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読切小説/一炊の夢_20210702

真一は自分の首がガクンと落ちる振動で目を覚ました。

どうやらデスクで昼食をとった後、ウトウトしてしまったらしい。休憩中は昼寝をする者が多いので周囲は気にも留めていないだろうが、真一は自分が職場で睡りこけたことにいささか驚いた。そういった明文化されていないモラルこそ、どんな時も踏み外さないよう慎重に気をつけているつもりだったからだ。

真一はなぜ自分が居眠りなんかをと考察してみると、やがて心当たりが胸の中に浮かんだ。
(そうだ、そうだ。昨日は1歳の娘が夜泣きをして、それをあやしていたんだ。だから寝不足だったんだ。璃子に似て目がまん丸の可愛いかわいい僕の娘だ。)
真一は娘と妻の姿をはっきりと思い出しながら、納得した。そして、遠い昔のように感じる、記憶を呼び起こしてみた。

真一と璃子とは身分を越えた結婚であった。真一はただの民間人として生まれたばかりか、立場を保証できるような後ろ盾を持たなかった。そのことは真一にとって生涯付き纏う不安であり、璃子を大切に思う人々にとっても大きな不安であった。
(そうだ確か、同い年の璃子と婚約したのが26歳、その後様々な困難がありながら結婚に至ったのが30歳、そして娘が生まれて、今の自分は32歳か・・・)
璃子と出会ってから、真一にとって自分の人生とは、璃子を、今では璃子と娘を、守ることであり、璃子と娘を守るという事は璃子と娘を大切に思う人々の期待を裏切らないという事でもあった。自分のような者が璃子と結婚し、可愛い娘までもうけられたのは、人々の理解があったからなのだ、だから自分はどんな時でも何に変えても人々の期待に沿った人間でなくてはならない、真一は身に刻んだこの自戒の前に、改めて自らを律しようとした。

真一は身を正しながらも、居眠りをした後ろめたさで伺うように周囲を見た。すると少し離れたところでひとりの同僚が真一を見ていた。同僚と目があった瞬間、真一の心臓がドキりと縮まり鋭い痛みが走った。同僚は真一の目を見つめながらゆっくりと真一の方へ歩き出した。なぜか近づいてくる同僚の歩調に合わせて、真一の心臓はギリリギリリと潰されるように痛んだ。まるで不幸の化身が真一の心臓を握りしめながら近づいてくるようだった。真一はじわじわとパニックになり、こめかみには異様に熱い脂汗を浮かせていた。
(居眠りを見られていたらどうしよう、咎められたらどうしよう、悪い評判がたったらどうしよう・・・)
真一と同僚の間には3メートルほどの距離しかないはずなのに、真一には同僚が何時間も歩き続けているように感じた。そうか自分は永遠にこれから追われ続けるのか、という気持ちが真一を満たした時、同僚は目の前に到着していた。そして唐突に真一が恐れていた言葉をかけた。
「あなた、居眠りしていましたねえ!」
真一は自分が震えているのが分かった。先程までの脂汗は氷のように冷たくなり、目に見えてガタガタと震えていた。自分でも驚くほど、なんだか異常な震え方だった。
(こんな姿を他の者にも見られたら益々まずい、お願いだから誰も気づかないでくれ、静かに会話をしてくれ・・・)
しかしそう願いながらも、なぜか真一の中には、すでに確信に近い予感があった。

「どうしました!そんなに震えて!居眠りまでして!あなた、居眠りをしていましたねえ!」
同僚は異様な大声で言った。それはオペラ歌手でも出せないような大声で、もはや人間の声という枠を越えてサイレンのような音だった。そしてその音はあまりにも大きすぎるので、実は、どのくらいの音量なのかや何を言っているのかは不明瞭であり、不明瞭すぎで無音のようにも感じられるのであった。しかし真一には『大きな声が皆の前で自分の弱みを突いている』という事象として、声になっていない同僚の声が、明瞭に聞こえた。

真一は説明しようとしたが、なぜか喉が固って声が出せなかった。そればかりか、喉が固まったと思ったら、息までできなくなってきた。
(このままではまずい、でも息ができない、息ができないと、苦しい・・・)
真一は長い時間、息ができない苦しさの中で口をぱくぱくさせていた。それは本当に長い時間で、普通ならもうとっくに窒息しているはずだった。しかし真一はいつまでたっても窒息を許されず、大きな声で謳われる自分の弱みを聞きながら、息のできない苦しさの中に永遠と座らされるのであった。
(なにかがおかしい、なにかがおかしい、もうどうにもならない・・・)
真一が最後にそう思うと、目の前が真っ白になった。



真一は自分の首がガクンと落ちる振動で目を覚ました。
ぼんやりとした頭が現実を取り戻すと、自分のデスクにいることが分かった。体中がひどく汗をかいていた。額の汗を拭いながら顔を上げると、各々のデスクでランチを取っている同僚たちがこちらを見ていた。オフィスにはいつも通りアメリカ人が7人、リトアニア人、中国人、インド人、日本人の真一が一人いた。真一は居眠りをしている間に何か大きな音を出してしまったんだろうと思い、何事もなかったかのように顔を下げた。すると同僚たちも何事もなかったかのように自分たちの食事に戻った。一番仲のいいインド人だけが近づいてきて、真一の肩に手を置いて小声で囁いた。
「シンイチ、アーユーオーケイ?」
「ソーリー、アイムオーケイ」
肩に乗った暖かくて大きな手をぽんぽんと叩きながら、真一があえて大きな声で笑うと、インド人はじっと真一の目を覗き込んで何かを言いたそうにしながらも結局何も言わずに、ならいいんだ、と言って笑い返した。インド人は、金曜日だし今夜うちに食事に来ないか?妻も子供も真一に会いたがっている、と言った。真一は、君と君の家族がいいなら喜んでお邪魔する、と言い、それに僕は金曜日に限らずいつだって空いてるんだ、と冗談っぽく付け足した。じゃあ仕事が終わったら一度家に戻って日本のSAKEを持ってお邪魔するよ、と言うとインド人はいたく喜んだ。

思いがけない夢の世界に攫われた真一には、明るい友人家族の誘いはありがたかった。夢を見たことは度々あったが、あんなに生々しいものは初めてで、そんな日にひとりでいるのは恐かった。願望だったのか、悪夢だったのかは分からないが、この夢は真一に過去の自分の未熟さと、愛しい人を思い出させた。

(僕らに出来なかったことを想像する資格さえ自分にはないのだ・・・)

真一は自戒を胸にして、遠くの東の空を見上げた。異国の地に立つ真一は42歳になていた。気づけば随分遠くまで来ていた。




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