タイパ時代に、わたしが小説を読む理由
月に15冊、本を読む。
そのうち4、5冊はビジネス書やノンフィクションだけれど、残り10冊は小説が占める。
「なぜ小説。読むのか」先日、知人にそんな問いをされた。
小説なんかに時間を費やすのは無駄だ、という考えは、確かに理解できる。
情報が溢れる時代。日々アンテナを張っていないと"情弱"と揶揄されるばかりか、経済的にも損をする割合が年々高まっている。
本を読むにせよ、便益につながりやすい情報がかかれたビジネス書などに費やせば良いのではないか。そうした疑問が湧いてきて当然だ。
わたし自身も、小説ばかり読んでいて良いのだろうか、と自問したことは数知れず。
それでも毎日、小説を読む大きな理由を、改めて言語化したい。
犬という表現と、犬そのものは違う
端的にいうと、言語表現の「できっこない」に挑戦するためだ。
言葉で表現することには、限界がある。
Aを意味する言葉と、A自体は異なる、という限界だ。一例として、「犬」という言葉と、犬そのものは異なる。
このように言葉とは、人同士のコミュニケーションのために便宜上定められた、公倍数的なものといえる。
それゆえ、仮に「感情」を誰かに伝える時にどれだけ言葉を重ねても、「今の気持ちと同じ感情」が相手に"完璧に"伝わることなんかない。
Aという表現ひとつとっても、Aへの認識は、人によって少しずつ異なるはずなのだ。
言語表現の限界だ。
だが、だからこそ生まれた言葉も多い。
例えば"エモい"という表現。手っ取り早く、「共感し合う体験」を得るためにつくられた、公倍数的な表現の象徴だ。
ジレンマへの挑戦
「言葉で世界の全てを表現できることはない」。
このジレンマを知るほどに、私は言葉での表現にこだわりたくなる。
日々あらゆる活字に目を通し、様々な言葉を収集する。いつか活用できるように 自分の中の言葉の海にストックする。
たった1人でいい。
誰かにいつか、その事実を打ち砕くような"完璧な"表現が伝わればいい。
完璧な表現なんてないことを前提とした、目標だ。死ぬまで表現を追求し続ける、自分への宣誓と言える。
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