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焦る絵描きや漫画描きは下手なプライドを早く捨てたほうがいい

初めに言っておきたいが、これは要するに「しくじり先生」的な話だ。
私は下手なプライドを抱えていたために、“若い内にひとかどの者になる”ができず、のたうち回って苦しみ続けていた。

もしもあなたが今、かつての私のように「早く何とかしなきゃ」とか「うまくいきたい」と焦っているのなら、下手なプライドを早く投げ捨てたほうがいい。

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19歳の頃、私は「もう20歳になるのに、まだ何者にも成れていない」と焦っていた。そして29歳の頃も、「もう30歳になるのに、まだ何者にも成れていない」と焦っていた。そして今年39歳になるが、1mmも焦っていない。お金は順調に入るし、出版社から本は出せたし、自分の好きな漫画も沢山描けるようになった。実家との関係も良好だし、気のおけない友人も増えたし、パートナーとも毎日仲良く暮らしている。

約24年もの間、精神疾患だったにも関わらず、だ。

それは別に40歳が「不惑の歳」と言われているからではない。大体それは人生が5〜60年くらいだった頃の話じゃないか。平均寿命が80歳前後になったこの日本で、40歳で不惑になっている人間はほぼいない。むしろ40や50になってから惑っている人も多い。

私が創作人生において惑わなくなったのは、冒頭で言った通り、「下手なプライド」を捨てたからだ。

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絵描きや漫画描きに限らず、創作する者にとってある一定の「プライド」は必要だと私も思う。プライドをすべて投げ捨てて描いたり創ったりしていると、安く買い叩かれ利用され物理的に死ぬ。あるいは精神的に死ぬ。

では私の言う「下手なプライド」とは何か。様々あるので一言では説明できないが、大きく言えばこの2つだと考えている。

・人に指摘されたくないプライド
・未熟なものを他人に見られたくないプライド

私はこの下手なプライドを長年抱え続け、「ぜんぜんうまくいかない」「お金がない」「思った通りにならない」創作人生を20年くらい過ごした。

逆に言えば、このプライドを捨てたおかげで、わずか数年で「自分の思った通りの創作人生」を歩めるようになった。

モノを創るプライドはもちろん必要だ。私はそのプライドを「中核」とか「軸」とか呼んでいる。これだけは譲れないという、誰かのためではない、自分自身のためのこだわり。

しかし、下手なプライド—「自分の足を引っ張る信念」は、まちがいなく不要だ。

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人に指摘されたくない、未熟なものを見られたくない、というのはつまり「恥をかきたくない」という心理に繋がる。
恥をかくことに抵抗がある人間は、創作活動で大成しにくい。なぜか。

創作とは「自分の恥部を喜んで見せる変態的行為の一種」だからだ。少なくとも、私はそう考えている。恥部、とひとことで言うが、つまりそれは自分の内面や経験や趣味嗜好といったものだ。

ほとんどの人は、自分の情熱をかたむけた創作物など見られるのは恥ずかしい。私は中学校の卒業文集に書いた同人小説みたいなものを思い出すだけで、顔から火を噴きたくなる。多分ぷよぷよ(か魔導物語)のパロディ小説だった。なぜあんなものを卒業文集に書いてしまったんだ。阿呆か。

しかしそれなのに、あの頃以上に自分の内面や経験や趣味嗜好をさらけ出した創作漫画を、39歳になる歳になってまでなお描き続けている。
それは「創作のためにかく恥なら平気」だからだ。もしくは恥部を晒して喜ぶド変態だからかもしれない。できれば前者であって欲しい。

「自分の恥ずかしい部分を見られたくない(見せたくない)」人間は、自分の作品においても何かと格好つけたがってしまう。そんな作品が人の心を動かせるだろうか。否動かせない。(反語)

自分の過去の漫画を読んでいると、それがよく分かる。人が心を動かさない、萌えない、燃えない作品を私は大量に量産していた。
「恥をかくのを恐れていたから」だ。

逆に、限られた世界・読者の中で私が描く作品は、非常に伸び伸び活き活きとしていた。人気もあったし評価もされていた。
同人活動や鍵付きサイト、年齢制限ありの作品だ。

私はそれを「同人がウケるのはオリジナルが優秀だからだし」「エロは所詮人気あるし」と思っていた。それもあるかもしれないが、半分以上は間違いだ。私はその世界では、恥をかくことを恐れていなかったのだ。なぜなら、超限定された空間だったから。

私は「有名になりたい、沢山の人に見てもらいたい」と思いながら、多くの人の前に出ることを恐れていた。限られた読者や観覧者の中で、活き活きと恥をかくことに依存していた。

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ここ数年、私は「完璧でなくても出そう」「どんどん指摘されに行こう」というモットーで創作活動をしている。

「もっと完璧に上手くなってから世の中に出そう」というのは、完璧主義というよりも「恥をかきたくない」気持ちのほうが強い気がする。
断言するが、作品および描く能力は「人に見せて」「完成させて」こそ飛躍的に伸びる。

