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気持ちを「書く」ということ

私は、気持ちを言葉で「話すこと」が、苦手だ。


出来ることなら文章の方が確実に気持ちを伝える自信がある。

なぜ苦手なのか。その理由も自分なりにわかっている。
プライベートでもビジネスでもそうだが、発音してしまった言葉は取り戻せない。目の前の相手に私の言葉が届いたときの評価がこわい。それで自分にガッカリされないか、否定されないか、お前その程度かって思われないか、それがこわい。自分の評価が気になる豆腐メンタルなんです、自分。ガラスのハートです。

思っていることを瞬時に明確な言葉にできない。自分の語彙力から適切な言葉やより伝わる言葉、思っていることとちゃんと「≒」で相手に伝えられる言葉を探すのに時間がかかる。他の人はどうやって瞬時に言葉にして発音までたどり着いているのか理解できない。会議とかでは、言いたいタイミングや言葉が通り過ぎていくことがよくある。展開早すぎるだろお前、もうちょっと待って!なんて、よく思っている。頻繁に思っている。一周回って自分の頭が悪すぎるんじゃないか、気持ちを紡ぐ機能が他人と作りが違うんじゃないか…なんて本気で思っている。

対して、「書く」文章は、よく考えられる。時間をかけられる。言葉をこねくり回しすぎると、言葉の格好良さとか響きで選んじゃって、自分の意図から外れたり、言いたかったことが響きでごまかされたりしがちなので否定する考えももちろんあると思うが、そうならないように注意しながらも、ちゃんと気持ちを表せるように文章にする。

時間を選ばない、というところもある。まあ最近のビジネスメールとかはもはや、チャットよろしく即時性を求められる場合が多いけども、手紙は、こちらが読む時間を指定出来ない反面、相手が時間のある時に読めるという利点もあると思う。人の時間に切り込んでいく電話やチャット(メール)のような、こちらが主導権を持ってしまうツールよりも、主導権が相手にあるのが良いと思う。
だから、中学生くらいのころから、大切なことは「手紙」で伝えるようにしてきた。自分の言葉を、なるべく私の気持ちの形のまま伝えたいから。

元々は、小学生の頃「文通」が流行ってて、りぼんとかでもペンパル募集みたいなのとかあって(確か…)、小学生の頃行った稲刈りツアーのイベントで地方のお姉ちゃんと出会って、文通をし始めたのが最初だった。私は兄弟姉妹がいないから、楽しかった。オグリキャップ(サラブレッド)が好きな女子だったなあ。便箋とか切手集めが趣味の一つになったのもこのころから。文通自体は、手紙のスパンが2週間から1か月、2か月…と空いていって、気が付いたら自然消滅。よくあったよねそういうの。

次は中学生の頃、同じ校内の男子と文通をしていた。おぉ、文字にすると変な関係性。…中学一年の頃、同じクラスで一緒にクラス委員をやって、憎まれ口叩きながらも仲が良くなった。その彼は私の母親と誕生日が一緒で、特別な存在になる一因だったかもしれない。
最初は、年賀状だったか、かもめーるだったかバースデーカードだったか忘れたけど、いつの間にか、同じクラスにいるのに文通をしている、という変わった関係性が出来た。表向きの憎まれ口叩く中坊とは違う、本当のことを言い合いたい相手だって思いがあった。

2年のクラス替えでクラスが変わった時に、教室配置の関係で階がちがっていたことや、クラス合同授業でも違う組み合わせになったことで物理的距離が開いたのをきっかけに、直接話すことから手紙へメインのコミュニケーションが移行した。文通は20代前半まではしていた気がする。その手紙の中で、お互いに人生で「隠してきたこと」を言い合うこともあった。まー、中学生の最初の頃は恋愛感情も一瞬ちょっとあったんだけど、いろいろあってそれは今は甘酸っぱい良き思い出だし、彼は、性別とか俗っぽい感情をすべて超越して、今はSNSメインに変わったけど、今でも唯一無二の友人である。

余談ですが、男女の友情は無い的な話ってよく議論になりますが、こういうことをしたら友達じゃないとか、そういう定義付けすら個々で千差万別なので、議論すら無駄じゃないかと私は思っている。ずっとずっと仲のいい友人だけど性的交渉があることもあるかもしれないし(その後またふつうに戻る)、性別が違ってもさらに「個人的条件」が伴うときもあるし(性同一性障害とか)、その倫理的な考え方・常識のとらえ方・それをどう扱うかは、友人関係にある2人だけが議論する資格があるし、他の人はそこに意見を挟むべきではない。まあ、周りにいる関係者に利害が及ぶ可能性があって、実際に関係者が傷ついたとかあった場合、追加で責任取りましょうねって話だけども、それはここでは別の話。

人は、絶対に他人と100%分かり合うことはない。

親家族友人恋人夫婦関係なく…理解できたとしても、思った本人が思った気持ちとは100%は重ならない。それでも理解したい、してほしいという努力が、人を思い遣るということだと思う。人生には時々、そういう人が現れる。そういう人には、ATフィールドを全開で反転する。

最近は文通どころか年賀状すらろくろく書かないけど、大切な誰かの節目には、大切な言葉を贈りたいと思って、するようにしている。手紙のいいことってね、自分の気持ちに向き合って、ふさわしい言葉をあてはめながら、なによりその対象となる人を、想い、静かに考え続ける時間。何より暖かくてほっこりした時間なのだと思う。

今回、手紙のような文章を書いたことをきっかけに、文章を綴ってみてはどうかとその文章を送った相手である「仲良しくん」に言われた。
人生何度か、なんか書いてみようと思ったことややりかけたことはあるのだが、概ね、三日坊主である。

そういえば、私は「コピーライター」をやりたかったんだって思い出す。デザインの専門学校時代は、コピーライティングの授業だけ、「学ぶことはないな」って、数回出たのちに判断して自主休校にしてたんだよね(笑)。人を想って書くことはすでに日常でしてたから、あとは技術だけわかれば、自分の中では完了だった。

今回は続いていくのか、続けられるか、ちょっと挑戦してみたくなった記念すべき第一日目は、その「きっかけ」の話。

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