怒りの効用
怒りは悪なのか?
「怒ったらあかん」「怒りを抑えて」「怒りをコントロールする」というように、「怒りは悪いこと」のように思い込もうとする傾向にあるようだ。
最近、気づいたのは「怒りは正当だ」ということだ。
そもそも、「なんで怒ってはいけないのか」という理由がよくわからない。
感情をおしころすことはよくないと言ってみたり、感情をおしころせと言ったり、コロコロと発言が変わり忙しい。
昔に読んだ小林秀雄の「常識について」の中に、「あの人は常識的すぎて面白みのない人だ」「あの人は常識からはずれたよくない人だ」といった話があったように思う。それを思い出す。
怒りはなぜあるのか
感情の一つである「怒り」は、どうして存在しているかを考えたい。
よく言われる「怒りは良くない」という牽制は、「自分を攻撃しないで」という程度の話だろう。怒りの本質が分かった上での発言でもない。
もっとひどく言えば、「自分は怒るけど私には怒らないでね」といった利己的な感情から生まれたものでしかないように思える。
怒りは、自分が攻撃された時に発生する感情だ。自分を守るためにある。
他人から迷惑をかけられたり、制限をかけられても怒りは発生する。それは当然の反応だ。
こんな時に「怒ったらあかん」と注意することの方が愚か者だ。
怒りは威嚇を伴うものだ。その威嚇に相手も反応すると「闘争」が起こる。
それは覚悟しないといけない。それを避けるために「怒ったらダメ」と言うのなら、それには意味がある。
本来、そうならないように、「マナー」や「道徳」があるわけだ。
怒りをうまく使う
そして、もう一つ「怒り」には大切な効用がある。このことが一番言いたかったことだ。
「怒りは行動を促す」というものだ。
他人からの影響を受ける怒りもあれば、自分に対する怒りもある。その怒りに対して、自分の正当性を証明するために、行動したり考えたりするといった効用もある。
そういった意味からすると、怒りやすい気質が自分にあることに気づく。それは悪いことではなく、むしろ健全だ。
怒りは学びの源
怒りは闘争だけでなく行動を促すのだ。
学ぶことも探求することも、源は「怒り」だ。現在への不満に対する怒りなのだ。
人間はもっと怒るべきなのだ。この怒りが、現状を変えようとする人間の本質を促進させるに違いない。それが怒りの効用なのだ。
怒りが「闘争」のためだけにあるのではないことを知っておいた方がいい。