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読書録「人類学者たちのフィールド教育 - 自己変容に向けた学びのデザイン -」

どんな本か

「フィールドワーク」という言葉が一般に普及して久しい。

現地に足を運び、自分の目で見て一次情報を集めることの大事さは、あらゆる分野において多くの人が実感していると思う。(かくいう私は、院生時代に絶滅危惧種の生態調査のため、タイの田舎へフィールドワークに赴いたことがある。残念ながら、当時は自分の社会資本が不足しすぎて、ほぼ気付きを得られずに帰ってきた。)

本書は、人類学者たちが蓄積してきたフィールドワークのプロセスを教育の場に提案することで「自ら学びを生み出していく力」を養うことを目指すものである。

ここで思う。私たち大人は社会に放り込まれた途端「自ら学びを生み出していく力」を求められる。ただ、これがなかなか難しい。一朝一夕で身につくことがないことは、本書を読めば明らかだと思える。
私は、本書を「変わらなきゃ」という圧に苦しむ大人のための本、でもあると思っている。是非買って読んでみてください。

用語解説

【PBL】(課題解決型学習 / プロジェクト型学習)
教員が現実の事象から課題を提示したうえで、学習者が少人数のグループをつくり、資料収集などデータを集めると同時に、議論を繰り返すことを通して問題解決を図る学習方法のこと。
【SFL】(Self transformation-oriented Field Learning)
自己変容型フィールド学習。本書でメインで扱う学習方法。
あらかじめ解決すべき課題が決まっているか、社会的課題の発見を義務付けているという意味で「予定調和」的なPBLを、より不確実性を許容し、問題そのものを省みる機会としてフィールドを知ることを経由する。

自己変容型フィールド学習の仕組み

SFLとは、3つのコンピテンシー(能力)を可能にする学習法といえる。

無題の Jam 3

1. 社会的文脈に埋め込む
まず本書における「社会的文脈」を定義する。「特定の現象に注目した際、その現象の背景にあって、その現象に何らかの関係がありそうなもの」のことを、社会的文脈と指す。

・・・抽象的すぎてしっくりこないので、人類学では有名なポトラッチの例を抜粋する。

かの競合的な饗宴は、日本人の私たちにとっても不思議な現象に見えて仕方ない。しかし、彼らの理屈からすると「部族内の政治的序列は富を基盤としており、富は霊(spirit)による加護の証明」だという。このような背景があることで、ポトラッチが彼らの社会の中では正当化される。

完全に余談だが、この漫画に登場する榊さんがたまに私財を投げ打って買った上等な肉でつくる牛丼は「ポトラッチ丼」と名付けられている。
文化人類学ネタがちょいちょい挟まれていて、好きな方にはおすすめです。

そうした明文化されていない社会的文脈を見出すことが、自己変容への第一歩である。

2. 偶発性に身を委ねる
偶発性とは想定外の事態とも言い換えられるが、現代の私たちは、この「想定外の事態」を無意識的に排除する傾向にある。

規定の枠組みのなかで理解可能な部分だけを切り取って、他者を消費する。突発的なことや想定外のことへ負の感情を抱き、それができる限り起きないようリスクマネージメントする。
組織、そして社会に属する限りは、当たり前のふるまいとして認識されているように思える。

しかし、この変化は恐れ、排除されるべきものではない。むしろ、これまで自らが築き上げてきた「文脈」を客観視し、ふりかえり、新たなものの見方を獲得する絶好の機会といえる。

3. 自己を省察する
省察とは、自分自身を省みながら思索することである。決して反省といった自罰的な側面はないことに注意したい。何より「思索する」ことで、目線を未来に向けることができる。

ここで欠かせないのが、他者の存在である。自己省察とはすなわち相対化であり、他者の生活や文脈に自らをおくことで、自分の枠組みを初めて問い直すことができる。そしてそれが、自己変容の起爆剤になるのである。

