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考察:日本のタンゴ事始~目賀田綱美と早川雪洲

2014年、日本へのタンゴ渡来100周年ということで、モンテビデオ(ウルグアイ)、大阪、東京、名古屋などで日本のタンゴ史について話をする機会を得た。その時気になりつつもちゃんと調べる時間と機会がなく、そのままになっていた気がかりなことをここで考察してみたいと思う。

日本のタンゴ史において、タンゴ、特にアルゼンチン・タンゴを日本に初めて紹介した人物として出てくるのは、目賀田綱美である。目賀田綱美はあの勝海舟の孫であり、1920年9月に国際連盟総会ジュネーブ会議に全権代表として出席した父・種太郎の付き添いとして初めてパリを訪れた。ある日のこと、パリのナイト・クラブ「エル・ガロン」に案内され、そこでアルゼンチンのマヌエル・ピサロ楽団の演奏を聞き、タンゴ・ダンスを知る。そのままパリに留まり、タンゴと社交ダンスを学び、滞仏中には社交ダンスのメッカ、英国にも渡り研鑽をつんだ。そして1926年9月に父危篤との知らせを受け帰国、1928年から友人たちにタンゴを含むフランス・スタイルの社交ダンスを教え始める。

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写真:マヌエル・ピサロ楽団のレコード「エル・ガロンの一夜」

ここで必ず出てくる話が「パリを離れるとき早川雪洲から餞別に贈られた12枚のレコード」を持って帰った。そして当時日本ではアルゼンチン・タンゴのレコードが発売されていなかったので、レコード会社に発売を薦め、その結果1928年7月に日本ビクターからアルゼンチン録音のレコードが日本で初めて発売された、というものである。(目賀田匡夫「目賀田ダンス」p.137、他の文献では早川から送られたのは12枚ではなく10枚となっている場合もある。)

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ここで疑問がわく。早川雪洲といえば、日本人で初めてハリウッドで俳優として活躍したことで知られる人物であり、その雪洲と目賀田綱美がなぜパリで出会っているのか?という点であった。そこで早川雪洲のバイオグラフィーの中で最も新しい、中川織江著「セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター・早川雪洲」(講談社、2012)を紐解いてみる。何より雪洲のあまりに激動的で豪快すぎる人生に驚かされるが、それはとりあえずここでは置いておいて、肝心の目賀田との出会いの部分を考察してみる。

 目賀田がパリに渡ったのは1920年9月、帰国したのは1926年9月である。その間で早川がパリにいた時期は、1923年7月から1925年7月の間ということになる。早川は当時すでにハリウッドで大きな成功を収めていたのだが、さらなる成功を求め、ヨーロッパの中心であるパリに滞在し、ヨーロッパのマーケットへの進出可能性を探っていたのだそうだ。早川は早くからタンゴを見事に踊る日本人がいたことに気づいていたが、すぐに声をかけることはなく、5,6回目にようやく声をかけ、親交を持つようになったという。

セッシュウ! 本

 早川がパリを去るきっかけとなったのは、1925年3月、当時のほぼ全財産であった500万フランをモンテカルロのカジノのバカラ賭博で全部すったからだという。豪快にもほどがある(と同時にそれぐらいすぐにハリウッドで再び稼げるという自信もあったのだろう)。早川はその後パリを去る際に手元にあったレコードを目賀田に贈ったのだという。つまり上記の「餞別」はパリを去る目賀田への餞別ではなく、パリを去る早川雪洲が、まだパリに残る目賀田綱美にプレゼントしたものだったわけだ。
アメリカから新しいものを求めてヨーロッパにやって来た早川にとってタンゴ・ダンスは大いに魅力的なものに映ったに違いない。きしくも早川がハリウッドを離れる少し前に無声映画時代のイタリア系大スター、ルドルフ・バレンチノが「黙示録の四騎士」(1921)、「血と砂」(1922)という2本の作品でタンゴ・ダンスを踊って大評判をとっており、早川がタンゴ・ダンスに無関心でいられたはずはない。

