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日本で最高にゆったりできる場所 - 西小山・東京浴場

バックパッカーの間では「沈没地」という言葉が知られている。バッグ一つで海外の安宿を巡り歩き、旅行代を出来るだけ浮かそうとするバックパッカー。彼らが沈没という単語を使うなら、それは飛行機ではなく船で移動する際の悲劇ということだろうか。

沈没という単語から海を連想するかもしれないが、船は全く関係ない。沈没地とは、ある都市や宿の居心地が良すぎるので、次の目的地に進むのに腰が重くなったり、いつまでもそこにいたいと思わせるようなところだ。

それは夕日が綺麗な海辺だったり、治安がいい上に安くて飯がうまい都市だったり、のんびりと過ごす人たちが集まる日本人宿であったりする。学校や塾、会社の通勤や会議であくせくしていた毎日を忘れさせてくれる、そんな場所だ。

バックパック旅行にもちろん決まったスケジュールなんてない。道端を歩く犬を見たり(狂犬病の恐れがあるので近づいてはいけない)、外で麻雀やトランプに打ち興じるご老人たちを横目に旧市街を散策したり、二段ベットが並ぶドーミトリーで一日中ゴロゴロしても良い。全ては自分次第である。

例えば、インドのニューデリーは有名な沈没地だそうだ。2017年に旅行した際、宿泊したニューデリーの日本人宿でそう教えてもらった。自分がそこにいたのは夏だった。昼間の外気温は40度前後まで上がり、今まで経験したことがないような暑さだった。

昼はみんな寝ている。暑さで体力が奪われるのだ。安宿へのチェックインは受付の前に置かれているベンチに寝ている男を起こすところから始まる。生産性なんて言葉はクーラーの効いた部屋にいるホワイトカラーのものだと実感した。ニューデリーの夏は暑く、何かをしようとする気力が削がれる。

街の人が行動するのは夕方からだ。夕方になって陽が落ちて、初めて街中から子供たちが外で遊ぶ声が聞こえ始める。

宿で安全で美味しいと教えてもらった店のマンゴージュース。だが、この後案の定腹を下して3日間ほどトイレが近くにないところへは遠出できなかった

宿に宿泊している他の日本人もインドに感化されのんびりしている。宿代も飯代も安い。宿にいる日本人の旅行話、身の上話も十人十色でまあ面白いこと。心細い異国の地で郷里を共にする(実際は別の都道府県出身だが)人と話していれば、同じ言葉を話すだけでも自然と心が打ち解けてしまう。カモを見つけてはすぐに騙そうとしてくる人が多いニューデリーなら尚更である。

それゆえ、この宿に泊まる人はまあまだここにいていいかと滞在する日が1日1日と伸びるそうだ。自分は出発のチケットを予め取っていたので1泊か2泊しかしなかったが、そうでなければもう少し長くいただろうと確かに思う。

とまあ、ここまでが長い前置きである。ニューデリーの話はまた別の記事で書こうと思う。この記事では、そのような居心地の良い「沈没地」を日本で見つけてしまったという話をしたいのだ。

そこは目黒区の西小山にある東京浴場という銭湯だ。西小山駅から徒歩5分くらいの場所に位置し、スーパーのライフの向かいにあるのでわかりやすい。暖簾をくぐると大きな本棚が聳え立っており、上から下まで全部マンガで埋め尽くされている。なんと、入浴料を払うだけでこの漫画が読み放題なのだ。

この銭湯は親子3世代で来れる銭湯を目指しているそうだ。実際、小学生くらいの子供がいる親子連れ、友人と連れ立ってきている大学生くらいの若者からローカルの方と見受けられるお年寄りまで、確かに全世代で湯船を共にしていた。

しかもその比率はどの年代に偏っているわけでもない。これはすごいことだ。地域の人に愛されているというのはこういうことかと実感した。

今人気のサウナは予約が必要な個室のものが一つあるだけだ。だが、高温の湯と井戸水を汲んだ冷たい水風呂がある上、椅子が5つもあるのでゆっくり休憩することができる。熱い風呂に入り、水風呂で体を覚まし、椅子で休憩できる。そんな素晴らしいところだ。

今日は祝日だったため、昼過ぎに東京浴場に行ってみた。風呂に入って日頃の疲れと汗を流す。露天風呂ではないものの、天井が高いため開放感がある。上がって体を拭き、座席を確保してマンガ(スパイファミリー)を読む。うとうとと眠たくなってきたら、もう一度熱い風呂に入って目を覚ます。理想の休日の過ごし方だった(滅多に再現できない)。

銭湯でリフレッシュするにあたり必須のステップは椅子に座って何も考えずにぼーっとすることだ。これを飛ばしてしまうと、あくせくとした日常の延長になってしまう気がする。

椅子での休憩中に面白い発見があった。湯船から上がって椅子に座りながらなんとなく周りをみると、銭湯で流れている時間は日常とは異なることに気づいた。時間の流れがゆっくりなのだ。そして、それは自然と人の動きが遅くなるからだと気づいた。

浴室では足を滑らせないようにしてか、屈強な体格の持ち主でも一歩一歩確かめるようにして歩いている。湯船に浸かってのぼせるくらい顔を真っ赤にした人でも、湯から上がるときは急いでいない。

休憩用の椅子に座る人は深く腰掛けようとして、座面に尻をつける直前にちょっと静止するように見える。その一瞬のうちに、椅子が冷たくても我慢するという決死の覚悟をしているのである。

その他にも、一定のスピードで湯が足されていくじゃぶじゃぶという音、湯桶がタイルに当たるかこんという音、離れた場所で人が会話しているぼそぼそという音。そんな音が蒸気で曇る室内で薄ぼんやりと聞こえてくる。目と耳で楽しんでいると、足には水風呂から流れ出てきた冷水が当たっている。

五感で銭湯を感じながら蛍光灯をぼんやりみているとその瞬間がきた。「ととのった」のだ。

自分がととのう前兆は背骨のあたりが急にズシンと重くなること。これが起きたら直後に視野は狭まり、遠くにある蛍光灯の光がはっきり見え、顔の筋肉が弛緩する。この時、話しかけられたりしてはいけない。そのまま蛍光灯を見続けると光が大きくなってくる。光への没入感が大きくなったらととのった証拠だ。

2分ほど経つとすっかり元通りになる。頻繁にサウナに行くわけではない自分がはっきりととのったのは1年ぶりだ。なんだか頭がすっきりしたように感じる。今度は今度は友人ときてみようか。ここであれば友人もととのうのだろうか。

そんなとりとめのない考えを誰かに話すわけでもなく、とりあえず note に書く決意をして、すっかり日が落ちてしまった西小山の東京浴場を後にしたのだった。


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