④ほんとに僕のこと、好きだね【ナンちゃんのはなし】
私としかできないことをしよう
少し時間が空いてしまったけど、続きを。前回お話したのは、楽観的な思考を持つナンちゃんのこと。
私はいつも彼に助けられていたけど、必ずしも助けられてばかりではなかったと思いたい。長年一緒にいた分、何かきっと恩返しができていたと思いたい。そんな気持ちで書いていくことにする。
彼にとって私(彼女)がいてよかったこと、を考えていこう。書いてから、いてよかったかどうかは決めることにする。
スタバに行こう
まずひとつめは、スタバに行けること。ナンちゃんと一緒にでかけたとき、スタバに行く?と私が何気なく言ったことがある。ナンちゃんはそのとき、「スタバなんて行かないから、頼み方が分からない」と言った。
そうか、ナンちゃんみたいな男の子は、スタバとか行かないのか、と思ったと同時に、スタバってこんな感じだよ、と伝えたくなって、頼んであげるから行こうと言って店内に入った。
その日ナンちゃんが初めてスタバに入り、何を頼んだのか正直よく覚えていないが、コーヒーだったかと思う。ナンちゃんは、コーヒーは気持ち悪くなるので苦手。
私はあのとき、ナンちゃんがしたことない経験を一緒にしてあげた、と思ったけど、もしかしたらナンちゃんからしたら別に入りたくないところに無理やり連れて行かれたかもしれない。
ナンちゃんにとって、スタバは、必要なものだった?でも、スタバに入ったことのない若者っていうのも、珍しくない?
判定は、サンカク。
ディズニーに行こう
よし、次は、ディズニー。私たちが付き合って1年経った頃、ナンちゃんの妹が友達とディズニーに行くというので、それならばと一緒に行ったことがある(その時期は春休みで、私はナンちゃんの実家に何日か泊まらせてもらっていた)。
ナンちゃんとディズニーに行ったのは、それが最初で最後。朝早く開園時間に合わせて並び、一日中楽しんでいるナンちゃんの妹とその友達を尻目に、私たちは途中で離脱して春の少し肌寒い夕方、ナンちゃんと肩を寄せ合って疲れ切って少し眠った。
ナンちゃんはどうだったか分からないのだが、実は私はディズニーデートにそこまで強い憧れがなかった。
中学生や高校生のときに友達に誘われて毎年行っていたが、友達に誘われない限り行かないたちだった。正直朝から晩まで動き回ると疲れるし、天気が悪いと寒いし(なのに逃げられないし)、行列に並ぶのがあまり好きではないからである。一瞬一瞬はとても楽しく、思い出に残ることは間違いないが、それと同時に、無事に1日が終わったことへの安心感みたいなものが存在する人、ほかにもいるんじゃないんだろうか。
ナンちゃんとの最初で最後のディズニー(シー)は楽しかったが、何に乗ったかなんかは覚えておらず、今振り返って覚えていることと言えば、上着を持っていかなかった私が絶対に寒いと言い出すのを見越したナンちゃんが1枚多く服を持ってきており、「そういうと思ったから持ってきた」と差し出したこと。そして、前述した、疲れ切って寒い中、アトラクションに並ぶ気にもなれず、ふたりでベンチに座って十数分ただ無言で目をつぶったことだ。
ここには私がしてあげられたことはほぼ無い。強いて挙げられるなら、(たぶん)一度も彼女とディズニーに行ったことのないナンちゃんに、「彼女とディズニー経験」をプレゼントしたことくらいか。
これもまた、判定はサンカク。
してあげられたことを考えるけど
ナンちゃんに私がしてあげられたこと…一生懸命考えるが、今のところ、これだ!と思うものがなさそうだ。
料理…これは、ナンちゃんの方がたくさん作るし、ナンちゃんのほうが上手(ナンちゃんは炒飯をまあるく形づくって盛り付けてくれるし、餃子の羽根は綺麗に一周、円を作る)。将棋…既述だが、ふたりでしかできないことは確かでも、これはナンちゃんを困らせる遊びだった。服選び…自分でほとんど服を買ってこないナンちゃんに服を着せてファッションショー。たまに買ったものを自分から着てくれると嬉しかったけど、ほとんど私がやりたいからやってただけだ。あれ、私がナンちゃんにしてあげられたことって、なんだろう?
5年間居てくれただけの、何か
全くと言っていいほど思いつかない上に、迷惑をかけたことや、お世話になったことをたくさん思い出してしまったわけだが、ナンちゃんは私と5年間一緒にいてくれたのだ。
つまりは、ナンちゃんにとって5年間一緒にいてもいいと思った理由は確かに、どこかにあるはず。
ここからは、ナンちゃんとの関係性を通してマイセルフで自分を褒めることによって、自分に対する理解を深める(つまり学びに繋がる)ことにしようと思う。
私って、癒やし系
役には立たないが、傍にいても許されるもの、それは何だろうか。
ペットである。
勿論自分は彼のペットであったと言うつもりはさすがに無いが、あまり役立たないことや、でも会話の中で相手を喜ばせたりすることが好きだった私は、しばしば「ただ、いると癒やされる」側面を持っていたのではないかと思う(ナンちゃんの中では)。
料理や家事や力仕事はほぼしなかったが、ナンちゃんといるときは常にナンちゃんを褒め、全身で愛を伝えてきた。
ナンちゃんはあるとき私に、
「海ちゃんは本当に僕のことが好きだねえ」
と言った。本人にそう言わせたのだから、伝わっていないわけはない。
またナンちゃんはあるとき、私が(ふたりの同棲していた家で)ネコを飼いたいと言ったら、
「ぼくには海ちゃんがいるから、もうそれ以上はいいかな」
と言った。
これ以上世話を増やすのは嫌という気持ちを感じなかったわけではないが、その満足そうな表情に、自分も満足したのを覚えている。
とにかく私は、自分は愛されているんだということを実感させたり、寂しくさせない(良く言えばの話だが)ことにおいては、かなり優秀な方だったと思う。
5年間、私がナンちゃんに与えることができたものがあるとすれば、ひとつだけ。
「あなたの傍にずっといます」と分かる存在を常に感じさせる、ということだと思う。
ナンちゃんがその揺るぎない存在に癒やされたり、ときに感じてしまう「さみしさ」みたいなものを無くすのに私が一役買っていたとしたら、きっとそれが、私がいた理由だったんだと思う。
ひとりで分析する夜
でもまあ大人ではあるので、もう少しそれなりの存在価値を自分に見出したいとは思うのだけれど。でも自分が得意なこと、もっとできるようになった方がいいことなんかについて、少しあの日々から考えることができた気がする。
ナンちゃんが付き合っていた頃の最後の方に、
「海ちゃんは絶対に僕のことをけなしたり、悪口を言ったりしない」
と言ったときのことをたまに思い出す。
ナンちゃんは大学の友達や、家族からは結構イジられキャラというか、何を言っても大丈夫みたいな役をやっていたのを思い出す。
ナンちゃんのことが大好きだった私が、ナンちゃんを大好きだったという事実だけで、助けている日々があったなら。
そんなことを思った。
あとがき
はじめにも書きましたが、ナンちゃんとはもう連絡も取っていません。もう交わることのない人生ですが、私の大切な20代の前半を彼と過ごしたことに、後悔はありません。
ナンちゃんと出会い、たくさん素敵な気持ちになったこと、忘れません。願わなくても大丈夫だろうけど、ナンちゃんにはずっと幸せに過ごしていてほしいなあ。
自己満足な文章ですが。最後までお読みいただいて、ありがとうございました。
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