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小説 伝説の宅建士A 100年の恋が実るかも、まごころから出たトラブル
はじめに
不動産では苦労の連続。いやはやいたるところに落とし穴がありまして、気付かずに損していること多いのです。そして気付いたら気付いたで、もう大変です。黙って損するのは嫌だけど、抗うとどれくらいの時間や労力、はたまた金銭が必要になるか、見当がつけばいいけどわからない。
相談窓口はたくさんありますが、よほどあくどくないかぎり消費者側では機能しません。莫大な税金を産出する宅建士と宅建業者は保護されているのだと思います。
そんなこんなで、こんな宅建士がいてくれたらなぁと理想が生まれて、癒しが欲しくて、四コマのネームを120話描きました。主人公は、気が弱くていつも冷や汗をかいているけど、粘り強く正義感を通す、へたれヒーロー、宅建士Aです。
それは不動産屋(宅建士)が途中で下りてしまった『難しい物件』の取引きが元になっています。ギャグマンガです。時間がないし、画を描く経験が乏しいから未発表です。
漫画は抽象化でものすごく短く表現できるのが良いです。
文章は、ほんの些細なことを細かく表現できるのが良いです。
25,000文字と長めです。
やっかいな客
エアコンの効いたオフィスに戻ると、応接用の椅子に腰かけていた客が立ち上がり、怒りに任せて「ざけんな」と怒鳴ったところだった。初老のガッチリした男だ。正面に座ったままの飯岡を見下ろして、険しい表情で恫喝する
「あんたじゃ話にならん、あとで上司に家まで来るよう言っておけ、すぐだぞ、今日中だ」
初老にしては身のこなしが滑らかで、せまい通路をドカドカとこれみよがしに足音をたてて向かってくる。すれ違いざまに感じた風圧からも、かなりのご立腹だと伝わった。
「チッ」
男が出て行ったと同時に、飯岡が舌打ちをした。
「なななんなんです?」
江井の言葉に、ゆっくり立ち上がるイケメン。ジム通いの引き締まった線が浮き出るようなピタッとしたスーツに身を包み、物憂げな表情で江井を見る。
しまった、触らぬ神に祟りなし、ここはなんとか逃げなくてはと、そっとその場を離れようとしてみる。
「あの、江井さん」
逃げようとするなんて愚かでしかなく、逃げられないともわかっていた。こんなとき、たまたま通りかかったのが江井なら、誰だってすかさずとっ捕まえる。
「ちょっと頼まれてくれませんか?オレ、忙しいし、時間がなくて」
「はぁ、どんなことでしょうか?」
もやしみたいなヒョロっとした体型の、髪型もイケてない江井に対し、斜にかまえた飯岡は、ギリギリの「へりくだり」でも計算しているのだろう、小首をかしげて間をおいた。
「もしかして江井さんじゃ無理かもだけど、さっきの客の家へ行って、てきとうにやってきてくれませんか」
なんとも失礼な響きだ。イラついているからと、こういう嫌味は、いわれのない攻撃でしかない。
「とんでもない、私では役不足です、だって、たしか、上司を呼んで来いとか聞こえましたし」
遠回しに断ったつもりが何も伝わらなかった。飯岡は呆れた顔でこういった。
「悪い冗談はやめてくださいよ、こんなことで上司を呼ぶなんて、できるわけないじゃないですか、だから頼んでるのに」
そう言いながら、むりやり書面を手渡そうとする。
「でででも」
「オレ、理想が高いんですよ、仕事バリバリやって、いつか『伝説の宅建士A』みたいになるって心に決めているんです」
「伝説の宅建士A?」
「知らないんですか?日本一のオーナー社長に引き抜かれて、そこの跡継ぎになった、スーパー・シンデレラ・ボーイを」
「う、うわさは聞いたことがあります」
「だからお願いしますって」
