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自分はXジェンダー(FtX)とパンセクシュアルじゃないかと思った話

ずっと前からうっすら、自分の性自認(ジェンダー)にも性的指向(セクシュアリティ)にもモヤモヤはあった。

けれどわたしは「ちょっと変わった女」というだけで、自分が女であることに疑問も嫌悪感も抱いたことはないし、「性同一性障害と呼ばれる人とは違う」と思っていた。(今となれば心の性別と体の性別が違うだけで病気とか障害と呼ぶのも何かイヤだな、と思う)

最初にモヤモヤを感じたのは、数年前Twitterで「パンセクシュアル」というセクシュアリティを知った時だった。

パンセクシュアルについて

簡単に言うと、相手の性別にこだわらず、全ての人を好きになれる人。

男性も女性も好きになれるバイセクシュアルと何が違うのか、というと、「相手を好きになるときに性別が条件に上がらない」人をパンセクシュアルと言うのだそうだ。

相手が男だろうが女だろうが、体が男で心が女だろうがその逆だろうが、男にも女にも当てはまらなかろうが関係なく、ただ「その人がその人だから好き」
(とはいえ、バイとパンを厳密に分ける定義はないそうだが)

わたしはそもそも自分をバイセクシュアルだと思っていたので、「男も女も好きになれる、なぜならみんな人間だから」くらいにしか考えていなかったが、よく考えたらそれは「パンセクシュアル」の考え方に近い。
ああ、わたしはパンセクシュアルだったのか、と思った。

でも今は恋人(パートナー/男性)がいるし、パンだろうがバイだろうがどっちでもいいじゃん、と思ってその時はスルーした。​​

※パンセクシュアルについてはこちらの記事でも詳しく解説されています。

Xジェンダーについて

昔から母親に「あんたは男脳なんだよ」と言われたり、友人に「魂が男」と言われたりしていた。しかし別に気にしていなかった。

だってわたしはスカートを履くことや女性らしい格好をすることに抵抗がないし、むしろ好きだったからだ。体が女で心は男、という人はまず女性らしい服装を嫌悪するイメージがあった。わたしはそれではない。
女性トイレも普通に使う。

少し気にかかっていたのは、「女装家の男性が女装の素晴らしさについて熱く語っていた時、『その気持ちめっちゃわかる〜〜〜〜!』と思ったこと」だった。でもそういう女もいるだろう、と思ってスルーした。

そしてつい最近、「Xジェンダー」について知った。

Xジェンダーとは日本特有の言い回しで、海外で「X-Gender」などという単語があるわけではないらしい。

こちらも簡単に言うと「自分の体の性別に関係なく、心(性自認)が男性でもあり、女性でもある人」もしくは「男性でも女性でもない人」のことを差すそうだ。

少し曖昧な定義である理由は、Xジェンダーの中にも性別が複数存在するからだ。一般的に言われているのは、「中性・両性・無性・不定性」の4つ。

※詳しくはJobRainbowMAGAZINEの下記記事で説明されています。
https://jobrainbow.jp/magazine/xgender

わたしはおそらく「中性(男性と女性の中間地点に自身が存在する)」か「不定性(自分自身の性自認が流動的)」のどちらかだと思う。はっきりと言えないのは、本当にごく最近Xジェンダーについて学んだので、「そもそも男性と女性の中間地点ってどこや。どういうものを中間って言うのや」というレベルだからだ。

「わたしはわたし」とずっと一定のわたしでいる気がするが、時と場合によって「色んな性別のわたし」がいるような気もするので、明言できない。

自分の性自認に疑問を持つきっかけとなった漫画

そもそも自分が「女らしくあることより、自分らしくいたい」と思ったきっかけは漫画「イノサン」(坂本眞一・作)だった。

女性として処刑人一家の家に生まれたマリー(主人公の妹。2部のイノサン・ルージュでは彼女が主人公となる)は、髪を刈り男の服装をし、“これまで男がなるべきだった”職業である処刑人となる。

マリー=ジョセフ・サンソン
なぜあなたは男のかっこうをしているの?
なぜ女なのにそんな髪がたをしているの?
(中略)

私(マリー)は男の真似をしているのではない
私は着たい服を着て好きなように髪を切る
ただそれだけ…
(坂本眞一. イノサン. 集英社, 2015, p.151-153.)

