なぜ客観と主観について考えるのか

 X(旧Twitter)やYahooニュースのコメント欄では、常に様々な意見が飛び交っている。その中にはあくまで個人的な主観的意見をぶつけるだけのコメントも存在する。個人的には「わざわざ言わなくてもいいのに」とも思う。

 ではなぜ彼らが、表明しなくてもいいような主観的意見を表明するのだろうか。

客観と主観の正義

 さてあなたが「客観的であることと主観的であること、どちらが望ましいか」と問われた場合、どのように考えるだろうか。
 一般的には物事を客観的に捉える力が求められるだろう。まずは主観を排除し、眼の前にある事象を正確に解釈する。この力は学童期や思春期から育まれていることを求められている力である。客観視ができないことは、人間として、社会人として成熟していないと思われてしまうかもしれない。
 だから私達は「客観的でなければならない」という意識にとらわれがちである。

客観視の重要性

 客観的であることは重要である。この能力が身につかなければ、他人と上手にコミュニケーションを取ったり議論を交わしたりすることはできない。一度相手の立場に立って考えるなど「主観や特定の立場にとらわれない独立した思考」や「一旦立ち止まって考える力」は社会という舞台に立つための、いわば必修科目である。エリクソンの発達段階の青年期の課題:自我同一性に立ち向かっていく中で、培われていくものである。

 では、主観的であることは重要ではないのだろうか。あえて人の立場に立って考えず、自分の内面の感情に耳を傾ける力。
 これこそ私は、重要であると考える。

客観視とは不完全なものである

 仮にあなたが客観視をしようとしたとして、それは完全な客観的立場からの視点になるだろうか。これは「NO」である。なぜならば、すべての事象をあなた目線から捉えているのであって、それはどこまで言っても究極の客観視にはならない。ややこしい言い方をすれば「主観的な客観視」である。

 だからいくらあなたが究極の客観視をしようとしても、そこにたどり着くことはできない。どんなに自分の存在を消そうとしても、消すことはできない。

究極の客観視を目指すよりも、自らの主観を大事にするべき

 客観視を能力として身につける過程で、私達はどうしても客観視を神聖なものと思いがちである。だが、どうしたってそこにたどり着くことは不可能なのだ。必要だったのはそこを目指す過程である、結果ではない。

 ある程度の客観視の能力を身につけたのならば、今度はそれを自らの主観を確立させるために用いるべきではないだろうか。自分とは何なのか、何が好きで何が嫌いなのか。どういう考えを持っていて、どうしたいのか。まずはそこに視線を向けるのが必要だ。これこそ「客観的な主観視」である。

 自分の主観視があることは、何も間違ったことではない。ある事柄に対して主観的意見を持つことは、認められるべきである。

主観的意見の使い方には、客観視が必要になる

 主観的意見の使い方は難しい。主観的意見を出していい場面と、出してはいけない場面、そして出しても無駄な場面がある。
 話を冒頭に戻して、インターネット上のSNSなどは、出しても無駄な場面だろう。
 こういった出しても無駄な場面に主観的意見を表明することは疑問だが、私はその意見を持つことを否定しない。存分に自分の中で考えて自分の中で昇華するか、出していい場面を待つしかないと思う。


 願わくば、このnoteがこの主観的意見を出していい場面であるよう。

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