up-tempo work 第一章 No.4
「こちらのマスターの店が、もう一軒近くにあるのですが、
一緒に行きませんか?」
グレースーツの男性がにこりと笑い、私たちを交互に見た。
すると、友人の美寿江は俯き女性らしい仕草で、躊躇いを見せている。
ーーまさか、まさかとは思うけれど、行きたいのだろうか。
そういえば先ほど、美寿江はグレースーツの男性に向かい、
楽しい時間であったことを、
美しすぎる笑みを浮かべ伝えていた。
男性に対して、ましてや、見ず知らずの人に、無防備で、少女の様なあどけなさのままの、彼女も珍しい。
こんな姿を見るのは、
もしかすると、
結婚式以来かもしれない。
美寿江の、ここへ来た時の怒りに満ちた表情は、二人に出会ってから、微塵もなく消えている。余程、この場の雰囲気が気に入ったのかもしれない。 いや、彼女はかなりの酒豪だ。もしかすると飲み足りないのかもしれない。
彼女の行きたい気持ちも分からなくもないが、帰りを急ぎたい私は、迷っている様子にイライラし始めた。
「今日はどうも」
作り笑顔で、誘いの言葉を遮るように、美寿江の袖口を引っ張った。
しかし、すんなり応じるだろうという、
私の予想に反して、彼女は微動だにせず、更に、
「名刺か何かいただけませんか?」と言った。
彼等を知りたいのだろうか。
ーーいったい、どうしちゃったのだろう......
いつものクールな美寿江とは違う様に驚いた。
それは、おそらく私が初めて見る彼女の一面だった。
確かに、そう、しょっちゅう見かけるようなタイプの二人ではない。
二人の男性が持つ洗練された様子だろうか、
どこまでも、紳士的だからだろうか、
それとも......
過剰なほどの二人の色香なのだろうか。
何れにしても、美寿江はたいそう二人に興味を抱き、
余程、この空間と雰囲気が気に入ったことには間違い無いだろう。
彼女の揺れ動く心情を、色々と想像してしまう。けれど、
私はどうしても、遊び慣れた誘いなど、好きにはなれなかった。
それは、自宅に不在がちな父と重なるのだ。
私が知らない父の別の顔を、
タイムリーで見るような気がしてしまい、辟易するからだ。
それにしても、
緑のスーツを着て行くことができる職業とは何なのだろう。
一般的ではないように思えて美寿江ではないが、知りたくなり
彼をちらりと見た。
(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?