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ジャパンズウェイの個人的感想

この度、日本サッカー協会は「ナショナル・フットボール・フィロソフィーとしてのジャパンズウェイ」を策定。

サッカー関係者と共有し議論を重ねビジョンを具現化していく…とした。

http://www.jfa.jp/youth_development/news/00030069/


フィロソフィー…哲学、物の見方、考え方

個人的には
日本サッカーはリーチやバネ等フィジカル面で劣りがちな部分を自覚しそこに科学的に向き合い向上に取り組みつつ、
外からの評価と考えられる規律ある行動、繊細に技を極める姿勢及び忍耐を土台に、
連動し集団で戦うゲームモデルを素早い判断の切替から極力テンションを落とさずコントロール、常に有利なポジショニングを取り身体的に不利な相手と同じラインからスタートしない状況づくりをしながら身に着けた技術を駆使していくことを目指す。
またそれら集団で戦ううえでの最良のプランを練るため、科学技術を駆使する分析・分析官の育成に重きを置く。
…方向で考えていくのが良いのではないかと感じているところです。

以下それぞれの項目ごとに感想をもちながら読み進め、最後にまとめてみました。


プロローグ

ジャパンズウェイという言葉の成り立ちと再定義について
早速気になるのは

「弱みにこそ強みがある」

「世界の頂点が見えた今」

…という表現。
弱みにこそ強み…意味がわからない。
頂点が見えた機会は何だったのか。
クロアチアやベルギー方面から「日本が言う?」と言われそうだ。

ポエム的な文章だと感じる部分から始まってしまい、また常用されない横文字の羅列に早速ぼやけた印象を感じ不安になる。

また2050年までを期間に目標を定めた理由は?

いくつかの国の指導者講習でも「何故その考えに至ったか」まで詳細を示してくれるものはないがこれは時間・ボリューム・主旨の問題もあるのだろう。

今回の機会がフィロソフィーを共有し議論をする主旨というのなら、その根拠に触れて欲しかった。

多様性を掲げ、「日本人のサッカー」ではなく「日本のサッカー」としたのは良いと思う。

徹底ではなく方向性を共有…偏りすぎたり拘りすぎたりすることにブレーキをかけ考えさせるこの一文はブラジルW杯を経てのものだろうか。
パスサッカーに拘ったはずが、厳しい展開になった試合終盤では結局DFを前に上げロングボールに頼ってしまうという…それなら拘らず偏らずもっと他に可能性を探りやることがあったという過去からの教訓だろうか。


フットボール・カルチャーの創造

誰でも楽しむことと強化(競技)の相乗効果・ダブルピラミッドの距離について、
少年団・クラブ・学校…様々な場所からトップレベルに向けた道を含めて開かれているというのはかたちとしてはそのとおりだと考える。
様々な環境のなかでサッカーに触れ可能性を広げることは比較的可能なようだ。

そのなかで

・各連盟が連携しリーグ戦の増加

・以前ブランク期間になっていたU16について国体に該当させること(2007から)

・カレンダーをリンクしオフを含めて最適化させる

…取り組みを紹介

成果として2007以降、隔年で行われるU17W杯に2015年以外はすべて出場しトップレベルに触れる機会は増やしているとのこと。

総じてここでは現状の共有に話が収まっている。


望まれる選手像

近年の傾向…高強度のランニングの増加、CBのパス数の増加という興味深いデータが挙げられている。

しかしそこから導き出される選手像については理想像を挙げ、かつ「多様なスタイルを認めてあげる」というものに留まり独自の提案は感じられない。

選手個々に対しては個人差があるので
「日本はこの傾向にあるので、特にこの要素は〜」
としてしまうと偏りを生むと考えあえて枠にはめない多様性を持たせる考えなのだろうか。

プレービジョン

ここでも多様性に触れており、その一貫した姿勢は良い。

プレー原則から派生した日本サッカーのプレーの方向性…という話の流れからはいよいよ革新に触れていく期待があったが、
結局は「望まれる選手像」と同じく独自の提案というより理想を書き連ねるカタログのような文章が並ぶ印象

例えばオランダでは4-3-3を基本システムとし、その他の配置はその時の選手の特徴により4-3-3から派生させた応用と定義(ブラジルW杯での5-3-2もその考えで説明)
ボールの流れも一例として紹介し
攻撃のプレービジョンとしてその目的のひとつに「ウイングにボールを送ることにフォーカス」という特徴があった。

ドイツの指導者は頭の切替・反応の速さを国の育成におけるベースとして強調していた。

いずれもそれに至った根拠までには触れていないが、「我々はこう考える」=独自のフィロソフィーを感じた。
しかしここからはそういった印象はなく、理想像の共有のみに終わっているようだ。


