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かこがわ学講座②「加古川の寺院・神社と鶴林寺」

2022年5月28日(土)10:00~
テーマ 加古川の寺院・神社と鶴林寺
コーチ 吉田 実盛さん

明治政府が行った神仏分離以前は神社とお寺は一緒に行事をしていた。行事を通して地域をつなぐ基地としての役割を果たしていたが、さまざまな職に就く人が出てきてその役割が薄れてきている。加古川における神社のエリアは中学校区に概ね似通っており、都市計画におけるコミュニティの単位と言えるような考え方が古くから出来上がっていたといえる。
中国や朝鮮半島の優れた文化や技術の通過点として播磨の国は存在していた。また、海岸線に山が迫った須磨周辺は畿内(奈良・京都)への関所としての役割を担っていた。翻って考えると、大陸文化が須磨の関所で濾過されて洗練された文化のみが畿内に流入したと考えると、その手前にある播磨地域は大陸の雑多な文化が集積した大変魅力的な地域であると言える。鶴林寺は聖徳太子の威光を利用し、濾過される前の雑多な文化を畿内に取り入れる出島のような役割を持って建立された。


講義の様子

鶴林寺は境内に三つの寺院があり三人の住職で経営している。鶴林寺は2つの建物が国宝に指定されている。一つが太子堂で県内最古の木造建築である。また、もう一つの建物が本堂で和様・禅宗様・大仏様の三つが混ざり合った折衷様と言われる様式の代表的な建築物である。また、鐘楼内にある梵鐘と言われる鐘は1000年前に朝鮮半島で作られた。特徴として鐘の上部に取り付けられた筒状の甬といわれるものがついており、この形状の鐘は朝鮮半島でしかつくられていなかった。
お寺と神社のすみわけは公共的な部分が神社、私的な部分をお寺が担っていた。


檀家制度は幕府がお寺に戸籍管理をさせるために導入したもので、自由な移動が失われることとなった。宗派を変えるような自由な信仰も失われ、家督・お墓・相続・宗教を継いでいくという文化になっていった。檀家制度以前は貴族や殿様など時の権力者から収入を得ていた。鶴林寺の隆盛時には300人の僧侶がいたと伝えられている。

貴重な資料もいただきました


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