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読切小説/旅_20211030

 あの人といえば赤い壁。それから黒い革張りのソファーと病院のような匂い。右手のクラゲと、左手の花。
 長い時間見つめていた間に、あの人の絵柄は見ればわかるようになった。
 幾何学的で、美しくて、どこか反抗的。その抽象的な自由さの裏に隠れている、圧倒的な怒りと悲しみ。引力からの解放。
 17歳の僕が好きになるには十分すぎた。

 優等生街道を進んでいたはずの姉が突然蒸発するように外国へ消え、全身にタトゥーを入れて戻ってきたのは、姉が27歳で、僕が17歳の時だった。
 姉が消えた時の父と母は、夜な夜な「私たちの育て方が悪かった」と「でもそんな子に育てた覚えはない」という自己否定と自己肯定を繰り返し、当時小学生だった僕は真っ当な顔をして矛盾を言い続ける両親を見て、ふたりとも気が狂ってしまったのかと心配した。理想と現実をうまく処理できていない状況下において、僕が姉とちがって両親の期待を受け止めるほどの器を持っていないということが早々に判明したことは、唯一の幸いだったと思う。両親は自己矛盾を抱えがちだけれども馬鹿ではない。かくして、僕は勉強さえできていれば他の事は大目に見てもらえるという比較的のびのびとした環境で10歳を過ごしていた。
 ただし両親はその間も自己否定と自己肯定を繰り返していた。
 7年ぶりに会った姉は、想像していたよりもずっとすっきりとした目の大人になっていた。僕も両親もてっきり退廃的なパンクロッカーのようになっていると思っていたのだ。だがたしかに姿はパンキッシュな外国文化にカルチャライズされてはいるものの、ネイリストとして立派に社会的地位を持っていた姉はもう昔のように周囲に忖度する子供ではなくなっていた。
「ただいま」
 外国という未知の世界でいっぱしにやってきたという現実の匂いをぷんぷんさせながら姉が堂々と言い切ると、父と母も何も言えなかった。かろうじて発することができた「おかえり」の一言を持って、両親と姉の間にあった7年の空白は、なかったことになった。それはつまり、姉の勝利だった。

 初めて店を訪れたのは姉に連れられてだった。
 平日の真昼間の電車は空いていた。学校をさぼって、外国そのものみたいな姉と一緒に街に出ることは、僕にとっては外国に行くことと同じだった。わくわくしすぎて落ち着かないし、ありったけの虚勢を張りたい気分だった。
「学校どこ行ってるの」
「姉ちゃんと一緒」
「私のせい?」
「違うよ、自分で選んだんだ。勉強さえできてれば何も言われないから。それは多分、姉ちゃんのおかげだよ。だから姉ちゃんには感謝してる」
 姉の喋り方は昔と変わっていなかった。静かで、思慮深い。でも昔のままではない。たぶん目の前にいるのは、色々な経験を通して何度も生まれ変わった末にできた、洗練されて雑味のとれた姉なのだ。
「でかいね、音楽やってるんだって」
 田中さんのことはすぐに好きになった。
 田中さんは姉がフリーランスのネイリストとして場所を借りることになったタトゥースタジオのオーナーで、見た目は怖いが話すと穏やかな感じのする人だった。緻密さとラフさ、強さと優しさのコントラストが、どことなく今の姉と似ていた。
「バンド?楽器は?」
「バンドです。元々はキーボードで最近はギターとボーカル」
 どこでやってるの、と聞かれ、僕は溜まり場にしているライブハウスを答えた。
「ああ、僕も若い頃に出してもらったことがあるよ」
 田中さんはそう言いながら、立て掛けてあったギターを一本僕に渡し、もう一本を自分で抱えた。そしてシンプルなリフを弾きながらワンフレーズ歌った。言葉よりも先に行動する大人を、僕は初めて見た気がした。
「真一くんはどういうのやってんの」
 そう言われて僕も自作の曲をワンフレーズ弾きながら歌った。曲については何も言われなかったが、田中さんは僕の声と歌詞をかなり気に入ってくれた。こうして僕は店に頻繁に顔を出すようになり、店の常連の音楽家たちと交流することになり、この店は僕の人生の分岐点となった。

