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人間を好きになりたい

 あなたのコミュニケーションには相互理解が足りないと指摘された。言葉のキャッチボールを介して、相手の受け取りやすい球を投げることも、そもそも相手から球が返ってくることすら想定していないと。

 青天の霹靂、目からうろこ。なのにその言葉は、言われたショックの痛みを感じないほどにぶすりと、心の真ん中の図星に突き刺さったような気がした。

人間とは理解できるものらしい

 僕は母から彼女の意思で、彼女の方から抱きしめられた記憶がない。まったくなかったと言い切ることはできないが、少なくとも記憶の限りでそれは日常的なことではなかった。

 うつで一番辛くて動けない時に、理解を示してもらえないどころか「あなたのような嘘つきとはもうやっていけません」と書き置きと借金を残して母に見捨てられ、ホームレス一歩手前の状態になった。

 その後、離婚して以来長らく交流がなかった父の言うことには、両親の結婚は愛のないもので、母はそもそも子どもを持つことを望んでいなかったし、僕が生まれて最初に出た言葉は「男の子じゃなくてごめんなさい」という後悔だったそうだ。今思えば、幼い頃から母に限らず周りの大人はこれは愛情だからと口にしながら体罰と恐怖の圧力で抑えつけてくるのが当たり前だったし、一方でネグレクトとまではいかずとも、僕は母から料理どころか箸の持ち方も爪の切り方も教わったことがない。面倒を見てもらってはいたが、自立できるように育てる気はなく、緩やかに放置されていた。だから、父のその言葉が真実かどうかわからずとも否定しきれなかった。だが、同時に今更になって母に愛されていなかったことの念押しをしてくる父が疎ましく思えた。

 僕の人間不信は、その現実に気付かされた年季こそまだ浅いが遡ればとにかく根深い。

 他にも、数年来グループで仲良くしていたと思っていた相手にある日突然「あなたと付き合っていると◯◯さんと□□さん(グループ内の仲の良い二人)に悪影響を及ぼすから即刻縁を切ってほしい。でないと個人情報を晒す」と脅迫されたり、十年近く付き合いがあり、毎年誕生日やクリスマスやバレンタインに手紙やプレゼントを贈りあうほどの親友に、いろいろあった末「本当は裏で自分の陰口を好き勝手に言っているのだろう」と強い言葉を浴びせられ、そのまま絶縁したこともある。

 正直言って、人間を嫌いになる理由は探さなくてもそこら中に転がっていると思う。彼らをまったく恨む気持ちがないかと言えば、嘘になる。

 それでも、僕が彼ら彼女らを好きだったという過去は消えない。愛情が憎しみに変わる感覚を体験もしたが、同時にいつまで経っても、彼らを好きだったし愛していたという事実は変わらないことに苦しんだ。

 だから僕は、仕方ないと諦めた。
 同じ人間など存在しないのだから、相性が合わないこともあるし、完全に相手を理解することなど不可能なのだと。ありのままの僕のことを受け入れて理解しようとしてくれる存在などきっといはしないのだと。

 僕が現実に存在する相手に恋愛も性愛も感じないのは生まれつきのもので、現実の人間関係に傷ついたから恋愛ができなくなったわけではない。ただそこに後天的に、「ありのままの自分を好きになってくれるような存在はきっと、次元の壁を超えた向こうにくらいしかいないのだろう」という逃避がついて回るようになったのは事実だ。

 僕が人間を理解できないのは、心の防衛機制が働いているのが原因であることは、一面的に正しいと思う。けれど一方で、たしかに僕は最初から相手を理解しようとする努力を投げ捨てて怠ってきた部分もあるのではないだろうか。理解されたいと思う前に、本当の意味で相手を理解しようとしたことがあったかと自問すると、口を噤んで俯かざるを得ない自分がいる。

