Q.努力は報われるか? A.努力は報われてほしい

はじめに

「努力は報われるか?」という問いはこれまで様々な議論がされてきたはずですが、私はそのほんの一部しか知りません。

努力は報われる。報われていないのなら、それはまだ努力とは言わない。
正しい努力は裏切らないが、方向を間違えると平気で裏切る。

正確かどうかわかりませんが、こんな格言が思い出されます。
しかし、こういった綺麗事は大抵成功者の言葉であり、その他大勢の人が努力に対して様々な考えを持っていると思います。

かくいう私も、努力についてこれまで色々と考えてみたことがあります。
しかし努力についての話はセンシティブな部分も多いので、あまり人に話す機会がありませんでした。
今回、自分なりの意見をそれなりにまとめてみたので、理想を言えば色んな意見が聞けたらいいなぁとぼんやり思っています。

結論を先に書いておくと、タイトルの通りです。
若干ズレた解答ではありますが、私の正直な意見であり、もっと色んな人に知ってほしいなと思う考えです。
少し長くなりますが、休憩しつつ最後まで読んでいただければ幸いです。

「努力が報われない」とは何か?

そもそも「努力は報われるか?」と考える人というのは、まだ努力が報われていない人が多いと思います。
だから、このまま努力を続けても本当に「努力は報われるか?(努力は報われないんじゃないか?)」と考えてしまうのでしょう。

では「努力が報われない」とはどういうことでしょうか。
この場合、「努力」は目標の存在を前提としていると思います。
つまり、何か目標があり、その為に努力しているが、報われない、則ち目標達成できない、ということです。

目標というのは難易度も抽象度も様々ですが、多くの場合が本人次第のものです。
つまり本人が何かしら納得できておらず、それをなんとかしよう努力しているけれど、上手くいかないということです。
そして納得できていない状態が続き、改善することもできないから、つらくなってしまいます。

報われる(=目標達成)までの道のりが辛い

目標達成ができずにつらい状態で「努力は報われるか?」と考えてしまいます。
これはまたつらいことです。
そもそも先に述べたように目標というのは難易度も抽象度も様々なので、全てを包含して「努力が報われる」というのは難しいです。
世の中に無数にある目標のうち、自分の目標一つに対して「努力が報われるか?」と問うても、未来が予測できない以上は判断するのが難しいことです。

「報われる」を転換する

「報われない」が目標達成できないことであり、「報われる」が目標達成できることです。そしてこの「報われる」は将来どうなるかわかりません。わかる場合もあるかもしれませんが、厳しい条件で論を進めてみましょう。

ここで、目標達成と同値の「報われる」を「真に報われる」と定義します。
ということは「仮に報われる」も定義するのかというと、その通りです。

「努力が仮に報われる」とはどういうことかというと、目標達成はできていないけれど、努力することによって何か良い事があることです。
私は努力している人を応援したくなります。その人が真に報われておらず、つらい状態にある時、何か良い事があったらいいなと思います。

努力している人に何か良い事があったらいいなと思う時、自分にできる事は何でしょうか?
私が思いついたもので最もシンプルなものは、「お菓子をあげる」です(恐らく、私の知人は大抵心当たりがあるはずです笑)。

努力しているのに真に報われなくてつらい時、それでも努力していたおかげで良い事があったら、少しは努力が報われたように感じられないでしょうか。
勿論、真に報われていないので、根本的には変わっていません。
しかし、努力をしているおかげで何か良い事があり、その為に努力を続けられたら、真に報われること(=目標達成)に近づくだろうと思います。また、もし結局真に報われなかったとしても、努力していたおかげでその間に少しでも良い事があったなら、努力して良かったなと少しは思えるのではないかと思います。

一番良い事があるのは真に報われた時

努力そのものを評価し、努力している人に良い事があってほしいと思います。
しかし、やっぱり一番良い事があってほしいのは、真に報われた時ではないでしょうか。
真に報われた時というのは嬉しいことです。真に報われた人は既に良い事があったわけですが、さらに良い事があったらもっと嬉しくないですか?

良い事が重なればよりハッピーです。
努力が真に報われたことで超ハッピーになったら、次もまた努力する気になりませんか?
だから真に報われた時、私はお菓子をあげるのです。

いや、もっとシンプルに、正直にいきましょう。ぶっちゃけ次も頑張る気力なんて二の次です。
誰かが真に報われた時、シンプルにお祝いしたいと私は思います。
こっちの方が多分本音です。ついでに次も頑張る力になれば、尚良いと思います。

結論:努力は報われてほしい

そしてタイトルに返ってみましょう。
私は「努力は報われてほしい」と思います。
「努力が報われるか?」という問いにはきちんと答えてはいません。
でも本音で「努力は報われてほしい」と思います。そして、「努力が報われやすくなってほしい」とも思います。

この場合、自分には何ができるでしょうか。その答えが上に述べた通りです。
まず努力そのものが評価されて、何か良い事があってほしい。そして真に報われた時、やっぱり良い事があってほしい。
この「良い事」を自分が生み出すこと(≒お菓子をあげること)で、「努力が報われてほしい」という自分の願いを叶えることに近づくのではないかと思います。

