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オスバルド・フレセド&ディジー・ガレスピー、世紀の珍盤の意外な真実

いよいよ私が担当するNHKカルチャー名古屋教室の全国向けリモート講座「タンゴの世界第5期」が始まる。先日第1回のロベルト・フィルポの分の準備を終え、5月分のオスバルド・フレセドの準備に取りかかったところで、今まで気がつかなかった事実がわかった。
 
 オスバルド・フレセドは古典時代の後半からタンゴ史に登場し、その音楽性を重視した演奏は、フリオ・デ・カロと並び先駆的な新しさを持ち、1930~40年代には、柔らかで優美さを感じさせる弦、抑えの効いた切れの鋭いリズム、究極のシンプルさと間の絶妙さを持ったピアニストを常に擁した大編成楽団と、アメリカのクルーナ―歌手のような甘みを持った専属歌手のコンビで人気を博し、1950年代には自身の経営するナイトクラブ「ランデヴー」に大編成楽団を出演させ、アストル・ピアソラ、ロベルト・パンセラ、ロベルト・ペレス・プレチなど若手の新しい編曲や作品を積極的に取りあげた。その後も活躍を続け、常に色あせないサウンドでおよそ60年間にわたって演奏し続けてきた巨匠なのである。
 
 そんな長い芸歴の中で、フレセドは異色のアーティストとの共演も行ってきた。世界的なテノール歌手ティト・スキーパとの共演盤(1934年)、メキシコの「テノールのサムライ」との愛称を持つ歌手ペドロ・バルガスとの共演盤(1945年&1947年)、そしてビバップの立役者であるトランペット奏者でありビッグ・バンドのリーダー、ジャズの大物ディジー・ガレスピーとの共演(1956年)である。
 
 この中で一際興味深いのがフレセドとガレスピーの共演である。これは実はアメリカ国務省がアメリカ合衆国のイメージ改善のためにジャズミュージシャンを文化交流大使としてアフリカ、ラテンアメリカ、中東諸国などに1950年代半ば~60年代に送った時に起こった出来事であった。この国務省の試みについては、映画:Jazz Ambassadors(ウーゴ・バークレー監督、2018年)や書籍「ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史」(齋藤 嘉臣著、講談社選書メチエ、2017年)などに詳しいのでそちらを参照してもらえるとよいのだが、そうした背景の下、1956年にディジー・ガレスピーのビッグ・バンドがアルゼンチンまでやってきたのだ。その時のコンサートの模様はCap Records “Dizzy in South America volume 1 & 2”という、2006年発売の2枚のCDで聞くことが出来た。そしてこの時Dizzyは単身で、オスバルド・フレセド楽団と共演し録音を残したのだ。

ブエノスアイレスの街を歩くディジー・ガレスピー

 曲は「ビダ・ミア」「アディオス・ムチャーチョス」「プレルーディオ#3」「愛の気まぐれ(カプリチョ・デ・アモール)」の4曲。いずれもこの少し前、1952~53年にオデオン・レーベルにフレセド楽団が録音している曲で、基本の編曲は同じである。「ビダ・ミア」はフレセドが生涯6回も録音した自作の代表作。 「アディオス・ムチャーチョス」は1928年のヒット曲で、早くから世界中で知られるメロディとなり、1951年には新たな英語詞が付き「アイ・ゲット・アイディアス」というタイトルでルイ・アームストロングらが歌って大リヴァイヴァルした。「プレルーディオ#3」は、初期のアストル・ピアソラからの影響を強く感じさせるロベルト・パンセラ作のモダン・タンゴ。「カプリチョ・デ・アモール」はパンセラと共にフレセド楽団のモダニズムを具現してきたバンドネオン奏者ロベルト・ペレス・プレチ作の歌曲で、オラシオ・サンギネッティの歌詞がついているが、ここでは演奏のみ。しかしそのメロディにはモダン味が十分感じられる。
 1956年7月29日もしくは30日、ディジー・ガレスピーはオスバルド・フレセドのナイトクラブ「ランデヴー」を訪れ、録音はそこに録音機を持ち込んで行われ、後にこのレコード用の特別のレーベル「オリオン=ランデヴー」から2枚のSP盤として発売された。(プレスはオデオンが行ったようだ)以下オリジナル盤の盤面である。