このセリフでわたしは愕然とした。
彼女は別に「男になりたい」わけじゃない。
ただ自分の好きなことをしているだけだ。

マリーは子どもの頃から「リボンもフリルも大キライ」だが、女であることが嫌な訳ではない。その後、男性と結婚するし(恋愛結婚ではないが)子どもも産む。時々ドレスも着る(大体が相手を策略にはめるためだが)。
自分の叶えたいことのために、「女」の自分を利用することを厭わない。
初恋の人は男性だけれど、女性とキスも(多分セックスも)する。

そうか、自分のしたいことを堂々としてもいいんだ、と思った。
まず手始めにマリーのように髪の毛を半分刈り上げた。
男物の服をバンバン買って着るようになった。パートナーがおさがりの服をくれるようになったので、喜んでもらった。

そもそも女物の服よりも男物の服の方が色やデザインが好きなことに気づいた。けれど可愛いスカートも履く。わたしは別に「男になりたい」わけじゃないからだ。

男として、女として扱われたい訳ではない。
わたしは「わたし」として扱われたい。

「女性らしさ」に疑問を感じるようになった

わたしは20代〜30代前半までずっと「女として結婚したい、出産したい」と思っていた。そうすれば社会に認められる、母親や祖父を喜ばせられる、と考えていたからだ。

婚姻によって社会に認められる必要も、親や親族を喜ばせる必要もない、と気づいた途端、「結婚したい、出産したい」という欲が失せてしまった。
つまりわたしは別に結婚も出産もめちゃくちゃしたい訳じゃなかったんだな、と思った。他人のためにそうしたかっただけだ。

そもそもそれらを「女の幸せ」と言われることに嫌悪感があった。安室ちゃんが引退するときに「女の幸せを選んだ」という記事を書いた記者の頭をカチ割りたくなった。
年配のおじさんが「子どもを産んで少子化を止めなきゃ」と言っている時も「何で女だからと言う理由でわたしが少子化を止めなきゃいけないんだ」と頭をカチ割りたくなった。

世の中で「結婚したい」「出産したい」と言っている女性は、みんなかつてのわたしのように、「自分を認めてほしいから」「親や親族を喜ばせたいから」そうしているだけだろう、それに気づかずに「自分がそうしたいから」と思い込んでそうしてしまうんだ、と思っていた。

それを「ひょっとして違うのでは」と思い始めたのは、心理カウンセラーや恋愛記事のライターになってからだと思う。いろんな女性の話を沢山聞いているうちに、「社会に認められるためとか、親や親族を喜ばせるためだけでなく、本当に自分がそうしたいから結婚や出産を願う人がいるのだ」ということに気づいた。

わたしは「できればすればいい、できなければしなくていい」程度だ。
結婚式やウェディングドレスを着るのも、したくてしている人が多いことに気づいた。わたしは「結婚式でウェディングドレスのコスプレができればいい」くらいにしか考えていない。

“女性らしさ”とは何だろう? と考えるようになった。もし「結婚をしたい、ウェディングドレスを着たい、出産をしたい」と何の疑問も持たずに思うことが女性らしさなら、わたしは「女性らしく」はない。

しかしそれは「古臭い日本人的な女性らしさ」では? でも若い人も「結婚したい、子どもが欲しい」という。それが当たり前のように。

「女性」とは、「女性らしさ」とは、一体何だろう。そもそも「女性らしさ」に疑問を感じない人こそが、シスジェンダー(生まれた時の体の性別と心の性別が一致している)の「女性」なのではないか。

