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優しさはトイレットペーパー

たとえば駅のトイレの紙が切れていた時に、次の人が使いやすい用に次のロールをセットして立ち去るとします。

それで次の人がすんなりとお尻を拭けたとして、わたしはその人に「わたしに感謝すべし」とは思わないし、その人がすんなりお尻を拭けるであろうことを確認するためにトイレで次の人が来るのを待つこともしない。

ただわたしの知ることのない世界に、ほんの少し良い形で関与できたことに勝手に嬉しく思う。

これはまさしく自己満足であり、言ってしまうと次にそのトイレを使った誰かは「駅でなくなったトイレットペーパーを新しいものに変えることを楽しんでいる人」である可能性だってあるのである。

もし、知らない誰かがすんなりお尻を拭けていたら嬉しい、そう勝手に思ってやるだけです。


それはいつもわたしの「優しさ」に適用される。

例えば自分の知る誰かが困っている時に、手助けをするとする。

たとえば「コーヒーがおいしく淹れられなくて困っています」かもしれないし、「お金がなくて飯を喰らえない」かもしれない。

それに対してわたしが自分の時間を使ってコーヒーの淹れ方を教えたり、ごはんを作ったりご馳走したりするとする。

その時にわたしはトイレットペーパーの時と同様にその人に「わたしに感謝すべし」とは思わないし、わたしがしたことのおかげで助かったろう?とも聞きやしない。

語弊があるかもしれないが、そこであなたが助かったことはわたしにとっては「わたしとは関係のないこと」であり、でもわたしはあなたが助かった姿を見たらそれとして「よかったね」と嬉しく思う。それは本当にそう思う。

でもそれはわたしには関係ないのです。

どれだけ力を使って時間を能力を使ってその人の手助けをしても、それはわたしがわたしのためにやっていることでしかない。

では逆に誰かに助けてもらった時はどうするのかといえば、それは感謝したいだけ感謝する。
ポイントなのは相手に伝えてもいいし、伝えなくてもいいということ。
トイレットペーパーを変えてくれたどこの誰かもわからない相手と、ごはんをご馳走してくれた相手と、同じ量の感謝だって構わないと思うのですよ。
それは相手には関係のないことだから。
わたしはわたしのために相手に感謝の気持ちを持っているのです。

優しさはいつでもどこでもトイレットペーパーを替えるようなことでしかないし、個々で少しずつ世界を(相手をではなく)優しくすることでしか、より多くが暮らしやすい世界はできないのかなと思う。

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