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私の心

「お米を食べること」
に対してみなさんはどんな考えをお持ちですか?

私にとって「お米を食べること」は恐怖でした。
なぜなら太ってしまうから。

長年そう思い込んで生きていました。
「お米を食べると太る」だから食べるのをやめました。

なぜ「お米は太る」と思い込んでいたのか?
それはモデルさん、女優さん等、私が憧れていた方たちが
「なるべく糖質を摂らないようにしています」とか「夜はお米を控えるようにしています」といった発言をしているのを聞いたり、
テレビや雑誌で糖質制限ダイエットが特集されているのを目にしたから。

モデルさんや女優さんのようにスリムな体型に憧れていた私にとって、
糖質制限ダイエットは手っ取り早く体重を落とせる夢のような方法に見えました。
「これをすれば、私も彼女たちのようにスリムな体型になれる」
「スリムな体型になれば、周囲から褒めれ、認められる」

とにかく私は「他者から認められたい」という欲求がかなり強かったのだと思います。
それは自分に自信がなかったことの裏返しでもあります。
自分で自分を認めることができていませんでした。

「何もできない自分には価値がない、何かの役に立っていなければ存在する価値がない」いつからかそう考えることが当たり前になっていました。
だから常に不安で、「早く何者かにならなければ」「誰がみても、この人は社会の役に立っている立派な人だと思われないといけない」そう思って「今のままではだめだ」「もっともっと立派な人間にならなくては」「社会から認められる人間にならなくては」と常に自分にムチを打っていました。

そんな私が目を付けたのが ”痩せる” ということでした。
「テレビや雑誌では細くてスリムな体型の人達が、美しい・すごい・努力の人だとされている。それなら私も彼女達と同じ体型になれば同じように、美しい・すごい・努力の人だと思われるに違いない」そう思った私は、認められたい・褒められたい・称賛されたいという一心でダイエットに取り組み始めました。

「今のままでは何の価値もない私だけど、痩せてスリムな体型になれば称賛される」それが痩せる目的でした。

今思うと、”そのままの自分には何の価値もない” なんて考えられません。
世界にたった一人しかいない大切な私に対してそんな言葉をかけるなんて。

より良い自分になりたいという向上心からの行動なのかもしれないけれど、行き過ぎていました。
向上心からだからこそ、その考え方・行動が自分を傷つけているということに気づけませんでした。
「これはより良い自分になるため。自分をより幸せにするためにしていることなんだ。だからここで甘えてはいけない、妥協してはいけない」そうやってどんどん自分を追い込んでいました。

炭水化物を控えること。それが痩せる近道だと完全に信じ込んでいた私は徹底的に炭水化物を控える生活に取り組みました。
痩せて称賛される未来を夢見て。

・お米を控えておかずを中心に食べる
・豆腐をお米の代わりに
・朝はオートミールやヨーグルト、もしくは食べない
・毎日ランニング

本当の本当はつらいと感じているのに、
「私はこの生活を好んで選択しています、この生活が心地いいんです」って無理やり思い込ませていました。まるで本当にそう思っているかのように。
自分で自分を洗脳していたようです。
だから "本当の本当はつらい" という所に気づきませんでした。
私はこの生活が心地良いし、好きだから選択しているんだと思いこんでいるから。

”痩せたい” という思いが "認められたい・褒められたい・称賛されたい” という欲求からきているということに全く気づきませんでした。
私はただ、より良い自分になるためにこの生活をしているのだと。

この事実に気がつくまでかなりの時間がかかりました。
今やっと気づき始めたという段階です。
人の心というのは本当に厄介ですね。

それでいて面白い。自分のことなのに自分でも思ってもみなかった考え方をしていたり・・・。つくづく不思議だなぁと感じる今日この頃です。

さて、そんな生活を送っていた私はどうなったのか?
目標としていた体重に近づくことができ、
周りからも「痩せたね」と言われて嬉しい気持ちになりました。
細くなった私が写る写真を眺めて満足したり、常に鏡で自分の体型をチェックしたり。

「やっぱり痩せると褒められるんだ。すごいって思われるんだ。」そう感じました。痩せることで認められた気がして嬉しかったのだと思います。
でも、なぜか不安でした。理由もなく悲しくなったり。どこか満たされない感覚があったり。

今思うとそれは条件付きの私しか認めてあげられていなかったから。
"この条件を満たしている私は良い。でも、それを満たしていない私はだめ"
そうやって何かしらの条件を満たしている私しか認めていませんでした。

でも、本当はどんな自分も認めてよかったんです。
条件なんていらなくて。
何を満たしていても満たしていなくても私は私。

だから自分にムチ打って、本当の本当はつらいと思っていることを
自分で望んでいることだと思い込ませて無理矢理させる必要なんてなかった。
何ができてもできなくても私は私だから。




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