 17歳の僕は17歳らしい無邪気さで、璃子さんに懐いた。
 璃子さんの境遇はだいたい姉と同じで、海外で修行をして、今は日本で、田中さんの店に籍を置いて活動している。私のはほとんど璃子ちゃんに彫ってもらってるの、そう言って姉は僕を璃子さんに紹介して、璃子さんは僕を見た。その時の僕は17歳で高校3年生で、世間の物差しでは子供の部類に入れられたのかもしれないけれど、でも璃子さんに見つめられた僕はもう立派に男になっていたと思う。
「なんでタトゥーを彫ってるんですか」
「最初はグラフィクデザイナーになりたかったの」
 璃子さんとの会話は静かにおこなわる。僕の捉えた限りでは璃子さんは僕のことを子供扱いしなかったし、僕も自分を子供だとは捉えていなかった。口数の少ない人間同士、一対一のコミュニケーション。
「なんで海外に行ったんですか」
「大学にアートを学びに行ったの」
 大学、17歳、僕もすっかり何かを決めなければいけない歳になっている。でも僕はできるだけ色んなことを、先伸ばしにしたいような気持ちになる。
 仕切りの向こうから呻き声が聞こえる時には、必ず璃子さんのどこか楽しそうな話し声も聞こえた。
「18になったら、僕も彫ってください」

 結局、大学に進学した。
 両親は僕の進学が決まったことを大袈裟に、気でも狂ったのかと思うほど過剰に、褒めてくれた。半ばあきらめていた息子が、親戚中で、姉を除いて、一番いい大学に行くのが相当に嬉しかったらしい。
「すごい、偉いわね」「よく頑張ったな」
 でも僕は、自分は何もすごくないし偉くないし頑張ってもいない、従兄弟のあの子の方がよっぽど頑張っていた、もし大学に行かなかったら両親は僕をどんな風に評したのだろう、そんなことばかり考えていた。両親の喜びに上手く付き合うことすら出来ない自分が、ひどく子供に思えて嫌だった。
「なんで国境があるか分かる?」
 姉は大したことでもないように言った。
 姉は帰国してひと月で自分の部屋を借りて実家を出てしまった。それは初めから決めていたことらしい。両親が姉に、周りには留学をしてそのまま外国で就職したことになっている、と言った時も、姉は大したことでもない様子だった。
「文化の違いは埋められない」
 隣には璃子さんもいて、僕らは3人で店の裏でタバコを吸っていた。
「だってどちらも間違っていないんだもの」
 ここの店にいる人は、みんな無口な人が多い気がする。僕らは煙が乱れないほどの沈黙の中で、ぽつりぽつりと言葉を交わしていた。
「だから距離を置くしかないのよ、ボーダーは悪いことじゃない。良好に共存するためなの」
 姉の横では、璃子さんが黙ったまま頷いていた。
「無理に共存しようとすると、傷つけあってしまう。そうやって傷つけあうことは、仕方がないことだと思うの」
 姉は言葉を選びながらも、明確な意志を持ちながら話をしていた。
「でも、傷つけようとして傷つけるのは良くないわ。傷つけるつもりで傷つけたそれは、お互いに忘れられない、解決できない傷になる」
 私もそう思う、と璃子さんが煙を吐きながら言った。
「だから真一、傷つけたくなったら、もうそこから離れなさい。それは悪いことじゃないわ。離れて、会い時だけ会いに行けばいい。そうすれば、何度でも仲直りできるし、いつまでも笑顔で会える。旅と同じよ」
 旅と同じ、という言葉の気楽さが僕には嬉しかった。

