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10年ぶりに京都に行ってきた②

記憶が薄れる前に京都旅行の記録をしておかねばなりません。
「10年ぶりに京都に行ってきた①」では平安神宮を訪れましたが、この回では平安神宮を後にし周囲をブラついていたところ発見したスポットをご紹介します。

広大な平安神宮の神聖なエネルギーに満たされたのち、最寄の地下鉄東西線・東山駅へ向かいとりあえず京都駅へ戻ろうかと思った私ですが、ふと周りを見回してみると何やら水の流れる音が聞こえてきました。
生命の根源である水に惹かれるのは生物の性なのでしょう。
吸い寄せられるように向かった先には

え、映画村!?
まるで時代劇のセットと見紛うほどの絵になる柳、清流、石畳。
もはや武士と町娘が歩いていないのが不自然といっても過言ではないでしょう。こんなに雰囲気があるのに人は少なく、観光客らしき人がちらほらと撮影している程度でした。
周囲には普通の民家が立ち並び、閑静な住宅街といった様子。上の写真の右側にも写っていますが、引越しのトラックが停車しているのが日常らしくてほっこりします。
ザ・観光地というわけではないでしょうが、スルーできるようなロケーションでもありません。一体ここは何という場所なのでしょうか?

東山駅を出てほぼ正面にまっすぐ流れる小川の正体は、「白川」とのことでした。東山から南下し、祇園の町を通り、最終的には鴨川に合流する河川です。私が歩いた東山周辺の白川沿いには柳が植えられていましたが、祇園界隈では桜の木が並んでいるようで、春には満開の桜を見に来る観光客が世界中からやって来るとのこと。

川のところどころには橋が架けられ、人々の生活を支えています

川に架かっている石橋は幅50~60cmで地味にスリルがありました。
ぜひ自転車で通り抜けてみたいですね。

白川沿いをしばらく歩いていると、予想外のものに遭遇しました。

明智光秀の塚・立札

明智光秀の…塚…?
明智光秀といえば本能寺の変で主君信長を討ったあと、山崎の戦いにて羽柴秀吉軍と激突し、居城に落ち延びる途中地元の農民に落ち武者狩りに遭って最期を遂げた説、匿われて病死した説、実は天海だった説など諸説あるあの人ですよね。
そんな彼の首塚がなぜこんな場所に…
立札の由来書きを読むと、どうやら居城である坂本城へ落ち延びる途中地元農民に襲われ、自害。家臣が光秀の首を落とし、この地へ埋めたと伝わっているそうです。元々は同じく京都の蹴上(けあげ、と読むらしい)付近に塚はあったものの、その後塚の石塔婆が現在のこの東山区梅宮町に移されたとの記述もあるとか。

光秀の塚 白川沿いから伸びる横道の先にある

正直、紙と筆しか記録媒体のない時代の情報が正確に現代に伝わっているのかどうかを確認する術はないですよね。
それでも令和の時代に立派な塚が存在するのは、地元の人々によって連綿と語り継がれる「いわれ」があるからなのでしょう。

長くなりそうなので、白川沿い散歩の果てに向かう知恩院の話は次回にしようと思います。最後はその日食べた生八つ橋でも載せます。

小さい食べきりサイズの生八つ橋・こたべ
抹茶とニッキの風味が鼻を抜けます… ん?なんか既視感が…









お読みいただきありがとうございました。


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