 早川から目賀田に贈られたタンゴのレコードは「別れの贈り物」だったとされる。私は当初目賀田がパリを去る際のプレゼントだと勝手に解釈していたのだが、先にパリを去ってハリウッドに戻ったのは早川の方だった。それ以降目賀田と早川は会うことはあり得ないと思うので、これは早川がパリを去る際に目賀田にレコードを託したことになる。そこでもう一つの疑問が出てくる。この時早川が託したレコードは誰の演奏だったのか?ということである。この時早川が目賀田に渡したレコードの内容についてはどの文献にも出てこないが、単に「タンゴのレコード」ではなく、ほとんどの場合「アルゼンチン・タンゴのレコード」と書かれている。

そこでまず考えられるのはそれらがアルゼンチン盤のタンゴのレコードだったという可能性である。しかし1925年7月当時、タンゴ・ダンスはゆっくりと欧米で定着し始めたタイミングであり、パリで簡単にアルゼンチン盤が入手できたとはあまり思えない。アルゼンチン原盤をフランス・プレスで発売するということもなくはないが、1925年の時点では少なかったはずだ(25年前半だとまだマイクによる電気録音が始まっておらず、音質の点でも海外盤を輸入したり、海外原盤を国内でプレスするメリットが乏しかったともいえる)。
 もう一つ考えられるのは当時パリにいたアルゼンチンのアーティストが録音したレコードだった、ということである。1925年前半の時点でヨーロッパ滞在・録音経験のあるアーティストは、1920年に渡仏したセレスティーノ・フェレール(pf)とグェリーノ・フィリポット(bn)(フィリポトはその後ロンドンへ拠点を移し、フィリポト=アリオット楽団で活躍した)、いずれも1920年8月に渡仏し自己の楽団を率いたマヌエル・ピサロ(bn)とヘナロ・エスポシト(bn)、1922年に渡仏し1924年に客死したエドゥアルド・アローラス(bn)、共に1924年に渡仏しパリのタンゴ界で最も成功したアーティストとなるエドゥアルド・ビアンコ(vn)、フアン・デアンブロージオ(バチーチャ)(bn)がいる。しかしこれらのアーティストの中で早川の帰国前にレコードを発売していた者は少ない。フェレール、フィリポット、アローラスはこの時録音を残していないし、マヌエル・ピサロの録音開始は1925年、ヘナロ・エスポシト(ターノ・ヘナロ)は1924年、ビアンコ=バチーチャ楽団の録音開始は早川の帰国後だ。1925年前半の時点でヘナロやピサロのレコードを入手できた可能性はあるが、おそらくまだ数点しか出ていなかったはずである。
 1925年アルゼンチンからパリに公演でやって来たフランシスコ・カナロのパリ公演を目賀田は見て、カナロとも親交を得ているが、この時カナロはパリで録音を行っていないし、カナロのアルゼンチン録音のレコードも果たしてどのくらいパリで当時発売されていたか疑問である。
渡仏アルゼンチン人の録音開始時期が遅いのは、音楽家ユニオンの規制によって、パリにおける外国人のレコード録音が実現しにくかったこととも多少関係があるだろう。ダンスホールで好評を博していても、録音を行うことはまた別問題だったのだ。

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写真:パリで活躍したフアン・ダンブロージオ(バチーチャ)楽団

さらにもう一つの可能性としては早川が北米からアメリカ盤のタンゴ・レコードを持ってきていた可能性である。オルケスタ・ティピカ・セレクト(1919~20年)、セレスティーノ・フェレール=ビセンテ・ロドゥカ楽団(1917~19年)など可能性は広がるが、これら1920年頃までに北米で製作されたレコードの多くは、米国でプレス製造しアルゼンチンへ輸出するのが目的で、1920年代半ばに欧米でそれらのレコードの入手がそれほど簡単だったとは思えない。まして音質的に劣る数年前の製品をわざわざ集めてくるということもあまり考えられない。

さらなる可能性として、ヨーロッパの楽団の演奏するアルゼンチン曲だったということであれば、パリで活躍していたジプシーバンドの演奏や、ドイツのマレーク・ウェーバーの初期盤(「ガウチョの嘆き」「たそがれのオルガニート」等)もあるが...

