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読切小説/祝福をあなたに_20211018

 東京に出てきて3年が経つというのに、僕はいまだよく言われる、都会の殺伐さや何でもあるのに何もないといった虚無感に襲われた経験がない。しかしだからといって、この街に愛着を感じているわけでもない。
 それは母や正月にだけ会う親戚の旦那衆が言うように、僕が学生という気楽な身分だからかもしれないが、どうもそれだけとも思えない。
 要はもっと単純で、宿命的な問題のような気がする。

「この子はちっとも連絡を寄越さないんですよ、都会が楽しくて仕方ないんでしょう、薄情な子ですよ」
「しょうがないわな。さぞ楽しかろ、学生さんいうもんは。お前くらいの歳だったら、世界が自分中心に回っとるように思えるだろうのう」
「しかしこんな時代に奨学金まで借りてなあ、これから一生大変だぞ」
 去年の正月、たしかそんなことを言われた気がする。もしかしたら一昨年だったかもしれないし、その前だったかもしれない。
 都会に出たことも学生になったこともない人間が、なぜ当人の気持ちを代弁することができるのだろう。世界が自分を中心に回っている感覚なんてこっちが教えて欲しいくらいだし、どんな道を歩んでも自分の人生に責任を取るのは自分しかいない。そんなことを思いながら、僕は黙って他人の言葉を聞いていた。
 気楽な学生とはいえ、思ったことを軽率に口にしない分別を、僕は東京という街の雑多な喧騒の中で身につけていた。
 いつの間にか僕は、故郷では無口になっていた。

 東京に出てきて一番驚いたことは、東京の大きさや凄まじさではなかった。僕が東京に出てきて一番に驚いたことは、それまで18年間過ごしてきた自分の世界が、いかに偏ったものであったかを知ってしまったことだった。世界の常識だと思っていたことが閉鎖的で偏った考えに過ぎず、なんの疑いもなく信じていた人々の言葉が無知と虚勢に満ちたものだと知ってしまったことは、18歳の僕にとっては悲しいことだった。
 帰る場所を失ってしまったように感じた。
 でも3年もすると、悲しみは、孤独と苛立ちに変わっていた。僕は、薄情な子、と言った母親の言葉を認めざるを得なかった。

 平日の22時37分、電車の中には、まだ少なくない数の人がいた。窓の外にはたくさんの灯がともり、街は当たり前のように夜を克服している。
 隣には璃子さんがいた。僕らはロングシートの一角で当たり前のように身を寄せ合って座っている。
「さすがに朝の満員電車にはうんざりしますけど、東京の夜の電車って、好きです。あの町にいた時は夜の電車って憂鬱でした。明るい世界から暗闇に引きずり戻されるみたいで。あの頃はそれが当たり前だと思っていたけど、いま思うとなんだか耐えられない感じがします」
 璃子さんは思い出すような顔をして、そして声を出さずに笑った。僕はその笑い方が好きだった。璃子さんをそんなふうに笑わせられると、まるで一人前の男になったように錯覚できた。
「分かるわ。私も嫌だったし、もう無理ね。もう耐えられない。だってこの街はまだ当たり前に活動しているのに、あの町はもう終電すら走っていない」
 もう帰れない、という言葉を胸にしまったまま、僕らは窓の外のネオンに目を向けた。この電車に揺られている人間の中で、僕らだけがここではない町の景色を見ていた。

 璃子さんと僕は同郷で、同じ高校の出身だった。故郷は北国の田舎町で、冬の3ヶ月間は信じられないくらいの雪に覆われる土地だった。そこに住む人間のほとんどが先祖代々その土地にいる人たちで、嫁いできた者を除けばよそからの移住者はいないと言ってもいい、典型的な閉鎖的な土地だった。
 高校ですら、学区というものがまだ存在していて、璃子さんや僕のように特別な申請をして学区を越えた高校へ進学している人間は、変わった家の変わった子という風に見られていた。
 僕の場合は、父親が変わり者で、僕は父親似の変わった子供という位置付けだった。父親は今の僕と同じように東京の大学に進学し、しばらく東京で勤めていた人だったが、長男という立場を重んじたのか、親戚一同からの圧力に負けたのか、30歳を前にして雪深い故郷に戻り、同級生だった母と結婚をして、姉と僕をもうけた。母もそのほかの親戚も、みんな生まれてからずっと町を出ていない人ばかりだったため、父は家族の中でもどこか東京かぶれの変わり者といった見られ方をされていたような気がする。親族が大勢集まる場では、父はいつも無口だった。
 僕が高校へ進学するのを見届けるようにして、父親は家を出た。母親の手前口には出さなかったが、僕としては驚くことではなかった。むしろ、驚いたり、父親を非難する人たちに驚いた。どう見たって、それは当然の成り行きのような気がしたからだ。

