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旅の終わり——沢木耕太郎『深夜特急』を読みながら

この冬から読んでいる沢木耕太郎『深夜特急』が、最終巻である第6巻にたどり着いた。香港から始まった旅はシルクロードを伝っていまやイタリアにまで到達している。
そこで主人公が感じたものは世界の美しさへの感嘆でも、旅で見つけた新しい自分でもなく、ウィスキーの空びんのような虚無感だった。ずっと掃除をしていない部屋の隅のように、長い旅の中で蓄積された疲れは、感動に躍動する心を失わせてしまったのだ。

旅は人生だ、といわれる。
しかし、長い人生の終着点付近で薄汚れた部屋に転がる空きびんのようになってしまうとしたら。薄ら寒い思いがした。なぜ、この旅は彼から生気を奪ってしまったのか。生の充実のうちにヨーロッパの光を見ることはできなかったのか。

これには深い実存的な話があるのだ、などとは思わない。
私には単に、彼が安宿に泊まりすぎただけだというように思える。相部屋の狭くて汚いベッドの上で、荷物を守るようにうずくまって眠る。ベッドは固く、シーツにはシミがある。あるときからシーツのシミが気にならなくなったのは、自分がシミを付ける側になったからだと書いていた。世界の清潔さを汚す側になったのだ、と。

ブッダガヤのトイレで紙ではなく手で尻を拭いたとき、またひとつ「これまでの自分」を手放すことができたと、彼は清々しさを感じていた。対照的に、シーツのシミは彼を解放することはなかった。シーツを汚す彼の身体はきれいになることはできなかった。どうすれば彼の身体に染み付いた汚れは落とすことができたのか。

私たちの精神は思ったよりもずっと身体の影響を受ける。白熱した会議を終わらせるのは精神の働きというよりは身体の疲労だったりする。コップの水を見て「まだ半分もある」と思うかどうか、同じ天気であっても心地よいと感じるかどうかも身体の状態に依存している。身体を抜きにして、精神だけをみずみずしく保つことはできないのだ。むしろ、身体のみずみずしさが精神を摩耗から守るのだ。

身体を清潔にせよ、部屋の掃除をせよ、休養を十分に取れ、という言葉は身体や環境を清く保つためだけでなく、精神を守るためにこそ発せられている。彼も長い旅の中でみずみずしい精神を保つためには、小汚い安宿にばかり泊まるべきではなかった。せめて温かいシャワーの出る、清潔なシーツの敷かれたホテルを選ぶべきだった。シミに触れたら、都度洗い落とさなくてはならない。シーツのシミは肌に浸透して、精神から清さを奪う。洗い流さなければシミは蓄積し、精神を空き瓶のように渇かしてしまう。

どんなに美しい景色も、歴史ある建造物も、精神が渇いてしまえば心を動かすことはない。人生の旅にあって、新しいものを美しいものをと求めているだけではやがて精神は擦り切れ、無感動のうちに晩年を迎えてしまうのだろう。そうならないために、身体を清らかにして、精神の働きの条件をみずみずしく保つ努力をしていきたいと思った。

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