②とことん、きみに合わせる【ナンちゃんのはなし】
前回の投稿で、期待しない生き方を体現していたナンちゃん。今わたしがナンちゃんに影響を受けて意識していることといえば、「他人に期待しすぎない」のほかに、もうひとつある。
振り回されないけど、好きにさせる
それが、「相手に振り回されていると感じない程度に、好きにさせる」である。
ナンちゃんとの出会いは高校。2年生のときに振り分けられた理系の進学クラスで一緒になった。ナンちゃんは掃除の班が同じということもあり、何となく目に入るようになった。
ちなみに、私たちの通っていた高校に理系のクラスは3クラスしかなく、さらに私たちはそこから希望した人たちが入る1クラスの希望組だったので、ほぼ確実に持ち上がりで3年も同じクラスになることが決まっていた。そのため、2年間を共に同じ教室で過ごすことになった。
高校生のときのナンちゃんは、あまり目立つ方ではなくもの静かで、ほかの男子よりも少しだけ背が高く、声がかなり低かった。席は何故か窓際であることが多く、ナンちゃんの高校時代を思い出そうとすると、窓際でワイシャツを腕まくりしたナンちゃんが、目が合うと気まずそうにしている姿が思い浮かぶ。
このときから私は彼いいなと思っていたけれど、その気持ちをナンちゃんに気付かれることはなく、高校生活は終わっていく。高校生のナンちゃんは自分から主張をするということはなく、人と話すときもいつも聞く側で、私はきっと付き合ったらやさしい人なんだろうな、と淡く想いを馳せたりしていた。
私が何をしようが、気にも止めない
大学生になり、(私の)念願叶って付き合うことになった私とナンちゃんだが、ナンちゃんとは遠距離になってしまったため、私たちは会える回数が少ない代わりに、長い休みをどうにか作り、会うたびお互いの家に何週間も滞在する生活を送るようになっていた。
そうすると何日もふたりで一緒に過ごすことが増え、遠距離中の電話では分からなかったお互いの姿をさらけ出していくことになった。
私はとにかく人とくっついているのが好きで、たとえば2週間滞在するときは2週間、べったりとナンちゃんのどこかしらにくっついていた。一緒にソファでくつろいでいるとき、ナンちゃんがトイレに席を立って、帰ってくるときにベッドに移動したとする。それに気づいた私は急いで自分もベッドに移動し、体の右半分をナンちゃんの左半分とくっつけるわけである。そして、ナンちゃんが動くたび、それをひたすら永遠に続けるのである。
ナンちゃんはひとりの時間も好きなタイプなので、恐らく離れたくてわざと遠くに座ったこともあったと思う。でも、私はなぜだか一度も「くっつきすぎ!」とか、「少し離れて」とか、言われたことがなかったのだ。そして、ナンちゃんは近くで構ってほしそうにする私を、(これが不思議なのだが)構うこともないのだ。でもはねのけることもせず、ただ存在するままに、私を好きにさせ続けた。これが5年間続いたのである。
ナンちゃんに否定されない生活を送ることに慣れた私は、もっと生意気に、ワガママに育つことになる。
ナンちゃんは将棋が指せた。私はナンちゃんと一緒にいる間、彼から簡単に将棋を教わり、自分でも少し指せるようになった。得意気になり、たまにナンちゃんに「勝負しよう」というと、ナンちゃんは必ず相手をしてくれた。だが、教わったばかりの将棋で、しかも戦法を教えてくれた師匠が相手であるから、勝てるはずもなく、いつも窮地に立たされていた。負けそうになると、私はいつも「ちょっと待って」と言って、試合を中断させ、どうにか勝てないか考え始める。私たちの将棋はめちゃくちゃだった。ナンちゃんは私に言われるがままに3手戻り、ヒントを2つ出し、かなりの時間待たされ、挙げ句の果てには盤を反転させられた。そして最後には、何故かナンちゃんは必ず負けにさせられた。でも、文句を言わないのである。私がそちら側だったら、「お前と将棋するとつまらないからやーめた」と、とっくに席を立っている。ナンちゃんは、「海ちゃん負けると怒るからなぁ」と笑い、私を勝たせるためのハンデに従い続けた。これが、そう、5年間続いた。
与える人ではなく、取り上げない人
ナンちゃんは私に怒ったことがなく、なんでも私の言うとおりにしてくれるような人だったが、決して、「与える人」では無かったように思う。どういうことかと言えば、何もない日にいきなりプレゼントを送ったりだとか、私の知らない街や素敵なお店に連れて行ってくれたりだとか、困っている私に親身になって助言をくれたりだとか、そういうことは一切しない人だったのである。
新しいテトリスが落ちてこない代わりに、下にあるテトリスが私の思い通りに形を変えて、ぴったり当てはまって揃うみたいな、そういう感じの人だったのだ。
そういう、与えるわけではないが、絶対に取り上げないみたいな、人とのつきあい方がこの世にはあったみたいだった。この「絶対に取り上げない」安心感が、居心地の良さを作っていたように思う。
そして、いつしか「この人といたら楽しいことがある」ではなく、「この人といると悲しいことがない」という関係性がつくられ、私はナンちゃんから、離れられなくなった。
良いときもあるし、悪いときもある
ナンちゃんはいつでも私の思い通りにふるまっていたが、前述した通り、振り回されていたわけではなかった。私は、ナンちゃんのこの行動によりナンちゃんの安心感が無いとだめになってきていたが、ナンちゃんは別にそうでもなかった。来たものを、受け入れる。来なければ、好きなことをする。ただそれだけみたいだった。この生き方は、自分でやる場合はかなり安定するが、自分がされる側だった場合依存症のようになってしまうため、完璧であるとはいえないと先にはっきり伝えておく(された側からしたら、ほんとにたまったもんではない)。ただし、こんな関わり方があるんだと学ばされたことは事実である。
ナンちゃんももっと人をだめにしないような関わり方があったんじゃないの、といつまでも他責思考が抜けない私であるが、ナンちゃんみたいな性格の人をきっとふたり用意すると、自立してお互いを受け入れあった関係が生まれたのではなかろうかと推測する。
そして、ナンちゃんは私に何を与えたわけでもないのに、私をすごく引き寄せていたところも、キーポイントだと思っている。私は、何かを与えてもらうことを望んでいたわけではなく、私から何も取り上げられないことが何よりも気持ちよかったのだろう。ナンちゃんは、きっと教祖向きである。
本当は人は、何も新しくは欲していないのかもしれない。新しいものを欲しがるときは、足りていないものを埋めようとしているだけであって、本当は新しいところから取ってくるようなものではないのかもしれない。
満ち足りているとき、新しいものは欲しがるでもなく自然に、ただころんと入ってきたりするのだと思う。それくらいでちょうどいいのかもしれない。
ちなみにこんなこと、ナンちゃんは考えたこともないし、気にしたこともないだろう。
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