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日本タンゴ界の恩人、フェルナンド・テル生誕100周年

講座の準備もあって2日過ぎてしまったが、さる1月22日はバンドネオン奏者フェルナンド・テルの生誕100周年だった(今年はアストル・ピアソラの生誕100周年。テルはピアソラと同級生なのだ)。

1921年1月22日、フェルナンド・テルはサンタフェ州マリア・スサーナに生まれた。サンタフェ州の州都アルゼンチン第2の都市ロサリオはタンゴ史に残る素晴らしいバンドネオン奏者を多数輩出してきた地であり、素晴らしいタンゴ楽団もたくさんあった。テルはロサリオ随一の楽団ホセ・サラ楽団に参加、腕を磨いてブエノスアイレスへと移った。ミゲル・パドゥラ、エドガルド・ドナートの楽団を経て、1944年からアントニオ・ロディオ楽団に参加、翌年アニバル・トロイロ楽団から独立したばかりの血気盛んなアストル・ピアソラ率いる歌手フィオレンティーノの伴奏楽団に参加。1947~48年にはフランチーニ=ポンティエル楽団に参加、その後アニバル・トロイロ楽団に参加、トロイロが体調不良でいったん活動を停止した1959年までトロイロのもとで過ごし、その後オスバルド・フレセド楽団に移って間もなく、元フレセド楽団のチェロ奏者で1959年から日本に移住して活動していたリカルド・フランシアからの誘いで日本行きを決意する。

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日本に来てすぐリカルド・フランシアのポリドール録音に参加、フランシアとテルに日本人ピアニストの岩崎を加え「トリオ・ロス・ムチャーチョス」として活動を始める。しかし理由はよくわからないが、すぐにテルとフランシアの関係は破綻、テルはギターの河内敏昭とコントラバス(福島敏夫あるいは笠原喜三郎)とのトリオで活動を始めた。おりしも日本ではタンゴの実演喫茶の全盛期、自己のトリオやオルケスタ・ティピカ東京などとの共演でコンサートにも出演、レコード録音やソノシートの録音も残している。

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フェルナンド・テルのバンドネオンのスタイルは、地方出身者らしく少しフォルクローレや他のダンス音楽の要素も含んだ独特の歌心にあふれたもので、高い技術と個性的なフレージングに彩られたものだった。おそらくテルは日本に来るまで小編成グループでの演奏はあまりやっていなかったはずで(来日前ドミンゴ・ルーリオのパケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスに参加しているが、これはレオポルド・フェデリコが忙しくて来れなかった時のエキストラだったそうだ)、日本でフランシアとのコンビが決裂した結果として生み出された、いわば予定外の産物だったのかもしれない。しかしテルのスタイルは日本のタンゴ・ファンにオルケスタ・ティピカとは一味違うタンゴのサウンドを見せたと思うし、日本のバンドネオン奏者に与えた影響は非常に大きかったと思う。

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1955~56年に元プグリエーセ楽団のバンドネオン奏者ホルヘ・カルダーラが9か月日本に滞在したが、この時はカルダーラの個性が、日本の演奏家にはまだ十分理解できていなかっただろうし、カルダーラ自身も日本とアルゼンチンの状況の違いに戸惑った感じも強かった。以前故・石川浩司氏が自身のHPにカルダーラが日本のラジオに出演した際の曲目メモをまとめてあげていたが、プグリエーセのレパートリーを日本人のピアノやコントラバス奏者とのデュオで演奏するというもので、石川さん自身も「当時は何をやっているのか正直よくわからなかった」と話してくれたことがある。

テルが来た1960年代前半には、ファンも演奏家もLPでより多くのものを聞けるようになり、フアン・カナロとフランシスコ・カナロだけとはいえ、来日公演にも接することが出来、聞く側の耳もだいぶ変わっていたのだろうと思える。

テルの優しく、温和な性格も日本にあっていたのだろう。アルゼンチンに帰国してからは、ロサリオに拠点を戻していたが、アニバル・トロイロが楽団を編成して演奏する時には必ずといっていいほど駆けつけている。1972年のコロン劇場のライヴにも、1974年の映画にもトロイロの傍らにテルの姿がある。

私は1987年、初めてアルゼンチンに行った。その時はタンゴ愛好家のツアーだったので、テルがブエノスアイレスのマリア―ニさんのバンドネオン工房まで日本のタンゴファンに会いに来ていた。そこで私は、まだ大学でスペイン語を学び始めて2年目でつたない言語だったが、その時のツアーでスペイン語が出来る人も少なかったので、いつもテルの横にいることになり、移動中もテルと話をしていた。トロイロの死(1975年)で自分の演奏家としての人生は終わったのだ、と寂しそうに語っていたのが印象に残っている。実際はその後もラファエル・ロッシの録音で代わりに弾いたり、地元でソロやギターとのデュオをやっていたりしたはずなのに...

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次の旅の機会にロサリオに行くことを約束していたが、ブエノスアイレスで腹痛に見舞われ、私はロサリオ行きを断念せざるを得なかった。その次の機会に...と思っていたが、テルは1995年3月29日世を去ってしまった。自殺だった。私が会ったテルは優しくまじめだけれど、とても寂しそうな人にみえた。私がブエノスアイレスで入手したバンドネオンをホテルで試奏してくれた時、それはそれは素晴らしい弾きっぷりで、現役で通用するだけの腕をまだ十分に持っていたのに。

日本のファンに待望されながらも、フェルナンド・テルはついに日本の土を再び踏むことはなかった。日本のタンゴ・ファンとしてそのことが何よりも悲しい。

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