共感することの難しさ

 僕は人の気持ちを察したり汲み取ることに、特別不自由を感じたことはない。むしろ、誰かと対話をしている時は常に、どう表現すれば相手に自分の気持ちが伝わるか、どうすれば相手の気持ちにできるだけ寄り添った言葉をかけられるか、わりと神経を尖らせて気を遣っているように自分では思っている。だというのに、人間関係ではこんなにも失敗し続けるのは、僕の共感はあくまで「自分が同じ立場だったらどう感じるか」というシンパシー(同情)であって、「相手がどう思うかを理解しようとする」エンパシーを苦手としていることが一因にあると思う。

 そもそも相手の立場や境遇、環境を考慮に入れたとしても、それにどう反応し何を感じるかは人によって千差万別なのだから、僕の推測が正しいとは限らない。表向きは自分と近しい感覚を持っていて気が合うと思う相手でも、内面では思いもよらない考え方を持っている可能性は十分あり得る。だから、本当の意味で他人を理解することなどできないのだと決めつけていた。自分と他人は違うのだから、それが当然だと思っていた。

 けれど、冒頭でその言葉を指摘してくれたその人は、客観的に他者をよく観察し、分析し、パターン化された情報を増やしていけば、ある程度は相手のことを理解することは可能だと言った。僕もそれを聞いて、理論上それは正しいと感じた。ただ、そこまで熱心に他者に興味を持ってつぶさに観察したことがなく、どうしても感情に左右されやすい分、他者をロジカルに分析するという視点が存在しなかったので、実感は湧いてこなかった。

 僕にとっての他者とはヴェールに覆われた箱であり、そこから滲み出ているもの、察せられるものを汲み取って、自分の理解できる範囲で寄り添おうとするひどく曖昧で限定的な共感しかできない存在だった。それでも、相手が辛そうにしていれば自分も心苦しくなって何かをしてあげたいとは思うし、何か良いことがあって喜ぶ姿を見れば、こちらも嬉しくなって祝福の言葉を投げかけたくなる時もある。共感とはそういうもので、それで精一杯、むしろ十分だと思っていた。

 だが、その人の目から見た他者は、観察と分析によって集められた情報による一定の解像度をもった、輪郭も中身もある存在なのだと、話しながら強く認識の差を感じた。

 何が飛び出してくるかわからないから、おっかなびっくり共通点や公約数を探して近づくきっかけを探っている僕と、相手の反応やものの考え方をある程度しっかりと把握した上でそれに合わせた対応するその人とでは、見えている世界も、相手に対する共感の幅も深度も大きく変わるだろう。

 シンパシーとエンパシー、どちらの共感の方が優れているかという話ではない。時には相手の感情に共鳴するシンパシーが孤独感を紛らわす助けになることもあるだろう。ただ、相手の立場や考え方を考慮せず、自分が思ったことだけを伝えるのでは、相手にこちらの意図が伝わらなかったり、逆に不用意に相手の踏み込まれたくない場所を荒らしてしまう可能性もある。

 相手に対する一定の理解の伴わない一方通行な思いやりは、コミュニケーションのキャッチボールを交わして関係を深めていくのにはハードルが高く、向いていないものだということらしい。

受け取る相手のことを考えること

 僕は会話のキャッチボールとは、単に滞りや不和がなく、その場で会話が繋げてさえいれば成立するものだと思い込んでいた。

 自分を話し上手だと思ったことはないが、最低限話し手に回る時は聞いている相手に伝わりやすい表現を模索し、不用意な言葉で傷つく人がいないよう言葉選びにも極力気をつけているつもりだった。反対に聞き手に回る時は、できるだけ相手の言い分に耳を傾け、話しやすいように相槌を打ったりときには補足として質問を挟んだりと自分の中で話を咀嚼しながら、話すことで少しでも相手の気持ちが軽くなればいいと思いながら傾聴していた。