「完璧な状態になるまで人に見せたくない」などと言っていると、かつての私のように「10年経っても20年経っても自分の思う通りにならない」という道を進むことになる。未熟でいいから他人に見せるべし。そして完成させたほうがいい。

そして「どんどん指摘されに行く」こと。
と言っても、ネット上の批判コメントをいちいち気に留める必要はない。

もちろん10%くらいは「作品を良くする指摘」もあるので、全てを無視する必要もない。ただ、「こう言われたからこういう絵(話)にしないといけないのかな」などと考えるのは時間の無駄だ。

もちろん修正後の絵や物語が「自分の中核に沿うもの」であるならバンバン修正したほうがいいが、そうでなく自分の中核を曲げ、読者軸になるのならやめたほうがいい。

それで仮に売れっ子作家になったとしても、いずれ心を病むか自殺する羽目になる。自分の中核は曲げてはいけない。

また、「傷ついた自分」を受け止めるのも必要だ。
よく「こんなことで傷ついていたらプロになれない」と言う人を見かけるが、自分の痛みを無視してプロへの道を突き進んでいると、やはり心を病むか自殺する羽目になる。

私たち創作する人間は、「この程度のこと」で心を痛めてもいい。
「役に立たない批判をスルーすること」と「自分の心の痛みをスルーすること」は似て非なるものだ。ここを混同してはいけない。

少し話が逸れたが、それでは、誰に「指摘」してもらえばいいのか。
自分(私)のことを好きな人、自分の作品を良くする意思のある人だ。

出版社の持ち込みで受ける指摘も役に立つが、心が弱い状態だと「やっぱり私には才能なんかないんだ……」と自己否定の嵐に呑まれて死ぬ。
あなたと本当の意味で対等に付き合ってくれる友人、あるいは同じ創作活動をしている同志がいい。

ちなみに私も最近の漫画は、すべてラフを友人にチェックしてもらっている。なぜかそのうちの一人は漫画も描いていないし編集部に在籍したこともないのに、ヘタな新人編集者よりも優秀な編集能力を持っていると感じる。とにかく指摘が的確なのだ。

そして対等な関係なので、私のこだわっている部分に「これは何でこうしたのか」と聞かれたら、「それはこういう設定があってですね!」とバトルすることもある。笑
しかし基本的には彼女の指摘にヒントを得て、より良く改良する方向へ動く。実際、独りで勢いで描いた物語よりも数段いい物語ができあがる。

同じ創作活動をする同志は、また違う視点で指摘をしてくれる。
「読者として」の視点はもちろん、「同じ描く人間として」モノを言ってくれるのだ。そしてマウントを取ることや足を引っ張ることを全く考えていない人達なので、「聞く必要のない批判」が一切ない。

私の作品を良くすることを本気で考えてくれる。
だから私も、全力で感謝するし、同志の作品を同じように指摘する。
自分の作品を良くしてもらった恩返しに、彼女たちの作品ももっと良くなってほしいからだ。そして彼女たちには、それができる能力があるから。

ちなみにこの友人は、最近知り合った人ではない。以前からよく知る友人たちだ。私は「恥をかく勇気」を持つようになってから、自分の作品や未完成のラフを彼女たちに見せるようになった。
以前の私なら考えられなかったことだ。
指摘されるのも嫌だったし、未熟なものを見られたくもなかったから。

思えば「指摘されるのが嫌だ」という心があったのは、そもそも自分で自分に「私(の作品)には価値がない」と否定していたからではないか。
だから的確な指摘を受けても「私はどうせダメなんだ!!」とすぐへこたれたり傷ついたりしていた。

「恥をかきたくない(かかされたくない)」気持ちの奥には、根深い自己否定があるのかもしれない。自分で自分を否定しているから、どんな言葉にも傷つく。誰にも何にも言われたくない。誰にも頼りたくない。
独りで何とかしようとしてしまう。

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もしもあなたが「早く何とかなりたい」「うまくいきたい」「お金が欲しい」と思ってのたうち回る、かつての私のような状態であるなら、下手なプライドを捨てること。

誰にも頼れないというのもまた、下手なプライドの一種だ。「誰にも弱みを見せたくない」というのは「自分の恥ずかしい部分を見せたくない」というプライドに繋がるから。

そしてそれ以前に、自分で自分を強く否定するのをやめること。
というより、気づいてすらいない人もいるので、「自分で自分を否定している事実」にまず気づいたほうがいい。
意識しているのとしていないのとでは、かなり違う。

この記事は要するにしくじり先生的な話だ。
私の経験、そして心理カウンセラーとしての知識や考察からこんな話をしているが、「自分はそうはならない」と思うなら、聞かなくて構わない。

私は下手なプライドのせいで10年も20年も苦しんでうまくいかなかったのがバカらしくて仕方がないので、誰か一人にでもその10年や20年を省いてもらえたらいいな、と思ってこれを書いている。

が、自分の10年や20年を否定はしない。これはこれで良かったのだ。
だから誰かが私のしくじり話を聞かず、10年も20年も苦しんでうまくいかなかったとしても、「それはそれで良かった人生」が来ると信じている。

あとはあなた次第だ。
ごきげんよう、さようなら。

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