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日々よしなしごと~母を送る~


12月の初めに母が亡くなった。

認知症になって8年。2年前に脳梗塞になって左半身付随になったことで、とうとう自分のことはほとんどできなくなった。普通なら救急搬送から入院→リハビリ病院3か月→老健というのが一般的な流れだと言われたが、認知症だとさらに限られた施設になるらしい。仕方なくその少ない選択肢の中である施設に入所した。しかし、様子を見に何度か行くたびに悲しい気分と怒りのようなものを持ち帰った。おそらく、この施設だけの問題ではないと思うので、ますますやるせない思いだった。

脳梗塞になる前に、毎日通っていた小規模多機能の施設の理事長は友人で、そのことをぼやいたら、見舞いに行って様子を見てくるとケアマネジャーのご主人とともに行ってくれた。そして、自分の施設に同じ介護度の人がひとり退所されたので、預かってもいいよと言ってくれた。ただし、料金は老健よりも高くなるし、週一の帰宅も勧められた。現実としてこのような対応ができるのは、実際にはかなり稀なことだ。家族としてできるだけのことはしようということで夫と相談し、結果老健を退所し、友人のところに行くことになった。

郊外の大きな家を改装したその場所にはデイサービスやショートステイの人などがいて、母は寝たきりになることなく、日中は車椅子で他の利用者の方たちとレクレーションしたり食事をしたりして過ごした。時にはドライブにも連れてもらったりしていた。スタッフは最期まで面倒見ます!と言ってくれていた。いろんな状況でいつものように優しく対応してくれた皆さんには感謝しかない。

週一の帰宅は、午後3時頃に戻り一泊して翌朝9時過ぎに迎えに来てもらうという習慣が約2年続いた。食事も母の食べられるものを準備することや、おむつ替えなどももちろんする。週一母を迎えることは、私たちの暮らしの主軸となっていてその日を中心に回っている感覚だった。最初にそのことはやって行こうと決心したことだったので、不思議と負担感はなかったのは、何かあればその施設に相談できるという安心感があったからだと思う。

そんな母との間に葛藤がなかったかと言えばうそになる。それは世話をすることのわずらわしさとは違う。脳梗塞は認知症を一足飛びに進行させる。母には全くというほど親子であるという認識は無くなり、その状態に対する戸惑いというか悲しさというか、こちらの思いや感情が全く通じなくなることのショックというか・・・

そのような私自身の気持ちの収め方に少し時間はかかったが、最終的に娘であるという認識はなくても、とにかくこの人を大事にしよう。痛いとか辛いとか嫌なことはしないでおこう。静かに穏やかに過ごせるようにだけしようと決心した。そう決めてから、私は「ばあちゃん」と呼びかけるのを「○○ちゃん」という施設のスタッフが母に呼びかける名前に切り替えた。

当時の母の癖は、自分の着ている服の襟を噛むことだった。すぐに服がぼろぼろになるので、噛んでもいいものをベッドにくくりつけておくことにした。それでも服はぼろぼろになったけど、無理にやめさせることはせず、新しい服を用意した。

最近は歯ぎしりに変わっていた。相当な音を発していて歯が擦り切れるんじゃないかと思うくらい。母は歯が丈夫で90歳でも全部あったので、歯ぎしりもできるんだねと家族と思わず笑うこともあった。

今年の夏の猛暑で食欲も落ちたりしつつ何とか乗り越えてきたが、11月の半ば頃から目に見えて食が落ち、末近くについに全く食べなくなったという連絡が来た。帰宅もおそらくこれが最後になるだろうと言われた。そして帰宅の前日にもういつ最後か分かりませんという連絡入り、慌てて様子を見に行った。

いつもは目も半分閉じて虚ろな感じなのに、ぱっちりと見開いて回りをきょろきょろと見て、私が行くとじっと見つめて顔を手で触ったり、メガネを外そうとする、手を握ったりしてくる。ああこれはきっと何か言おうとしているんだと思うと涙があふれてきた。

がんばったね。ありがとうね。大丈夫だよ。

こんな言葉しか出てこない。しばらくすると疲れたのか目をつむった。

再度呼び出しがかかったのはその日の夜中だった。すぐに夫と出かけたが、一足遅くすでに逝った後だった。看取ってくれたスタッフに最後の様子を聞き静かに逝ったとのことで安心した。何よりその表情がとても穏やかだったことで、私たちは大きな安堵を覚えた。

その後は、家族葬とはいえ葬儀の手配と一連の儀式が続き、その間娘と孫も帰省し一緒に母の遺体とともに我が家で3日間過ごした。孫も全く動かないひいおばあちゃんを見ても怖がることなく、不謹慎かもしれないが時に笑いも起こる親密で優しい時間になった。

そして、母はお骨になって家に戻って来た。

亡くなって2週間と少し。やっと以前の日常に戻ったが、まだまだ母が帰宅していた時のちょっとした癖が残っているが、いずれそれもなくなって行くのだろう。

今思うことは、母のあの最期の時の表情や手の動き、そして亡くなってきれいにうっすらと死化粧をしてもらった顔の表情だ。明らかにそれまでの認知症である母の表情とは違っていた。最期の表情は、テンションが上がっているというか、何かを伝えなくてはという緊張感と切迫感があった。その気迫に打たれ、言葉はなくても充分に伝わるものがあった。

亡くなった後の表情も認知症の顔ではない。とても穏やかで美しく、開放感と安心感に満ちて知性すら感じる表情だった。化粧の効果というのとは明らかに違う。

母の死後、偶然にTVのある番組の中で、お寺の住職で宗教学者という方の言葉に思わずこれだ!と叫んだ。それは、認知症となっても、自分にとって大事な人という思いだけは残るのだと。
さらに、人間は死ぬまでにいろんな自分をさらけ出して行くものだと。一休が詠んだ歌

裏見せて表も見せて散るもみじ

認知症となり、本当はこんな自分になりたくなかっただろう姿をさらけ出し、人に迷惑を掛けたくないと言っていた母だが、多くの人の手を借りて生きるしかなかった晩年。でも、これは母には深いところで辛い試練だったかもしれないが、私にとっても大きな学びだったと思う。

最後私が行った時には、おそらく母の中で最後の瞬間に認知症が治ったということでもなく、深い意識の覚醒があったんじゃないかと思う。そこで私にきっと伝えたかったんだろうな。ごめんねと。今、これを書いていてはっきりわかった。それを伝えたことで、きっと母の中で安堵感が広がり、認知症という本来の自分が見たら辛く悲しいことから解放された瞬間でもあったんだろうと思う。


認知症は悲しい病だ。本人はボケてしまって分からないから案外幸せなんじゃないか、という人もいる。本当にそうだろうか。ひょっとしたら、本人の心の深いところでは、そんな自分を歯がゆく情けなく悔しい思いで苦しんでいるのかもしれない。それをそのように表現できないだけだ。むしろ、試されているのは私たち家族なのかもしれない。結局のところ、私も母に向き合いながら、自分自身と向き合って闘っていたような気がする。

今母が亡くなって少しホッとしているのは事実だ。いろんな意味で。そんな自分をしっかり見ておこうと思う。私もいずれ同じような道を辿るかもしれない。やっぱり娘に同じような思いをさせてしまうかもしれない。だとしても最後に、ごめんねと言えるだろうか。そしてあんなに美しい顔を見せることができるのだろうか。

大きな宿題を残していったね、お母さん。


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