り行きだった。気づけば18年になる北海道暮らしも、楽しい思い出はたくさんあるものの、寒すぎる冬や豊かすぎる自然への煩わしさの方が優っていた。
 きっと結婚も子育てもしないのだろう、こちらから何も言わなくても周囲がそう悟ってくれる年齢にもなった。前回の面談で出した異動願いはきっと通る、それも高待遇で。会社にとっても、経験のある社員が異動を引き受けてくれるのは、ありがたいことなのだ。全国勤務の可能性がある会社を選んだのは、ひと所に留まらないことを望んだからだった。

 真一は何を考えながら、今どこで何をしているのだろう。
 もう熱くはないコーヒーを、それでもちびちびと口に運びながら私は考えていた。
 思えば私は、なにかの節目になると必ず同じことを考えている。北海道へ行くと決めた時も、関西には戻らず就職をした時も、恋人ができた時も、そして別れた時も。今は、きっと間も無くやって来るであろう新天地への異動を前に、真一のことを考えている。
 小中高と、真一とは同じ学校へ通った。学生時代の記憶のほとんどを失っても、真一との思い出はなぜか私の中に残っている。真一との思い出を呼び起こすたび、私は、過去に酔っている、と自嘲することを忘れない。真一と自分の間に、もう未来はないのだ、と断定することも。その儀式をもった上で真一を思い返すことは、とても楽しい。
 お互いを気にもしなかった小学生時代。ふざけ過ぎて、ふたりで授業中に叱られた中学時代。そして、高校時代。私は最後まで高校に馴染めなかった。入学式の日、三宮駅を降りて学校の門をくぐった瞬間に、ここは私の場所じゃないと分かった。でも真一は真逆だった。真一が表立って彼女をつくらなかったことが、私の高校生活の唯一の救いだった気がする。遠くの大学へ行こうと思ったのは、もしかして真一から逃げるためだったのだろうか。

 なんという時代。なんというものを生み出してくれたのだろう、と思う。
 比較的柔軟になんでも受け流せる性格だったため、便利になったけれど煩わしさが増えた、というありがちな意見を、私はどこか他人事のように聞いていた。でも同窓会の連絡で真一のSNSページを知ってしまった時、私ははじめて煩わしさの意味が分かった。
 青春時代の瑞々しい思い出として補完されていた真一は、突然、今の私と同じ年齢の大人の真一として実体をもって現れた。せっかく、噂もなにも届かない遠くへ行ったというのに。
 画面の中の真一は、あの頃の真一よりも確かに歳をとっていて、そして少し悲しそうだった。それを見た時の私は、本当に勘弁してほしい気分になった。いっそ他の同級生たちのように、子供や結婚式の写真にでもしていてくれていた方が気が楽だった。
 それなのになぜ真一に限って、こんな姿をしているのだろう。

「璃子」
 私を呼ぶ真一の声を、私ははっきりと思い出せる。
 私をそう呼んだのは、家族以外では真一だけだ。名前を呼び捨てにされることを拒否したことはない。でもそう呼ばせないガードを、私は無意識にしていたのだと思う。友人も同僚も、恋人ですら、私を苗字や愛称で呼んだ。
 嫌だったのだ。私のことを理解していない人間が、私のことを知ったように呼ぶのが。分かったように扱われるのが、耐えられなかった。

 スターバックスは全国どこでもスターバックスだ。北海道でも、沖縄でも、きっとニューヨークでも、北京でも。ここにいれば私はいつだって『スターバックスでコーヒーを飲んでいる女』という、どこにでもいる誰かになれる。
 そんな匿名性は、薄情な私を安心させてくれる。
 もちろん三宮駅のスターバックスもそうだ。だから実家に帰る前はここで立ち止まりたくなるのだ。私はずっと、そう思っていた。
 でもきっと違った。このスターバックスだけは別だった、はじめて立ち止まった日からずっと。なぜならこの駅には、真一の気配が溢れているから。

 私はスターバックスでコーヒーを飲んでいる女のふりをしながら、私であることを強く自覚して、発信している。私はここにいる、と。たったひとり、真一に向けて。
 ガラスの向こうには、人混みがある。コーヒーはすかり冷めて、もう僅かしかない。これを飲み終わったら、私も人混みの一部になる。
 でも私は待っている、あの声が私を呼ぶのを。
 
 
 

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