 ありがちな僕に比べて、璃子さんの生い立ちは少し複雑だった。
 璃子さんは関西で生まれ育った。しかし小学校を卒業する直前に母親が亡くなり、中学から父親の実家で暮らすことになった。それが僕らの町だった。この時、父親は関西に残ったらしくひとりっ子だった璃子さんはひとりで知らない土地にやってきた。寒くて閉鎖的な土地に。
 息子は実家には寄り付かず、娘は嫁に出てしまっていたため、祖父母は璃子さんの登場にいたく喜んだ。だがかれらは孫娘と同じかそれ以上に、世間体というものを大切にしていた。璃子さんの祖父は長いこと小学校の校長をしており、町ではそれなりに有名な家だったらしい。
 かれらは、璃子さんの母親が亡くなったことを伏せ、父親が海外赴任をすることになったため璃子さんを預かることになったと周囲に説明をした。当然、璃子さん本人にもそう説明するしかなかった。璃子さんは地元の学校へは通わず、学区を越えて県内で唯一の私立中学に入り同じように学区を越えて高校へ進学した。そこに璃子さんの意志が介入する隙はなかった。
 信じがたいことではあるが、本人の意志よりも大切なものというのが、この世にはある。特に閉鎖的な世界では、善悪がはっきりと定義されている。 
 つまり祖父母が求めたのは、璃子さんではなく、善い孫娘だった。

「ねえ私たちって、本当に薄情者なのかしらね」
「どうでしょう。少なくとも、あの町ではそうなるでしょうね」
「じゃあなんで、あの町のひとたちはずっとあの町にいるのかしら。たまたまそこに生まれたっていう偶然がなかったら、あの町に住み続ける理由は、実は無いんじゃない。理由もないのにそこに居続けるなんて、それこそ薄情じゃない」
「それもそうですね」
 僕らは笑った。遠く離れた東京の灯りに照らされて、同じ傷をもった同士で身を寄せ合って、僕らははじめてあの町を笑うことが出来た。

 「私、後悔はしないと思う。もしもどこかでのたれ死んだって、きっと後悔はしないと思う」
 笑っていた璃子さんが、不意に言った。それは打ち明けるようであり、自分自身に言い聞かせるようであり、普段なら決して見せない、弱さを孕んだ姿だった。
 喜ぶべきだった。彼女に弱さを見せられたことを、男として喜ぶべきだった。でも僕の中には、弱さを見せられた喜びよりも、いまさらそんなことを言われた苛立ちが優っていた。僕はまだ幼かった。
「恐くないんですか、そういうのって。世間体とか、後ろ指とか、そういうのって、僕はなんだか恐いです」
 その言葉は、僕が一人前の男じゃない証拠だった。きっと、置いていかれるような寂しさがあったのだ。子供じみた意地悪のつもりだった。璃子さんが僕のために、困った顔で笑ってくれればいいのにと思った。
「恐かったわ」
 でもそう言った璃子さんの顔を見た時、僕は自分の幼稚な愚かさを呪った。そして恐くなった。
 璃子さんは深い後悔と悲しみを見るような目をしていた。横にいるのに、突然別の世界へ行ってしまったように、彼女は冷たく、遠くなっていた。
 僕はすぐに真一さんを起こしたかった。彼に僕がしたことを謝って、すぐに璃子さんを連れ戻してくれるように頼みたかった。璃子さんが誰の手も届かない場所に行ってしまう前に。
 しかし僕がどれだけ焦ろうが、璃子さんは止まってはくれなかった。僕はどうする事もできず、でくの坊のように立ち尽くすしかなかった。
「私、一度死んでるの。私は一度死んで、別の人間として生まれ変わったの。でも誰も気が付かなかったし、世界はなにも変わらなかった。だからもう、恐くない」
 何も言えなくなった僕に、璃子さんはそれ以上のことを言わなかった。
 いくら幼いと言えども、それ以上僕を傷つけることも守ることもしないのは璃子さんの優しい礼儀なのだと、理解できるくらいの分別はかろうじて持っていた。
 璃子さんはさっきとは違った種類の笑顔で、声を出さずに笑っていた。それはよく知っている表情だった。無口になった父親や、僕と同じ表情だ。
 不意にどこかから、薄情な子、と言う声が聞こえた気がした。
 
 璃子さんの隣では、酒を飲みすぎた真一さんがまだ居眠りをしていた。重そうな頭が、当たり前のように璃子さんの方へ傾いている。璃子さんは当たり前のように、その頭を受け止めている。
 どれだけ批判を浴びようとも、真一さんは璃子さんを離さなかった。きっと世界中を敵に回そうが、真一さんは同じだっただろう。居眠りをしながらも、真一さんの手はしっかりと璃子さんの手を握っていた。
「璃子さん、ご結婚おめでとうございます」
 僕がそう言うと、璃子さんんは驚いたような顔をした。
「初めて祝福してもらえたわ。結婚っておめでたいことなのね」
 璃子さんは悲しい言葉を当たり前のように言う。そんな強さに僕は憧れて焦がれている。
 僕はありったけの勇気を集めた。璃子さんのためでなく、僕自身のために。
「当たり前じゃないですか。もしも。もしも世界を敵に回しても、僕はおふたりを祝福します」
 璃子さんの目には、涙がにじんでいた。璃子さんは、ありがとう、と言って嬉しそうに笑ってくれた。

 僕はふたりが幸せになることを願った。まもなく、海外に移ってしまうふたりと会えるのは、きっと今日が最後だ。僕はいつまでもふたりの幸せを願いたい。でも、もし本当に世界を敵に回しても、僕は僕の気持ちを貫けるだろうか。
 僕は頭の中で、ふたりの後ろ姿を見ていた。誰もいない荒野で、ふたりが手をとって歩いている姿。時代が変わっても世界が沈んでも、ふたりはふたりの道を歩むはずだ。たとえ何処かでのたれ死んでも、きっとふたりは後悔しない。
 僕が僕でなくなっても、誰も気づかず、世界は変わらない。僕は心の中で、もう一度ふたりを祝福した。

 

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