ちなみに、「自分がお菓子をあげたらその分自分の負担になるし、損するじゃないか」と思う人も多いかもしれません。
これに対しては、その通りです。
「自分の負担になる」という点については、自分の可能な範囲で、ということで解決します。どこまでが可能かは自分次第であり、無理はしていません。
「損する」 という点については、そもそも自分に限定して損得を考える為にそれがマイナスのことと考えてしまうのです。私は自分が損をしても、その分誰かが得をするなら嬉しいです(全ての場合がそうではないので検討の余地がありますが)。自分が損するというのは自分の存在が前提となっているので、自分が損することで他人が得をするのは、自分が存在することによって他人が得をするということです。これって嬉しくないですか?自分が嬉しいと感じるなら、それは何か(≒お菓子代)を支払った対価として自分が受け取ることができます。
また、逆に自分が何かを与えてもらったこともあるので、その恩返し的な意味もあります。

あまり多くの人に賛同してもらえるとは思いませんが、少しでもこの考え方が広まれば、世の中にハッピーが増えるのではないかと思っています。
そして広めるには、まず自分が実践する必要があるでしょう。
理想論はまず実行するところから理想に近づくのです。
この考え方がいいなと思ってくださった人は、是非できる範囲で、少しだけでも周りにハッピーをあげてください。
それが広まれば世の中にハッピーが増えていくと私は思っています。

補足1:目標達成のレベル

目標は難易度や抽象度が様々だということを書きました。
そして私はその目標によって、達成した時のお祝いしたい気持ちに大小があります。
お祝いしたいなーと思うのは主に次の三つです(三つ目はお祝いって言わないかな、まあいいか)。

・できそうもないことができた時
・できなかったことができた時
・おつかれさまーって時

特に強いのが、「できそうもないことができた時」です。他人の目標に対して「できそうもない」という表現は失礼なので書き直すと、「とても難しい目標を達成した時」です。「とても難しい」という表現は曖昧なので再び書き直すと、「自分にはできそうもないほど難しい」です。私は、自分ができないことをできる人をすごいと思います。自分にはできそうもないほど難しい目標を達成した人には、賛美や敬意も含めて、めいいっぱいお祝いしたいなと思います。
この点、比較的劣るのは「できなかったことができた時」です。人には得意不得意がありますから、できなかったことができるようになるのは素晴らしいことです。ただ、目標の難易度を考えると、自分もできるなーと思うことは「すごい!」とは思いません。
目標はできるかわからないから価値がある、と私は考えています。
例えばプロスポーツ選手が初心者に対して勝つことを目標にして、勝っても別にその点はすごくないし、あんまり価値がないでしょう。
これは極端な例ではありますが、他も同じことです。だから私は「できそうもないことができた時」に、より一層お祝いしたくなります。
「おつかれさまーって時」は労いなので、努力が報われるかどうかとあまり関係ないかもしれません。ただ、頑張ったんだから良い事あったらいいんじゃないかなぁという点で、通ずるところがあります。

補足2:努力していない人は?

そもそも「この人努力していないなー」と思って人を見ることがありませんが、人によって努力の量には相対的に差があると思います。
例えば私は大谷翔平選手より努力しているかと言われたら、絶対そんなことは無いだろうと思います。

相対的に努力していない人は、上手くいかない時に自己責任と言われたりして、評価されないことが多いです。

その是非は置いておいて、人生って何かラッキーで良い事があれば嬉しくない?と私は思います。突然の飛躍ですが、しばしお付き合いください。

これはもはや努力とは関係がありません。人生、何かラッキーがあれば嬉しくありませんか。

ということで、私は努力の有無に関係無く、ラッキーがあれば良いと思います。
則ち、努力の有無に関係無く、気まぐれでお菓子をあげます。
何故かわからないけど、突然お菓子をもらえたらラッキーではありませんか?

ここで、「ラッキー(幸運)」とは何かを、具体的にしてみます。
この場合のラッキーはお菓子をもらえることです。ではそのラッキー(=お菓子をもらえること)は何によって生じるのでしょうか。言葉の通り考えると、運です。この「運」とは何でしょうか。

突然お菓子をもらえるかどうかの違いは、則ち私と会っているかどうかです。
つまり、この「運」とは私と会っているかどうか、ラッキーは私と会うことによって生じます。

私と会った人はラッキーということは、逆に言えば私は「会えたらラッキーな人」ということです。
これってとても良くないですか?だって自分と会うことが他人にとってラッキーになるんですよ。私はそういう自分でいられたら嬉しいです。
相手はラッキーでハッピー、私はラッキーを与えられてハッピー、お互いにハッピーです。

あまり多くの人に賛同してもらえるとは思いませんが、少しでもこの考え方が広まれば、世の中にハッピーが増えるのではないかと思っています。
そして広めるには、まず自分が実践する必要があるでしょう。
理想論はまず実行するところから理想に近づくのです。
この考え方がいいなと思ってくださった人は、是非できる範囲で、少しだけでも周りにラッキーをあげてください。
それが広まれば世の中にラッキーが増え、そしてハッピーが増えていくと私は思っています。

おわりに

「努力が報われるか?」という抽象的な問いに対して、絶対的な解答はありません。
ただ、努力が報われたらいいなと思いますし、努力している人を応援したいなとも思います。
だから「努力は報われてほしい」という自分勝手な意見で、自分にできることをやっていきたいです。

以上、長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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