謙虚さと自己肯定感

自分の人生を振り返ると、基本的に自己肯定感が低かったように思う。それは自分の理想像を高く設定していたということであり、必ずしも悪いことではない。その分、「自分はまだまだ未熟だ」と思い、謙虚な姿勢を大切にしてきたつもりだ。
一方で、「なぜ自分はできないのか、まあ自分なんてそんなものか」と自分の可能性を閉ざしてきたようにも思う。自己肯定感の低さの弊害だ。

逆に「自分はできるかもしれない」と自己肯定感を上げた時期には、謙虚さを忘れてしまっているような気がして、そんな自分が嫌になった。あまりにも傲慢で、誰かに不快な思いをさせていまいかという不安が常にあった。
けれども、自分自身で自分の存在価値を認められる時は、生きていてとても楽しかったし楽だった。できればこの精神状態を維持したいし、周りにとってもその方が良い影響を与えられるように感じている。

この謙虚さと自己肯定感を両立する方法について、長らく悩まされてきた。先述のように、自己肯定感を上げようとするとどうしても謙虚さをなおざりにしてしまうからだ。
ある時は、謙虚さというものは演技に過ぎないなかもしれない、と考えた。例えば目上の人と接する時、その状況に応じて謙虚さが要求されるのではないか、と。しかしそのように本心と異なる行動をするのは誠実性に欠けると私は思ってしまう。

今回、ふと新しい解法を思いついたので、しばらくこれを試してみようかと思っている。
その解法とは、現在の自分を以て謙虚さを持ち、未来の自分を以て自己肯定感を上げるというものである。
現在の自分が未熟であることは言うまでもない。そもそも人間一生未熟であると思っている。だから常に現在の自分の未熟さを以て謙虚さを忘れないようにする。
一方で、これまでの努力や経験で成長してきたことも確かに認められる。同年代の中で、世界で一番すごい人だとは当然思わないが、個人のすごさというものは色んな方向があることを踏まえると、自分の方向性の中では自分が第一人者と言えるかもしれない。もっとわかりやすく言えば、他人との違いを思えば思うほど、自分自身に価値を認められる。そう思える程度に色んなことをやってきたという自信はなんとか持つことができそうだ。
そう考えると、今の自分は決して自ら恥じるような存在ではないし、未来の自分はもっと価値のある人間になっているはずだと信じることができる。今の未熟さを自覚した上で、将来の自分に自信を持つ。これによって謙虚さと自己肯定感を両立できるのではないだろうか。

自己肯定感を上げるポイントの一つとして、人間には得意不得意があることを理解することが重要だと最近気がついた。
私は思考の整理が本当に苦手だが、それは頭の中が思考で埋め尽くされているからだ。他人と比較できるものではないけれど、仮に他人と比較すれば量では負けないだろうと根拠なく思えるほど、たくさん悩んで考えてきた。
それに色んな角度で物事を考えるということを幼少期から意識してきたから、色々な所で色々なものが結びついて、色々なアイデアが生まれる。この創造性は、それなりに得意であると自信を持って言えるような気がしている。傲慢な時には、「自分は思考の整理さえできれば天才かもしれない」と思えるほどだ。
今までの自分なら、「そんな大したことはない、傲慢だ」と思っていた。けれども、今は「全体としては凡人だが、秀でている部分も無くはないのではないか」と思うことはできる。逆に劣っている部分が思考の整理である。
だから最近は割り切って他人に頼り始めていれる。自分の考えを他人に話すと、良いものについてはその他人が掬い上げてくれる。こうやって人は助け合っていくのではないかと思うようになった。

最近は傲慢にも「俺がラマヌジャンやるから、誰かハーディやってよ」なんて例えをしている。でももしかすると、将来自分も世の中にある程度大きな影響を与えられる人間になるかもしれない。ならないかもしれないけれど、それを今否定する必要は全くない。むしろそういった自分の可能性を信じて生きる方が、人生は楽しくなるのではないか。
ただ、「自分は世の中に大きな影響を与えなければならない」と思ってしまうと、これまた自己肯定感の低下に繋がってしまう。だから今はただ、「自分は将来大物になるかもしれないぞ」と妄想しつつ、現在の自分の未熟さを自覚しつつ、生きていけば良いのではないかと思う。

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