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混ざり合う


実家を出て大学のそばでひとり暮らしをし始めた頃から、「料理」というものを部屋で食べることがかなり減った。最低限簡素な料理はしていたが「おいしい食事」に対する熱量みたいなものがかなり薄く、2つくらいの材料で3分以内にできて、「焼く」という行為から生まれるものを「料理」と呼んでいた。

それ以外は基本、「食材」を食べていた。恥をしのんで書くと、卵を炒ったもの、ピーマンを焼いて醤油で味をつけたもの、納豆ご飯、トマトやアボカドを切ったもの、レタスなんか。肉は嫌いではなかったが、料理スキルがないとまずいものができあがる(と思っている)ため避けていた。肉は、下味うんぬんとか、素材の振り幅とか、考えることが多い。

高校生までは、普通に家庭の料理に親しんでいた。でも仕事で朝から晩まで家を留守にしていた母は危ないから台所に立たなくていいと言ったし、家にいた祖母が懐かしい料理を作ってくれていたので、料理をつくるということを能動的にしたことがなかった。し、興味もあまりなかった。実際今でも好きなのは祖母の作ってくれていたようなシンプルな葉物の味噌汁や、「調理」をしない生ものや、そのままでも食べられる野菜類だ。

実家にまた戻ってきてからは、これまでは良かったがこのままでは人と一緒に暮らしていけない、と思い直し、できるだけ「料理」と言えるものをつくるようにしていた。しかし、家に一人のときは別で、まだ「食材」を食べるときがある。

例えば今日。昼ごはんを食べなくては、と思い、冷蔵庫を開ける。納豆を取り出してご飯をよそった。食べ終わってシンクに下げた後、栄養足りてないなあ、と思ったので、冷凍食品のカツを1枚チンして食べた。カツを乗せていた皿をシンクに下げて、野菜足りてないな?!と思ったので、大きいトマトを洗ったそばから齧った。トマトの汁で顎と指が濡れるから、ぽたぽた垂れてもいいようにシンクの前で食べた。ああ、人間なのに、「食材」をひとつひとつそのもののまま胃の中に入れて、胃の中で栄養バランスを保っている、と思った。消化がはじまる前に胃の中でひとつになるなら、それは偏りがないと言えるのだろうか?私のする食事はひとつひとつが孤立していて、混ざり合うのは飲み込んだあとだけど、それは混ざり合いと呼べるのだろうか?何故だか、混ぜ合わせてから食べるよりも罪悪感が残る。


トマトをごくんと飲み込んだあと、ふと混ざり合わさせてくれない人、のことを思い出す。この世には混ざり合いを好む人と、自分の足で立つのを好み、混ざり合わないようにする人の2通りの人間がいると思う。

その人たちを意識して、見ると、最初はおぼろげに、次第にその人を思い出すときの頭の中でもいつもはっきりと、輪郭が見えてくる。

どんな輪郭かと言えば、混ざり合いを好む人は、小腸の表面の柔毛みたいになみなみと絡みやすい輪郭が見える。くっついたら離れにくいようになっている。
混ざり合いを好まない人は、トマトみたいに、つるんとして滑らかな輪郭だ。私は、全ての関わり合う人間の周りにある、この輪郭を感じながら過ごしている。仲良くなると柔毛が生えてくる人もいるし、トマトのときと、柔毛のときと時間によって違う人もいる。かくいう私は、完全に「混ざり合いたい」側の人間で、柔毛をたくさんつけて、表面積をできるだけ増やして、人と共に生き、死んでいく覚悟を決めている。

混ざり合いを好まない人は、大丈夫じゃなさそうなときに「大丈夫?」とか「心配だな」とかいうと、よく「ものすごく元気だよ」とかいう。「気にしないで」とかもいう。誰かと常につるんでいて「混ざり合って」いるようにみえて、実は誰とも混ざり合わないようにしている人を知っている。誰と一緒に時間を過ごしても、頼り合うのは遊びの都合や車の送迎くらいで、いつも前向きな話ばかりしている。傷の舐め合いなんて馬鹿みたい、ときっと思っている。弱みを見せるなんて、格好悪いと思っているのだ。もちろんその輪郭は言うまでもなくつるんつるんの表面で、こちらに死角はない、と言うように、柔毛も伸ばしても絡みつく場所がない構造になっている。