 僕の中には相手への思いやりがあって、恩着せがましくするつもりはないが、できる限りその思いが相手に伝わるようにと努力していたつもりだった。しかし、その思いが相手に伝わりさえすれば満足で、もっと言えば、たとえ相手に伝わらなくても自分の中の思いを表現できたというだけで満足している部分があることは否めない。僕は、自分の気持ちが相手に受け取ってもらえなかったとしても、多少落ち込みはするが、相手への好意がある限りきっと懲りずに好意を伝えようとするだろう。そして、自分の思いが相手に伝わったとわかればそれで満足であり、相手からの思いがこちらに向かって渡し返されることをまったく想定していないと指摘された。

 ぐうの音も出ない正論だった。本来キャッチボールとは、一方的に力任せにボールを相手に投げるものではなく、相手に合わせて受け取りやすいボールの投げ方や込める勢いを調整するものであり、当然投げたボールが相手から返ってきた時のために心構えをしておくものだ。

 しかし、理解できないと端から決め込んで、相手の考えや立場がよくわからないまま投げられた思いが、相手にとって受け取りやすい球になる確率が相対的に低くなるのは当然だろう。

 端的に言えば、僕はただ自分の一方的な好意を相手に押し付けるだけで満足しているせいで、本当の意味で相手の気持ちに上手に寄り添おうという努力を怠っていた。それが知らず知らずのうちにすれ違いを生み、気づけば相手の気持ちが自分からすっかり離れていってしまうことに繋がっていたとしても、何も不思議ではない。

理解し理解されることの恐ろしさ

 言い訳を承知で言えば、僕が他人を積極的に理解しようとしないのは、理解できないまま傷つけられた過去に起因している部分はあるだろうし、同時に他人から理解されるのを望んでいないことの裏返しでもある。自分も理解してほしいなどと高望みはしないから、相手にもそれを期待しないでほしいのだ。

 僕がネット上に放出している己の鬱屈は、長年身のうちに溜め込んだもののほんの一部だ。それをできる限り読み手に伝わるよう、濾過して、体裁を整えた上澄みのようなものであり、本当の自分はもっと醜くて、愛されることも理解されることも分不相応だと思っている。本当の自分を知られたら、誰も僕のことを好意的には見てくれなくなるだろうという恐れがある。仮に僕が他人にもっと興味を向けてより正確に相手の考えに寄り添えるようになれば、相手からどう思われているかについてもある程度予想がついてしまうと思うと、当然目を背けたくなる。相手にどう思われているのか判然としないせいで不安に苛まれるのとどちらがマシなのかはわからないが、自分自身が好きになれない自分を誰かに好きになってもらったり、ありのままで理解してもらいたいと願うことは、やはり今の僕には難しい。

 ただ一方で、自分は孤独でも平気だからといって、相手に一方的に思いを押しつけるばかりの迷惑な存在にはなりたくない。ならば、相手のことをもっと突き詰めて理解しようとした時、元来人の好き嫌いが激しく、人に求める理想が高い自分は相手を穿った目で見てしまうのではないかという恐れもある。

 ここまでくると、さすがに個人の力では矯正することが難しい認知の歪みではあるのだろうし、自己評価を再設定するのに手助けが必要なのだとは思う。僕が他人を理解し、他人に理解されるまでの道のりは、スタートする前の地点から前途多難だ。

生きるために、愛したい

 ここまで散々自己肯定感の低さによる人間不信を披露してみると、表題は少し不釣り合いに思われるかもしれない。

 より正確に表現するのであれば、僕は『優しく人間を愛せるようになりたい』。自力で健全な人間関係を深められるようになるまでには、まだまだたくさんの問題があり、それこそ心のプロのアドバイスや手助けが必要だと感じる。

 けれど、これまでただ一方的に押し付けていた好意を、相手に合わせて優しく手渡せるようになれたのなら、きっと今よりもう少し、自分にとっても周囲の人にとっても良い環境が作れるのではないかと思う。

 相手を理解する努力を放棄して、一方的に押し付けるばかりだった愛情のツケを、人に優しい自分になることで、返していきたい。

 そんな風になれる日が来たならきっと、僕は今よりもう少し、自分のことも好きになれる。そんな気がした。

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