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【ショートショート】目が覚めると

ベッドから起き上がるとそこは見知らぬ部屋だった。殺風景なコンクリートの壁と床、窓もなく、ベッドの他にはシンプルなスチールのテーブルとタンスがあるだけだ。なんの装飾もなく、TVもパソコンもカレンダーもない。もちろん僕の部屋ではない。そして僕の妻も息子もいない。

ここはどこだ。僕は混乱したままベッドを出た。ベッドの下には使い古された灰色のスリッパがあり、それは僕の足に奇妙になじんだ。とりあえずあたりを見渡すと、テーブルの真ん中に赤いボタンがあり、「緊急時に押すこと!」と書いてあるのが目に入った。電話も見当たらない以上、この状況をなんとかするにはこのボタンを押すしかないのではないか。僕は清水の舞台から飛び降りる気分でボタンを押した。すると天井から音が降ってきた。

「どのような問題が起きましたか?」

滑らかで柔らかな女性の声だがどこか無機質に感じられる。

「ここはどこだ!」
「あなたの住まいです」

僕の叫び声への対応も無機的だ。

「僕の妻は? 息子はどこだ!」
「……システムエラーを検出しました、しばらくそのままお待ち下さい」

しばらく待っていたが何も起きない。僕は天井に向かって声を上げた。

「トイレに行きたい。どこにトイレがある?」
「ドアを開けると廊下に出ます。廊下を右に進み、突き当りにトイレがあります」
「わかった」

僕はドアのノブを回した。なんの抵抗もなくドアが開いた。その向こうの廊下はくすんだ緑の床で、右の突き当りにトイレがあるのはすぐわかった。左の方は暗くなっていてよくわからない。ともかくトイレに入り用を済ませて手を洗っていると、初老の男がのんびりと声をかけてきた。

「サイトーさん、こないだのルカとリンとレンのギグはよかったよねえ、また行こうな」

男は前歯のない口を開けてニコニコと笑った。ロックバンドの名が書かれたTシャツを着て髪の色はショッキングピンクだ。とてもフレンドリーな印象だが、言っていることの意味は全くわからない。僕はサイトーではないし、「こないだのギグ」とやらにも出かけた覚えがない。僕は曖昧に笑い、

「まあまた機会があればね」

そう言いながらトイレを出た。さっきは暗くて見えなかった左の奥の突き当りに明かりがついている。ガラスの引き戸があったので開けるとそこには更衣室と浴室があり、境の引き戸は開かれていた。LEDの照明が明るい。

「まだお風呂のお湯入ってないっすよ」

浴室には背の低い中年男がいて、床のタイルをせっせと清掃していた。さっきのピンク頭よりは話が通じそうな気がする。

「すみません、ここはどういう施設ですか。さっきピンク頭の人にサイトーと呼ばれたけど僕は望月です。なんだか変な気分で。あの人はなんですか」

中年男は、僕の方を見ずにタイルを磨きながら答えた。

「あの人は誰でもサイトーさん扱いするんよ。ボカロの世界にいる平和な人だから心配いらない……って」

そこまで言って中年男は突然口ごもり、ぎょっとしたように目を見開いて僕を見た。

「あんた、もしかして、目覚めた? いつも奥さんとこどもの自慢しかしなかったやろ」

僕は意味がわからず首を傾げた。

「妻も息子もいないので探しているんです。システムエラーが起きたと聞きました」

「あー。たぶんね、システムエラーの修復のあと『修復された世界に戻りますか?』と聞かれるよ。それで了承すると奥さんとこどもに会える。ただし、一応言っとくけどそれ、嘘だから。おれは了承しないのをおすすめするよ」

「どうして?」

「そこの鏡をみてみい。あんたが信じてることは真実じゃない」

うながされて僕は風呂場の鏡を見た。薄汚れて少し白く曇ったその鏡には、しょぼくれた白髪の老人が写っていた。僕は驚愕し自分の頰に触れた。鏡の中の老人は滑稽なほど驚いた顔をして自分の頬に触れた。中年男はどこか悲しそうな顔をした。

「まあ無理に目覚めることはないよ……」

僕は愕然としたまま浴室のドアを閉めて廊下を行く。同じようなドアが並ぶが僕の部屋のドアはわかる。402号室だ。自分の部屋のドアを開け、ベッドに座ったとたん、天井から言葉が降りてきた。

「システムエラーの修復が終了しました。修復された世界に戻りますか?」

僕は悩まなかった。即座に了承した。

目が覚めると、そこは僕の家で、妻が一歳になる息子を抱いてこちらを覗き込んだ。「心配だ」と顔に書いてあるんじゃないかと思うほどに妻の表情はわかりやすい。顔の造りは美しいがこんな顔だっただろうか。

いつもの家……窓の外の景色があんなにぼやけていることに、かつては気づかなかった。妻と息子の名前がないことにも疑問を抱かなかった。僕らのこどもがいつまでも一歳だったことを思い出し僕は苦いものを噛みしめたような気分になるが、それをぐっと抑えて微笑む。

「きみの名前はなんだっけ?」
「え?」

やっぱり設定されていないのだ。僕の妻とこどもはおそらくプログラミングされた架空のキャラクターだ。しかもまともに人格の肉付けすらされていない。ならば僕が設定するしかないのだろう。

「きみの名前はアカネ。僕らの息子は大地だよ。晩ごはんを食べよう。アカネはチーズが好きで大地は玉子が好きなんだよ」

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