その人に、自分の機嫌は自分で取れるから、と言われたことがある。最近SNSなどでよく聞く言葉だ。私はそう言われるたび、私がいくらでも機嫌を取ってあげるのに、と思う。大人はちょっとした贅沢なんかをして機嫌を取ることを求められているみたいだが、私たちの機嫌はアイスや、ちょっと高いチョコなんかじゃ、取れないときがあると思う。それに私は、美味しいものを食べるよりも人間の世話を焼く方がよっぽど好きだし、機嫌も良くなる(その人には君は誰かに必要とされていたいんじゃない?とも言われたことがあり、むかついて2秒くらい気まずい空気を流したことがある)。
自分の機嫌は自分で取れる、なんて言葉は私には「君は必要ない」と同義だし、自分の機嫌は自分で取りなよなんて言われたら、きっと怒ってしまうだろう。一人でなんでもできることがそんなに格好いいか、いつも頼られる側でいたいような振る舞いをしているけど、頼られたいと思ったら、まずは自分が頼ることが大事なんだからね(きっと)。

それに、機嫌を取ってよ、なんて言葉をもし言われたら、最高にキュートだと思う。だってきっと私にしかできない仕事なんでしょう。どこかの工場でできあがった大量の同じお菓子や、優秀なロボットではだめで、世界にひとりしかいない私にわざわざ頼んでるんでしょう。

だから、そうしてあげたくてもその人にとって必要なくて(少しあったとしても必要とは言ってこなくて)、入り込めないからこの人と全く混ざり合えない、とたまにつまらなく思う。いつも1人と1人。嘘でも必要だって言ってくれたら、知らないふりして図々しくできるのに。何かしてあげたいと思って、いろいろ考えたあと、余計なお世話かなと思ってやめることがある。できたことを、やらずに終える。本当は、そんなふうに思わせないで、私が入ってきてもいいと思わせてよ。弱みをみせてこそ、かわいいんだぞ。かわいげがないやつめ。

食べ物は面倒くさがって孤立させて、食材そのものを食べる。でも、他人とは混ざり合って生きていきたいと思っている。頼って、頼られて、あなたと混ざり合ったとき、いろんなことがお互いに少しずつ流れて、他人ごとが自分ごとになって。それこそ、やなことが半分に、嬉しいことは2倍に、じゃないけどさあ。

でも、もしかしたら私と混ざり合いたくないだけで、他の人には弱みを見せたりしているのかもしれないと思うときがある。私の頼りなさがゆえに、この人に弱みを見せても仕方がないと思われているんだとしたら、それはすごく寂しくて、でも仕方ないと思う。だから、横に揃って歩いているとき、いつか二人の輪郭の柔毛が手を取り合うときを想像する。柔毛同士が混ざり合って、一体化する。一人で生きていく木や花じゃなくて、一人で生きていけるけど、皆でいたほうがいいから群生している苔みたいに、力を合わせて、そこに存在しようとする。それだけで、この世界を生きていけるような気がする。そんな気持ちを、共有できることがあるとしたら、こんなに嬉しいことはない。



しばらくサボっていた今日のうた
羊文学-あいまいでいいよ

あいまいでいいよ
本当のことは後回しで
忘れちゃおうよ

あいまいでいいよ/羊文学



書き終わって読み返してから、のんきな文章だなあと思いました。もしこれよりも重い次元のところから読んでくれている人がいたら、すべての人が心を開く=他人と混ざり合いたい前提で話を進めていることや、どんな弱みも見せたほうがいいという前提で話を進めていることに違和感を感じるかも。と思いました。いつかそういう人に出会うことができて話をすることができたらいいな。

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