 目賀田は1926年9月に日本へ帰国し、しばらくして知人にタンゴ・ダンスを教え始め、1928年にタンゴ・ソサイエチー編として日本初のタンゴを含む社交ダンスの教則本が出版された、このタンゴ・ダンスに言及した日本で最初の本の中では「なほ、スペイン風のタンゴ・ミューヂックでは例へステップは踏めても絶対に気分が出ないからレコードの選定には充分注意を払う必要がある。ヴエノス・アイレスで吹き込んだものであれば間違ひないし、又パリでも中々よいレコードが出来ている」(「独習自在 社交ダンス」 目賀田男爵序、タンゴ・ソサイエチー編、p102、漢字のみ現代表記に変換)とはっきり明言している。パリのアルゼンチン人のバンドもいいが、それよりもアルゼンチン録音がいい、とはっきり言及しているのである。ということは1920年代中頃のパリでもある程度アルゼンチン盤を聞くことが出来たのか?...。早川のプレゼントの中になくとも、パリでタンゴ・ダンスを教えている人たちからアルゼンチン盤を手に入れることが出来たかもしれないが...(ちなみに目賀田は当時パリにいたアルゼンチン人のダンス教師から直接習ったことはないようだ)。

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目賀田は帰国後ほどなくフリオ・デ・カロのオーケストラを日本に招く、という大胆な計画ももっていたらしい。デ・カロが初めて海外公演(欧州)を行うのは1931年なので、目賀田はデ・カロをレコードで知って、その素晴らしさを認識したはずだ。

もう一つ気になるデータとして、目賀田が昭和3年(1928年)に日本ビクターに勧めて発売させた、日本初のアルゼンチン録音盤の存在がある。意外と確かな資料がないが、私の調べた範囲では、ホセ・ボール(79724 Y fur tu risa/Pupilas brujas)、オルケスタ・ティピカ・ビクトル(79730 Te fuiste/Hilos de plata ,79875 Julian/Pura pierna, 79876 Sonsa/De mi barrio, 79880 El entrerriano/Barrilito,79898 Cancionero/Gitanita, 79905 Mala/Vieja loca)、そしてフリオ・デ・カロ(79924 Amurado/Tierra querida)の発売が確認できている。番号・レーベル・デザイン共にアルゼンチン盤と同じで区別がしにくいが、日本盤は文字のフォントが異なり、レーベル下部に Victor Talking Machine CO. of Japan, Ltd. の文字がある。

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これらの録音を目賀田は自分で聞いた上で会社に勧めたのだろうか? だとすれば、パリから持って帰ったわけではない。なぜならこれらは1926年後半~1927年前半の(当時の)最新録音で、すべて目賀田のパリ滞在以降にアルゼンチンで発売されたものだからだ。日本ビクターに取り寄せてもらって聞いてから決めたのか? それにしてはデ・カロ盤の発売などはとても早いので、カタログ上でよさそうなのを選んで注文したのだろうか...。同じ番号でアメリカでも発売されていたものもあるので、取り寄せが早くできたのか? 一説によれば総目録には含まれない特別注文生産で、あまり売れなかったとも言われているが、上記のうち79724, 79730, 79875, 79898の4枚は1932年の総合目録に残っており、そんなに売れなかったわけではないだろう。

結局早川が目賀田に贈ったレコードの内容を特定することは出来ない。果たして1925年以前のヨーロッパで、アルゼンチンからアコースティック録音レコードを取り寄せるような奇特な人が欧州にもいたのだろうか....?
いずれにしても驚くのは、そのような情報の少ない時代に、アルゼンチン録音のタンゴ、欧州に渡ってきたアルゼンチン人の楽団、ヨーロッパ人の楽団の演奏ニュアンスなどの違いを認識していた目賀田の感覚はとても鋭いものだ。フランス仕込みなのに、日本のアルゼンチン・タンゴ・ダンスのパイオニアと言われる由縁である。

 ちなみに早川雪洲がパリを去る決心をしたのは、モナコのバカラ賭博で、一晩で500万フランをすり、ハリウッドの家も売却して無一文になったので、ハリウッドに帰ってまたひと稼ぎすることにしたからである。この時代に世界を飛び回った人たちの人生はケタが違う。

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写真:早川雪洲


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写真:晩年の目賀田綱美


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