性的指向(セクシュアリティ)に対する疑問

性自認が揺らいできたら、セクシュアリティにも疑問を持つようになった。

高校生の頃、女性が好きだった。でも女子高だったからかもしれないし、思春期特有の気の迷いじゃないか、と思っていた。その後付き合ったのは全員男性だったし。

しかし2〜30代のとき自分好みの女性が酔っ払ってキスしてきた時、実は「嬉しい」と思っていた。そういえば同じくらいの時期、自分から女性にキスしたこともある(すごく好きで)。
ぜんぜん思春期特有の気の迷いじゃない。

相手が「男だから」「女だから」好きになる訳じゃない。その人だから好き。しかも相手によってわたしの性別はコロコロ変わっていた気がする。同じ女性相手でも、わたしが「男」になる時もあるし、わたしが「女」になっていた時もあった。

現在のパートナーは男性であるが、なんだか時々「男性が男性を好きなような感覚」になる。しかしわたしは男性として生まれたことがないので、本当にそうなのかは分からない。

「わたしのコレは、男性が男性を好きな感覚ではないか」と考えたのは、胸の大きな人/キャラクターを起用した広告が炎上した話について書かれたとある記事を読んだ時だった。

曰く、男性は女性の胸とか尻とか女性器とかで性的興奮を覚えるが、女性は男性の体の一部を見るだけで性的興奮を覚えたりしないし、バックボーンや関係性など“目に見えないもの”で性的興奮を覚える、ということだった。

自分の性的興奮に置き換えられないから、女性は「胸の大きな女性の広告」に腹を立てるのだ、と。そこに違和感があった。

わたしは別に男性器を見て性的興奮を覚えたりしないが、男性の体の一部で性的興奮を覚えることはある。昨日のヒゲの記事だってそうだ。書いた後「わたしは何を言っているんだ、気持ち悪い」と思った。

しかしたとえば男性が女性のおっぱいを見て興奮した、と言っていたら「まあそうでしょうね」と思うし別に気持ち悪くない。「ヒゲが生えているアゴのラインから目が逸らせなくなった」は「おっぱいから目を逸らせなくなった」とほぼ同義だ。

昨日のヒゲ記事を書いているわたしは「ちょっとエッチなグラビアビデオを見ている中学2年生男子」と同じじゃなかったんだろうか。もうすぐ37歳になるのに何を言っているんだ、と思うが、男性なら37歳になっても中2男子みたいなことを言っても許される。うらやましい。
37歳女性だと気持ち悪い。悲しい。

パートナーの話に戻ろう。友人に「あんた達は魂が男女逆だと思う」と言われたことがある。もしかしたら彼の中身が女性的で、わたしの中身が男性的なのかもしれない。しかし彼は自分の性自認に疑問を持っていない。

ただ、女性を嫌悪しており、酔っ払うと男性にばかりキスをする彼が、どうしてわたしを選んだのかずっと不思議に思っている。(男とセックスはしたくない、と言っていたが)

そうだ、彼から「その辺の女性と同じことを言っている」と言われた時、なぜかとても傷ついたのだ。彼が求めているのはわたしの「男性的」な部分で、わたしの「女性性」は必要ないんじゃないか。

「わたしは男性らしさも女性らしさも持っているのに、彼に女性らしさを否定されたら、わたしは『わたし』として素直にいられなくなる」と思った。

わたしは“自分の外側”を見て女性らしさを押し付けられるのは嫌いだが、かといってずっと「男」でいたい訳じゃない。どちらでもいたい。

体が男だったらいいなと思う時もあるが、男になりたいわけではない

今まで何度も「体が男だったらこんな気持ちにならなかっただろうか」と思う時があった。

男性のガタイがあればもっと好きな男物の服がたくさん着られたんじゃないかとか、今いる男友達と今以上に気のおけない友達になれたんじゃないかとか、わたしの体が男性で付き合っている人も男性だったら、母は「孫が見たい」願望をもっと早くに諦めてくれたんじゃないか、とか。