将来に向けたユース育成

ここでも独自性は感じない。

情報化社会の発達から国ごとの差異が無くなってきていると言われて久しいなか、日本どうこうというより万国共通に求められるものを挙げ共有するに留まっている印象

フィジカルフィットネスの未来

フィジカルフィットネスの構成要素は多岐に渡り、決して日本は全てに劣っている訳ではないとし足りないものと強みについて言及している。

取り組みをいくつか挙げているが、その足りないものと強みがどこに当てはまるのかというところにまで話は至らず、結局これも核心を突かずカタログ的な記述の域は出ないと感じる。

また個人的にはここで他では発信されている「安易に審判は笛を吹かない」ことも入れてほしい。
我々の地域・県の小学生年代では相変わらず「倒れたら笛」「体側以外の接触はファール」「手が伸びていたらファール」という考えの審判が多いように見受けられ、
腕を有効に使ってプレーエリアを確保することがままならない時がある。フィジカルコンタクト面での成長に繋がりにくい一面だと考えている。


将来のサッカーコーチとは?

「すべての子どもがライセンスを持った指導者のもとでサッカーの楽しさに触れられるようにしたい」
…と言っておきながら、元選手はともかくタレントがライセンス取得講習を受講できて現場で実際に指導しているコーチ・チームが何回も連続して選に漏れる現状を知っているものとしてはいささか疑問に感じる。
様々な立場の人間が資格を持つメリットも否定しないが、今のスタンスは現場にフォーカスしているとは捉えられない。

「学び続けられる環境」「多彩なパスウェイ」とするなら、グラスルーツからの視点では現状自分の交流の範囲内でそれは実現できていない。
公式戦に有資格者のベンチ入りを規定→でも資格講習を受けられない→公式戦参加を取りやめる→チームに人が集まらなくなり過疎化→偏った一部のチームに選手が集中…と多彩なパスウェイではなくなっている傾向のほうが目につく。
実はそちらに狙い…間口を広げるのではなく、指導に集中できる一部の専門家の元に選手を集めさす、チームと選手を絞る早期エリート強化に移行する狙いがあるのかと勘ぐりたくもなる。

学び続ける環境も整っていない。僅かに固定化された講習日程ではボランティア・兼業の指導者の受講はハードルが高い。しかしそのような立場の指導者が大半ではないだろうか。
現状成り立っている部分も彼らの休日返上や本業の仕事場の理解からのものでは。

オンラインを活用しつつ、日程を複数選択できる機会を作り、負担を軽減することはできないだろうか。

「フットボールカルチャーの創造」の項目ではあえて触れなかったが、
様々な道にいる指導者が無償の愛で日本サッカーに身を捧げていることを強みのように語っているのもいかがなものか。

彼ら指導者自身がそのように話す分には素晴らしいが、違う見方をすると「割に合わない状況」「やりがい搾取」な一面に対しては改善に取り組むのが協会のあるべき姿ではないか。
サッカーファミリーの一員である指導者の自己犠牲、地位の低さ、苦労をそのまま将来も「お願いします」でいいのだろうか。ここはキツい。


フットボールファミリーの拡大

「あの人たちがやっているサッカー」から「みんなのサッカー」
…プロローグでも出てきたこの一文

現状では象徴であるナショナルチームの活動や透明性に欠けるその見せ方から逆の印象が叫ばれている部分があるなか、
今回の策定では周りへ理解を働きかけ一体感をもって共に進んでいきたい取り組みのひとつとしての意図を感じるが、
そのために必要なのはこれまでを含めての協会の活動の根拠、透明性を感じられる内容ではないかと考える。

そしてそれはここからは見つからなかった。


まとめ

ナショナル・フットボール・フィロソフィーの策定を掲げながら、
結局はサッカーを取り巻く全体像、日本サッカーの現状の全体像をまとめ共有する以上の独自性の提案に乏しく、またこれまでの活動の根拠は感じられなかった。

情報共有や現状把握自体はもちろん必要で興味深い記述もあったのだが
皆が一番求めていた「ジャパンズウェイ」が何を指しているのかはわからないまま。

「今は0です。これから皆でこの共有した知識を持って議論していきましょう。」

ということ?それは今更だろう。

またJFAでは登録者へのメール配信を随時行っているが(代表活動の紹介等)、今回の件はメール配信されていない。(僕だけ?)

僕はサッカーメディアのSNSで知ったのだが、これも一体どのような考えからなのだろうか。


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