見出し画像

木曜日の子ども【読書report】

読んでいる時は気づかなかったが、感想を書く段になり、改めて読みなおしてみて、「中学生の男の子の父親である」ということが、どれほど大変なことなのか、それを象徴的に表した話なのではないかと思い至った。

清水芳明は、香奈恵と結婚し、連れ子の晴彦の父親になる。
晴彦は中学2年生だ。
思春期。

息子と父親との関係は、血がつながっていても、かなり微妙なものになってゆく。父が、息子にとって同性の大人としてのモデルでもあり、子どもに立ちはだかる壁でもある…というアンビバレントを、父も子も、どう体験していくか。そこにその親子ならではの個性が現れる。

多くの子は、乳幼児期に一度、母親との融合状態から抜け父親という第三者と出会う体験をしているものだが、晴彦は、母子家庭で育ってきており、父親との三者関係を体験したことがない。

ずっと母がすべての世界であったのに、中学に上がり、同級生からの自分への嫌がらせがきっかけで、母親が貶められるという二重の苦しみを味わう。母親への罪悪感は、裏返すと、母親を守るのは自分だという全能感だ。
しかしそこに、「新しい父親」が現れる。
母親を守る存在ー大人の男ーが突然現れるのだ。
母をよろしくと素直に割り切るには子どもすぎるし、自分とお母さんを守ってもらえると喜ぶには大人すぎる年齢。
それに加えて、母を守るどころか傷つけてしまったという体験をしたばかりの晴彦は、整理しきれるはずもない自分の思いを押し殺し続け、仮面の息子を演じる。

「木曜日の子ども」事件を起こした犯人、上田祐太郎は、そんな晴彦の闇を一手に引き受ける、ダークヒーローだ。
言葉たくみに、晴彦の気持ちを操って、死の世界に引き込もうとする。
仮初の父親でしかない清水は、そんな上田祐太郎にまったく太刀打ちできない。上田たちの言葉に「違う」「やめろ」としか反論できず、なすがままにされてしまい、情けない姿をさらすしかない。
終盤の、上田たちと清水との掛け合いは、圧倒的に上田たちが優勢で、
読んでいて、情けなくもっとしっかり反論できないのかと、歯がゆい思いをしながら読んでいた。

しかしよく考えると、理路整然と死を美化する相手に、叶う論理などあるだろうか。なぜなら、「生きたい」「生きていてほしい」という気持ちは理屈ではないのだし、仮初の父親でしかない清水は、晴彦に理屈抜きの愛情があるわけではないのだから。

しかし、とことんまで上田たちに追い詰められ、「大人」としての余裕をかなぐり捨てて、自分の中のエゴや無力さを嫌というほど思い知った時、ようやく、死に取りつかれていた息子は、傍に歩み寄ってきてくれる。
最後に清水が晴彦にかけた言葉は、「帰ろう…お母さんも待ってる…ウチに、一緒に帰ろう…」だった。
その言葉は、理屈ではなく清水の中から自然に湧き出てきた言葉で、その言葉を聞いた晴彦は仮面を捨てて素顔を見せ、「お父さん…」と呼びかけてくる。さながら魔法が解けたかのような一場面だ。

思春期は、死と隣り合わせになりやすい。
存在を否定される体験をしてしまった子どもはなおさらだ。
穴の底にいる人は、穴の上から「頑張って上っておいで」と呼ぶ人を信頼できるはずがなく、引きずり落してやりたくなるものだ。
この話は、中学生の息子にとって真の父親であることがいかに大変であるかを描いた物語であるのと同時に、
どうすれば晴彦の傷ついた魂が救われるのか、その困難な道のりを描いた物語だったのではないだろうか。



この記事が参加している募集

#読書感想文

187,854件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?