「体が男だったら」と思う理由の多くは男性の「女を見下した態度」が気に入らないことによるもので、「わたしはフェミニストなのだろうか?」と考えたこともあったが、フェミニスト側が言っていることも気に入らない時が沢山あったので、多分ちがう。

「男とは」「女とは」「これだから男は」「これだから女は」と二元化する考え方がそもそも好きではない。男だろうが女だろうが自分が好きなことをして自分が信じるものを主張すればいい、と考えている。

ちょっと宗教的な考え方かもしれないが、わたしは肉体なんてただの「容れ物」だと考えていて、ただ器の性別が「男」だとか「女」であるだけで何かを判断したり決めつけたりする人が単純に「嫌い」なのだ。器で判断するな、中に注がれている物を見ろ、と思う。

外側が男だからってみんな同じ男ではないし、外側が女だからってみんな同じ女ではない。もちろん、統計学的に「男性はこういう傾向が高い」「女性はこういう傾向が高い」というのはあるけれど。“外側で決めつける人々”が言っていることは、統計学的なソレとは全然違うだろう。

わたしは「器が女だから」というだけでわたしの中身を判断されるのが嫌なだけだ。体が男であればこんな気持ちをしなかっただろう、と思うことは何度もある。だけど手術して男になりたいわけじゃない。

わたしはわたしの今の体と性自認のままで、好きなものを好きだといい、やりたいことをやりたい。

自分をXジェンダーじゃないかと言うことで一番怖かったこと

今回、自分を「Xジェンダーなんじゃないか?」と言うことで一番怖かったのは、なぜか「トランスジェンダーの人に怒られるんじゃないか」ということだった。

お前は自分の性に嫌悪感を持ったりそれで死ぬほど悩んだりしたことなどないだろう、と。別にジェンダーとかセクシュアリティの話じゃなくても、「お前はそんなに苦労していないくせに」という理由で怒る人は沢山いる。

また、自分をそう言うことで「本当はそうじゃないのに、特別な存在になりたいからそう言うんだろう」と誰かに言われる気がした。なぜだろう。
もうこの文章を書き終えそうな今でも思う。

わたしは所詮「なんちゃって」の「格好つけ」じゃないのか?
なんか特別な人間になりたくてそう言ってるんじゃないのか?
人と違うことが格好いいとか思ってるんじゃないのか?

でもずっと「違和感」があって、性別のことで死ぬほど苦しんだことはないけど「生きづらさ」や「死にたみ」は持っていたので、書いた。

わたしは謎の生きづらさによって24年間も「境界性パーソナリティ障害」を患っていた人間であるが(3年くらい前に寛解しました)、もしかしたらこの「性自認がはっきりわからない」ことも精神障害の原因だったのかなあ、とも思う。まあ、過去には戻れないので、今さら検証しようがないけれど。

わたしはずっと、ごく最近まで「わたしは一体何なんだ」が口癖だった。
それは「ジェンダー・アイデンティティが不安定」なことからも来る言葉だったのかもしれない。
何にも当てはまれない、相反する性質が同居する自分が怖かった。
「Xジェンダー」という言葉を知って、救われた気がする。

果たしてこれを読む人が何を思い何を感じ何を考えるのかはわからないけど、よくよく考えたら「わたしが発言したこと」に対して読者が何を思うかはわたしが操作できることではないので、「怒られるんじゃないか」「バカにされるんじゃないか」などと思うのは無駄なことだった。

とりあえず長年「ん? ん?」と思ってきたことがこれを書くことによってスッキリしてよかったと思う。これからはより素直に生きよう。
わたしは男でも女でもいたいし、男にも女にもなりたくない。

わたしは『わたし』としていたいし、『わたし』として扱われたい。

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最近「一瞬男かと思った」と言われて嬉しかった写真

※そういえばXジェンダーについて調べてる時に見つけた漫画があって、すごくわかりやすかったし共感したのでまだ読んだことがない方はぜひ読んでみてください。
 ↓
「私の彼女は男の子」
http://www.moae.jp/comic/morningzero_watashinokanojowaotokonoko

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