見出し画像

対話: 沈黙を乗り越えるコミュニケーションの技術

先月、大学からの友人と軽井沢プリンスホテルスキー場にスノーボードに行った。スノーボードをするのは人生で初めてだった。軽井沢を選んだのは何もハイソな場所がいいというわけではなく、単にスキー場が新幹線の駅から近くてアクセスがとても良かったからだ。

アクセスは便利だったものの、軽井沢のスキー場は子供から大人、日本人から海外の方まで様々な人でごった返していた。ゲレンデの人の多さに圧倒された初心者の自分は、スキルのなさに輪をかけて思うように滑れず、何度も人にぶつかりそうになった。

それでも初めてのスノーボードだったこと、山頂から冠雪した浅間山の雄大な姿がくっきり見えたこと、友人に滑り方を教えてもらって自分なりに滑ることができたので満足だった。

さて、友人とは行き帰りの新幹線でずっと話をしていた。その話題がどんな社会人にも当てはまるなと思ったので、ここに記しておく。

行きの新幹線の中では、近況報告も含めて心赴くままに気がねなく話していた。帰りの電車でも心は晴れやかだったものの、体の疲れのせいか話題は次第に会社の愚痴から仕事の相談に変わっていった。

友人の相談内容は以下のようなものだ。友人はソフトウェアエンジニアをしており、彼のチーム人数は2人。しかも基盤部分を担当しているので、様々なチームから質問や相談が舞い込んでくるそうだ。

同僚の中には仲のいい人もいるし、仕事面で尊敬する人もいることにはいる。しかし、同僚の中にはプライベートの話はせず仕事の話しかしない人がいるとのこと。

しかも仕事はリモートワーク中心である。話すと言ってもリモートワーク中心なのでパソコンの画面越しだ。その人と顔を突き合わせて話すわけではない。

そういった同僚たちのプライベートには興味が持てず、結果的に飲み会で同じ席になったとしても、途中で話題不足になってしまい気まずい思いをしてしまう。これが彼の悩みだった。

もちろん飲み会でも仕事の話はする。しかし、仕事の話はいつもしているので、しばらくすると話題はどうしても尽きてしまう。その後、お互いに話題を探すが見つからない。その沈黙に耐えられないというのだ。

これは自分も経験があるのでよく理解できる悩みだ。相手のことを全く知らないのであれば色々質問をして相手のことを知ろうとするだろう。しかし、相手のプライベートに興味がない、あるいはどこまで踏み込んでいい相手かわからないという場合もあるだろう。

その友人に「人に興味を持て」と言ったとしても、彼にとって何にもならない。自分を変える以上に、人を変えることは難しい。そのような命令は彼にとってアドバイスでも何でもないのである。

そこで、最近哲学という営みを面白がっている自分は、その立場から思いついたアイデアを彼に伝えてみた。これは友人に対するアドバイスであるが、一方で同様の悩みを持つことのある自分に対する助言でもある。

彼に伝えたのは、「答えの出ない問いについて話してみてはどうか」というものだ。例えば、「幸せとは何か」や「この世で一番価値のあることは何だろうか」とか「欲を満たせれば、その欲は消えると思いますか」などだ。

これらは哲学で扱うテーマではあるが、飲み会でも使えるテーマだと思う。誰もが何かしら自分の経験に基づいて話せるからだ。

直接的に問いかけると、相手は身構えてしまう。はっきり言ってこれらはハードな問いだからだ。そこでこれらの問いをシュガーコーティングし、自然な問いかけとしてスッと懐に差し入れるのだ。

幸せとは何か、ということものなら「最近何をやっても面白いとか熱狂するということがないんです。何をやってる時が幸せとか情熱を感じますか?」と変える。

一番価値のあることは何かであれば、「自分は酒とかマンガとか収集が趣味なんですが、もっと価値のあることがある気がするんです。一番大切にしてるものって何ですか?」と具体例を提示してみる。

どれも自己開示から始めるのがコツである。自分が具体例を示すことで、答えの方向性がなんとなく相手に伝わり、相手が答えやすくなるからだ。

ただし、こういった高尚な問いに食いついてくれなさそうな人もいるだろう。そうであるならば、もっと世俗的な質問でも良い。「仕事ができる人ってどんな人だと思いますか」とか「仕事ができるようになるには、どんな習慣を身につければいいのか」といったものだ。

答えが出ないからこそ、誰もが話に参加することができる。しかも、答えがないから、見解の相違や意見の対立はあっても間違いだことはない。その場合、違いは違いとしてあるだけで、論破だなんだと勝ち負けはない。だからこそ気軽に話せるはずだ。

しかも、意外なことに質問者は、相手が答えてくれた内容を鮮明に覚えている。何度か会話をやりとりするうちに、相手の価値観を表す一言がパッと表れる時があるからだ。そのキーワードは自然に覚えられる。

口頭で会話しているのに、まるで相手の言葉を読んでおり、その部分だけ太文字になっているような感覚になるのだ。こういうのを共感覚というらしい。

おそらく、以前の記事で書いたように、自分が読書中に印をつけまくるようになってから、本を読んでいるのに著者と対話する感覚を得たことも影響しているだろう。

そして、この「微妙な距離の相手と気まずい沈黙が流れそうになった時に、答えのない問いを投げかける」というメソッドは、以前自分も試してみたことがある。具体的なエピソードはこのようなものだ。