 この音源は長く未復刻だったが、1998年に研究家オスカル・デル・プリオーレのコレクション・シリーズとして出たCDアルバムAcqua Records ADDP002 “Osvaldo Fresedo – Rendez-vous porteño”の中に、他の希少音源ともに4曲とも復刻されCD化された。しかしデル・プリオーレ所有のテープから復刻したようで、オリジナルSP盤と聞き比べるとかなり速度が遅かった。
 
 たまたま最近気が付いたのだが、6年ほど前にイギリスのSolar Recordsから “Dizzy Gillespie Big Band – Complete 1956 South American Tour Recordings”というCD2枚組が出ており、そこには前期Cap Records盤に入っていたライヴ録音全曲に加え、リオデジャネイロで録音されたという正体不明のサンババンドとの録音、そしてこのフレセド楽団との4曲も収録されていた。大体持っているが、資料として買っておくか、という気持ちで入手しておいた。
 例の4曲はてっきりAqcua盤からとったのだろうと思いこんでしばらく放っていたのだが、今回改めて聞いてびっくり、Acqua盤より音がきれいで、スピードもほぼ正しい感じ(私所有のSPとはそれでも少しだけスピードが違うが、私の機械の方の問題かも...)。さらに衝撃だったのはSP盤およびAcqua盤に入っているライヴ録音の拍手がSolar収録分には入っていないのだ! 拍手は演奏が終わりきらないうちから入っているので、カットは出来ない。だとすれば実際は観客なしで録音したものにあとで拍手をかぶせていたことになる。なぜか拍手をかぶせる前の音源が欧米のどこかにあったということなのだろう。

 さらによく聞いていくと、パンセラの現代タンゴで、ディジーのプレイが最も冴えている「プレルーディオ#3」の最後の部分、オーケストラが止まった後のブレイクでのガレスピーのソロが違う! 何度か聞き直したが前半の部分は同一テイクとしか思えないが、最後の部分は明らかにSolar盤の方が長い。
 考えられる理由はある。Solar盤だと「プレルーディオ」の長さは4分に達している。25センチ盤SPで出すためには通常とは違うカッティングをしないと出せない長さだろう。そこで急遽ブレイクの後の部分を短くしたものを録音した、もしくは別のテイクから持ってきたのではないだろうか。私のSP盤では3分40秒ほどに収まっており、それなら普通のカッティングでもなんとか入る長さである(実際私所有のSPは25センチ盤)。
 
 このオスバルド・フレセドとディジー・ガレスピーの共演盤は発売を目的としたアルゼンチンにおけるタンゴのライヴ録音第1号だと思っていた(ちなみに全世界での第1号は、1954年フアン・カナロ楽団の東京宝塚劇場でのライヴ録音を発売したクリスマール・レーベルのSP盤4枚=8曲である)。しかし収録場所はナイトクラブであっても拍手が入らないということだとライヴ録音とは言えなくなるのだろう。ただ、録音が通常のスタジオでないことは、録音機を持ち込んだランデヴーの写真が残っているのと、いずれの録音でもディジーのトランペットの音のとらえられ方が、スタジオでマイクを個別に立てているのとは明らかに異なる点でわかる。
 

ランデヴーでのフレセド楽団とディジー・ガレスピー、左に録音機がある

 1956年のタンゴ界で、拍手を後からかぶせて疑似ライヴに仕立てる試みが行われていたことは驚きである(サルガン=デリオのシェラトン・ホテルでのライヴ盤も、私は疑似ライヴではないかと疑っているが、フレセドの録音より20年もあとの話である)。
やはりアルゼンチンにおけるタンゴ界最初の発売目的のライヴレコーディングはアストル・ピアソラ・キンテートのレジーナ劇場ライヴ(1970年)になるのだろうか...。






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