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「山奥ニート」やってます/読書report

和歌山県の山奥で暮らすニート達…ということなので、山好きな自分の生き方の参考になるかなぁという期待や、「ニート」という自分の仕事フィールドの延長上にいる人たちの生き方、という仕事面での関心からこの本を手に取った。

しかし、読了した段階で、
うーむ、どちらにもあまり当てはまらなかったなぁ、という思い。

確かに、自然あふれる環境で暮らせて、生活費も月2万以下、ほどよい人間関係もある…というのだから、何だか言うことない暮らしだし、羨ましいかも、とも感じる。

また、この行き過ぎ感のある高度資本主義社会の息苦しい生活で疲れる人が一定数以上いるのは当然だし、その中で生きる方法を必死で探さなくても、山奥の集落でほどよく幸せに生きられるのならこういう生き方がもっと広まればいいんじゃないか(たとえ税金を払っていなくても経済活動をしていなくても十分だ)、という思いもあった。

なのに、なぜか自分や自分の周りの人が「山奥ニート」になったらイイナ、とは思えない。

何故だろう。

おそらく著者も触れていたように、「山奥ニートには思想がない」(それが山奥ニートとヒッピーとの違い)…というところに私はひっかかっているのだろう。
(著者はそのことを、「だからこそ長続きする」と肯定的に書いていたけれども)

思想、とまでは言えないが、私にも少々のこだわりがある。

「人間はイキモノなのだから五感を使って生きていきたい」
「季節を感じながら暮らしたい」
「子どもは閉ざされた空間ではなくたくさんの人の手や自然の刺激の中で育てたい」…というような。

「山奥ニート」は、そういう私のこだわりに結果的に叶う生き方ではある。
ところが彼らは別にそれを大事にしているのでもなく、シンプルに「なるべく働かなくても良くて、安く暮らせるから」という理由でその生き方を選んでいるようなのだ。

多分私は、そういう選択の仕方をあまりしたくないんだろうな…。

まぁ、そんな頭でっかちなことばかり言っているからいつまでも行動できないのかもしれないけど。

もう一つ、自分の中には「真面目に働いて社会に貢献すべし!」という価値観が、意外と強くあるんだなと気づいた。
「別にその人が幸せならそれでいい」「人に迷惑かけてないのだから」という考え方はあって、その考えを否定しようとは思わないが、特に肯定もできない。


だから、働かなくても食べ物は分けてもらえるし、必要な時に少しアルバイトすれば十分!という考えに、積極的に同意できないのだろう。もちろん、親元にいるニートに比べれば、自立という大きな大きな壁を乗り越えており、十分すぎると思うのだが。

「羨ましい気もするし、素敵だけど何だか違う。人生の一時期、そういう時があってもいいけど」という感じ。


でも、著者はとっても真面目に「山奥ニート」をやっていて、文章からは、その生き方を押し付けるでもなく引け目を感じるでもなく、ほどよく肯定しており、そんな著者に好意を持ったことも確かだ。

そういうコミュニティがあるのは、日本が豊かになることかも、という気持ちもあって応援もしたくなった。 

何だか矛盾しているなぁ。。。

ホッブズやルソーが言った「自然状態」ってやつに近いのかもしれない。みんなで一致団結して行動する必要が今のところないから社会契約を結ぶ必要がない。それぞれが自由な意思を持ち、自己で完結している。
「山奥ニート」やってます 石井あらた



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