それは、2024年の1月に入り、自分の所属する新しいチームが組成されたあとの初めて懇親ランチ会だった。

その場にはマネージャーを含めて5人いた。自己紹介を済まし、一通り今まで仕事でやってきたことなどを話した後、やはり沈黙が訪れた。各人が頭の中で話題を探しつつ、ぽつぽつと人が会話するだけの雰囲気になってしまった。

一度場が冷えてしまうと、また盛り上げるのは難しい。ランチ会なのでテーブルの上には酒もない。しかし、自分はそれをチャンスだと思った。「答えのない問いを問う」というメソッドを試してみる絶好のタイミングだと。

テーブルの向かい側には、むかし飲食店で働いていたと自己紹介で話していた20代半ばのエンジニアが座っている。その人は自分が持っている資格を活用して、ただのアルバイト以上の働きをしていたそうだ。正社員として同じ会社で働いている今でも副業で別の飲食店の手伝いをしているらしい。

その人にその場で思いついた疑問をぶつけてみた。それは「飲食店においてプロとアマチュアの違いって何だと思いますか」というものだ。

自分の内心としては「まあ、いきなりの質問だし、答えをはぐらかされたり、話題を変えられても仕方ないかな」と思っての問いかけだった。このメソッド自体初めて試みることだし、何か会話のきっかけになればいいと言うぐらいの気持ちだった。

しかし、意外なことに同僚はこの問いを受け止めてくれた。「うーん」と少し考えてから、「それは人から求められて作るか、自分が作りたいから作るか、ですかね」と答えてくれたのだ。

こうなるとしめたものである。もちろんこの問いに対する答えは自分も持っていない。なので、その回答に触発されて浮かんだ疑問をさらに聞いてみた。

「例えば EC サイトで食品を販売する人は、人から求められる前にまず作って販売している。その点で人から求められるよりも先に自分が純粋に作りたいという気持ちから作っていると言えるのではないでしょうか」と。

すると同僚は「確かに…」と言いつつ、他の人も交えて何度かやり取りをした。そして「お金をもらっているかどうかですかね」と答えてくれた。「人からも求められた上にお金を対価としてもらうのがプロなのだ」と。

この意見には他の人も賛同していた。自分にもそのように思われたし、頭の中で反例を考えつつ、ここから更に突っ込んでまた質問をしてしまうと、自分が嫌な人に思われてしまうかなと考えて、「面白いですね!確かにそうですね」と言うだけにした。

そして自分が「なんでこういう質問をしたかというと、最近哲学にハマっていて…」と経緯を話すとみんな納得してくれてさらに興味を持ってくれた。その後もこれをきっかけに別の人が「哲学とはちょっと違うんですが、思想という点だと高校時代に宗教に入信しそうになって…」など、他の面白い話題を続けてくれ、また場が温まったのだった。

もちろん、質問しているときは相手を否定しているわけではなく、純粋に気になるから聞いているのだという態度を取る必要がある。それは相手に対する敬意だ。

そして、「答えのない問い」つまりオープンクエスチョンを尋ねることのある効用もこの経験から学んだ。このようなオープンクエスチョンを聞くことで、相手の思考や価値観の核心に迫ることができるような感じがするのだ。それは表面的な雑談では決して到達しない深層部分である。

相手が何を大切にしていて、どのような視点を持っているかを知ることができる。相手が自分と違う視点を持っているほど面白い。会話をしていても、「つまりこういうことですね。ではこうも考えられませんか」と一度相手の主張を受け止めることで、相手も話をしっかり聞いてもらっているという感覚を得られるはずだ。

つまりこれは自己と他者違いというものを楽しむことができる対話なのだ。もちろん、その過程で自分の常識も覆されることもある。このような対話をして相手を深く理解すること。これこそが昨今お題目のように繰り返される「多様性」に対する取るべき態度なのではないだろうか。

自分の話したいことを話すだけ、相手が誰でもいいというような一方的な話には決してならない。このオープンクエスチョンについての対話は、1人1人顔を持つ相手と向き合っていくことができる。

あるテーマについての問いを提示し、相手の答えを受け止め、さらに質問をして問いについて深く考えていく。すると、そのテーマについて深い洞察を得ることができる。その上、相手の価値観の核心に触れ、さらには自分の価値観が揺さぶられることもある。対話を終えた後、相手も自分もこの世界を新しい視点で見ることができる。これこそ、対話の効用である。

何がプロフェッショナルとアマチュアを分けるかという質問は飲食店に限定したものだったので、その同僚1人に対するものだった。しかし、例えばプロのエンジニアとアマチュアのエンジニアという区分にすれば、もう少し他の人も答えられてさらに盛り上がったかもしれない。

新幹線の中で、この懇親ランチの会話の概要を友人に話したところ、なるほどと納得していたようだった。友人も次の飲み会で試してみると話していたので、別の機会に実際どうだったか、このメソッドがうまく機能したかを聞いてみたい。

もちろん、このメソッドは万能ではない。場の空気や相手の性格も少し考慮して実施する必要がある。特に相手の話ばかり聞いて自分の考えを述べなかったり、相手の言うことを要約してワンクッション置かずに何度も質問することは、礼節に反している感じを相手に与えるのでよろしくないので注意が必要である。

このメソッドはプラトンが記した対話篇である『プロタゴラス』を読んで思いついたものだ。会話の沈黙を破るこの対話メソッドは、古代ギリシア時代から2000年以上経た現代でもソクラテスメソッドが古びていないことを私たちに教えてくれる(その後も私はこのメソッドの威力を体感し、その恩恵にあずかることになるが、それはまた別の話である)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?