オレは優しいからキョロ充なのか、キョロ充だから優しいのか

~優しいからキョロ充なのか~


生来、「優しい」と評価され生きてきた。

幼少期、ヤンチャをしても
「あなたは優しいんだから、これをしたら相手が悲しむのが分かるでしょ?」
そう諭された。

学生時代、
「お前はまわりがよく見えているし、気配りができるから部長に推薦したい。」
そう言われ、部長になった。

自分が優しい人間であると認識した。


思い出すのは小学生時代、
同じクラスに1人障がい者がいた。
とはいっても基本的には特別支援学級に属し、クラス行事等では一緒に活動する感じだった。

私はその子の面倒見だった。
特に頼まれていたわけではない。放っておけないだけだった。
見返りを求めていたわけでもない。
それが普通だと思った。

今思えばありがたい環境だった。
誰もその子をいじめたり、彼のそばにいる自分のことを貶したりもしなかった。
先生もその子を大切に扱っていた。

特別な事とは思わなかった。
ただ彼にサポートが必要と自覚し、それを実行していただけだ。
その結果として「優しい」と評価された。


自分が優しい人間でいると褒められ、高く評価された。

ある時、
自分が優しい人間であろうとした。

優しくなるためには、他人に良くすることが簡単だった。
困っている人がいれば助ければいい。
多少自分に不都合であっても、他人が都合良ければそれで良かった。

そうすれば私が優しい人間であることを保てるからだ。


~キョロ充だから優しいのか~

中学1年の春。
自分がキョロ充であることを自覚した。

エスカレーター式に近所の中学校へ入学した。

地域の小学校、3校からなるその中学校。
今までとは違うコミュニティが形成され、2週間もすればある程度数人のグループができていた。


私は孤独だった。




いや、話をする友達はいた。
部活動の友達とも友好な関係だった。

だが、クラスの中で作られた数人のグループに私の居場所は無かった。
私は激しい劣等感に包まれた。

自分が孤独であることに恐怖を感じた。
1人でいるように見られるのが怖かった。
イケイケグループの片隅で一言二言交わす日々。


ボッチにもなれず、イケイケグループの一員にもなれない、
キョロ充がそこには存在した。


そうだ、皆に優しくしよう。」

そう思った。
優しい人間であれば頼りにされる。
誰かの良い人でいられる。


優しい心を持った少年は、優しい青年になろうとした。


~優しいからキョロ充なのか、キョロ充だから優しいのか~

さながら夏油のように自問自答する。

今に思えば哀れな青年だった。
常に誰かの目線を感じるようになり、誰かの為に動こうとした。

形のない何かを求め、無償の愛を誰かに払った。

そこにいたのは"都合のいい人間"だった。


都合のいい人間は今も
道を譲り、席を譲り、スケジュールも合わせる。
外では気をきかせるアンテナを常に張る。


損ばかりの人生かも知れない。
たまには疲れる時がある。

いつかは混じり気のない「優しさ」がまた見えるのだろうか。

今日もまた仮面を被った優しさを誰かに払う。
軽い会釈が返る。

優しくするのも悪くないと思えた。



おわり

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