自己省察の代償
ここまで書いてわかるように、自己省察こそが私たちが最も苦しく、逃げたいと思う部分といえる。
誰だって、自分の殻を破壊することはつらい。どうしても自分の一部(あるいは全部)を否定されたような気分になるからである。

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しかし、異なる価値観との接触を通して、自分がこれまでなじんできた世界が揺さぶられなければ、自己変容に至る自己省察自体をすることができない、と本書は指摘する。

「なじみ」からの切断は何をもたらすか

「なじみ」とは、小さな頃から慣れ親しんだ空間のことを指す。その環境から離脱して生み出されるのが「異和感」である。

ちなみに"違"ではなく"異"を用いるのは、人類学者である山口晶男が延べた「帰属のちがい」を表現したいから、とのこと。詳細は割愛します。  

このボーダーラインを超えたエリアは、よく目にする成長のフレームワークに近いといえる。「異和感」を覚えていること、すなわちそれはラーニングゾーンにおける私たちの在り方を説明している。

無題の Jam 2

「異和感」は意識して言語化しないと、そのまま忘れ去ってしまう。しかしこの気付きこそが、ものの見方、解釈を更新するきっかけなのである。

まったく居心地の良いものではないが、他社との対話と自己省察を繰り返すことで、変容を遂げることができる。またそれは、外の世界、つまり他者への寛容さを育むことへも繋がる。  

それはほんとうに「正しい」のか?

ここまで理論を中心にまとめてきたが、実は、本書では実践の例が数多く紹介されている。ここでは1つの事例をかんたんに紹介したい。

ある教育学部2年のヨネは、プロジェクトの一貫でタイ・ラオスの山岳地帯に住む少数民族「ムラブリ」を訪れ、一定期間ともに生活をした。
そのフィールドワークのある晩のミーティングにて、彼は『僕はムラブリが嫌いです』と述べたという。
「何が嫌いなのか?」とたずねたところ、彼は「ムラブリには向上心がないから」と答えた。そこですかさず「ヨネにとって『向上心がある』とはどういうこと?」と尋ねると、彼はすこし考えて「夢や目標に向かって努力すること」と言った。
更に「なぜ夢や目標に向かって努力しなければいけないのか?」と聞き返すと、彼は黙った末にしばらく考えたい、と申し出た。

ここで自分がなるほどと膝を打ったのは、教育者側の問いかけ方である。決して学生の感情や考えを否定せず、答えを提示せず、学生の価値観という名の「殻」を1枚ずつはがしていくような対話を実践していると感じた。

最終的にヨネは、嫌いという感情は「自分の人生が大きく否定された」と感じたことで生まれたものであること、そしてその背景にある自分の価値観自体を疑うことに至った。
ヨネは自分の価値観をムラブリに押し付けていたことを反省し、「僕は彼らに寄り添うのではなく、比較していた」と言語化した。

今回、確かな自己変容まで到達できたこの学生にとって、教育者が度々「良いか悪いかは別にして」という枕詞を多用していたことが印象的だったという。この言葉が示すように、フィールドから発せられる問いは、答えのないものばかりであると思う。

私たちは、明瞭な解を「なる早で」求められる社会に生きている。そんな時、二者択一はわかりやすく、とても楽である。
しかし、ものごとを多面的に見る力を獲得するには、こうした答えのない問いに向き合い続けるほかない。改めて、そこには他者が不可欠なのである。

SFLの教育者として求められる姿勢

少しだけ、教育者側の視点に立ってみたい。

すでに何となく見えてきていると思うが、ここでSFLを実践する側に求められるのは「知識の提供」ではなく、「言語化の促進」といえる。(もちろん、これだけに止まらないことは強調しておく)

所謂、ファシリテーションではないかと思う。教育の場だけでなく会社のチームであったり、有志の活動において「より新しい状態」を目指すには、良いファシリテーションが生み出す対話が不可欠だといえる。

さいごに

ある意味、この本自体が、自己変容を生み出してくれる「他者」であると思います。是非、買って読んでみてください。


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