 アルバイトで暮らせる場所は、古くて汚いアパートしかなかった。クーラーも、冷蔵庫も、洗濯機もない四畳半。あるのは禿げた畳と滲みだらけの天井、誰かが置いていってくれた埃だらけのカーテン。どこか遠くの世界だと思っていたような場所に、僕は暮らした。
 雑な手続きで鍵を受け取ってこの部屋に入った時、反対した両親の気持ちがよくわかった気がした。
 部屋とアルバイトとスタジオと店、たまに大学を行き来している間、僕はずっとお腹が空いていた。それまでどこか見下していたカップ焼きそばやコンビニの揚げ物を、心底美味いと思った。
 はじめて実家に帰ったのは、3ヶ月後だった。両親はなぜかとても嬉しそうで、僕は母の作ってくれた美味しい食事をガツガツと食べた。両親は僕にどんどん食べ物をすすめてくれた。そして僕が全てをのみ込むと、待っていたかのように、いい加減にしなさいよ、と言った。その瞬間、無性に四畳半のカップ焼きそばが恋しくなった。僕は食事の感謝を述べて、その後2年間実家に帰らなかった。

 はじめてのタトゥーは心臓の上に彫ってもらった。
 僕は20歳になっていて、璃子さんは30歳になっていた。18歳にタトゥーを入れる予定は、僕の金の問題で叶わなかった。この頃同級生たちは、就職という単語を口にしはじめていた。
 図柄は音楽をモチーフにして璃子さんにデザインしてもらったが、僕が支払うことができる金額ではワンポイントがせいぜいだった。
 この場所を選んだのは、他人に見られずに自分だけが璃子さんと繋がっていられるような気がしたから。そして彫っている璃子さんを一番感じられると思ったからだ。仕切り越しに聞いてきたあの楽しそうな声。その時の璃子さんがどんな顔をしているのか、見てみたかった。ずっと前から。
「ファーストタトゥーで胸は、たぶん痛いと思う」
 言われた通り、想像よりずっと痛かった。
 僕は声が漏れないように、口で浅く息をしていた。背中や脇に、じんわりと汗をかいているのが分かった。璃子さんは信じられないほど近くにいて、彼女の肌が僕の肌に触れていた。璃子さんの体温は想像よりずっと熱かった。
「痛くない?」
「痛いです」
 そう吐いた声は、吐息まじりに上ずっていて、僕は恥ずかしくなった。こんな声を間近で聞かれたのが恥かしくて、僕は言い訳っぽく笑ってみた。すると璃子さんは少し口角を上げながら、手を弛めずに僕の肌を彫っていった。僕が息を漏らすたびに、璃子さんは薄く笑っていた。その顔を見逃したくなくて、僕は必死に目を開けていた。
 痛みと熱が絡みあって、僕は自分と璃子さんの境を見失った。
「また海外に戻ることになったの」
 アウトラインが終わり、痛みに慣れた僕の体が気怠さに包まれていた頃、璃子さんは不意にそう言った。
「いつですか」
「来月」
「どこへ」
「とりあえず台湾。その後アメリカ。アメリカで自分のスタジオを作るつもりなの」
 僕は痛みに集中した。璃子さんが僕の肌を彫る痛み。これは今、僕らにしか生み出せないものだ。
「璃子さんのスタジオができたら、僕、行きますよ。全身に彫ってもらえるように、お金をいっぱい持って」

 僕のタトゥーを見たら、両親は驚くだろう。両親だけじゃない。親戚も、世間も驚いて、驚きのあまり僕を否定するかもしれない。でもそれは、大したことじゃない。僕はこのタトゥーを見せびらかすつもりはない。ただ静かにひっそりと、胸に刻んでいるだけだ。
 世界は今日も変化しながら進んでいる。でも両親にとっての僕は、きっと昨日の僕のまま止まっている。かれらの世界に、タトゥーを彫った僕はいない。タトゥーを彫った僕は、僕と璃子さんの世界でだけ生きている。
 就職、20歳、いくつになっても、決断ばかりが迫ってくる。部屋とアルバイトとスタジオと店、たまに大学。僕はまだ、お腹が空いている。
 でも僕は、できるだけ色んなことを、先伸ばしにしようと思う。行けるところまで、このままで行ってみようと思う。

 僕はただぼんやりと、どうやって金を稼いでどういうタトゥーを彫ってもらおうか、と考えている。


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