株式会社エステイト・クリエイトは、バイパス沿いに本社ビルをかまえる、地元じゃ有名な、中堅どころの不動産会社である。そして、この自意識高めの飯岡こそが、この会社のエースだった。
ほめ言葉なのか、けなし言葉なのか、人によりけり捉え方はそれぞれだが、裏では「七色の声の持ち主」とささやかれている。
江井のほうはといえば、産休中の社員の助っ人、つまり派遣社員である。
だからといって、年下の、上司でも部下でもない飯岡の、あつかましい頼みを引き受ける義理などはない。
それでもついつい、自ら首をつっこんて、相手の思う壺にはまってしまうのが江井だった。
けっきょく資料を受け取る。
売主は亀山悦子、68歳。対象不動産は(古家有)の1,800万円の土地で、大きさは45坪弱、旧道と県道のあいだをむすぶ私道に面していて、バス停まで徒歩2分、JRの駅までバスで10分、このエリアの住宅地の端に位置する。
亀山悦子の息子から、実家を売ってほしいと連絡があったのは、いまから1週間前のことだった。
母親が骨折したので、自宅に連れて来ている。治っても、この先、一人暮らしはもうむりだろう。しかし仕事に支障があるので同居はむずかしい。だからとりあえず、ホームに入ってもらうことになったと、説明した。
実家の持ち主は母親、売りたいのは息子、こういう時は要注意だ。そこで息子の家を訪ねて、ちゃんと会ってたしかめた。
息子は、いわゆる属性のよい仕事だし、母親も、息子の言うとおりにしてくれと頼んだので、問題はないと判断した。
飯岡は、鍵をあずかり、現地へ行った。
築55年の家にしては状態はいいが、さすがに古すぎる。ここまで古いとさすがに需要がなくて難しい。
そこで、土地として売却してはどうかと提案した。息子も、そこはよく分かっていた。何よりも急いで売ってほしいという。
それですぐさま、心当たりの客を案内した。ところが隣家から、さっきの老人がでてきて、これみよがしに水をまき、しかもわざと飯岡たちにしぶきが当たるようにしたという。
「それは困りましたね」
そんな隣人がると、取引が難航する。売れるとしても、きびしい値引き交渉が入るかもしれない。
「あの人、頭おかしいですよ、それでも話しをするしかないのが宅建士じゃないですか?」
「はい」
「そしたらなんか、自分が買うようなことを言うんですよ、それで会社に来てもらって、申込書をだしたら、ほら見てください、記入したんです」
飯岡は、『申込書』をペラペラと振ってみせた。江井は、これは意外な展開だと内心おどろきながら、それを受けとる。
佐藤和夫、70歳。1,800万円。満額での申込みだ。
「あの、佐藤さんは、どうして亀山さんの土地を買いたいのです?」
「ここに新しい家が建つと困る、知らない人が出入りしないようにするためとか言ってましたけど」
「まさか」
「自分だってさいしょは冗談だと思いましたけど、そこだけは本気みたいだったですよ」
近くに土地を買いたいというのは、けっして、めずらしいことではない。ただ、その動機は、たとえば「増築したい」とか、「家庭菜園を楽しみたい」とか、「駐車場がほしい」など、今よりももっと暮らしを豊かにしたいからであることが多い。
それにたいし、佐藤の動機はあまりにもネガティブだ。環境が変わるのを嫌がる人は多いが、だからって他者を排除するために土地を買い取るというのは、いくらなんでも行き過ぎではないか。
「それで、あの、怒りだしたきっかけとかは、あるのでしょうか?」
「ええっと、そうですね、購入動機とか、資金面とかの質問をして……」
急に歯切れが悪くなった。何か隠しごとをしているかな?そんなことを思いながら、次の言葉を待つ。
飯岡は、バツの悪い表情で、電子たばこをくわえる。
「たしか、手数料の説明をしたあたりだったかな……その、手数料の約定書に先にサインしてもらおうとしたら」
「え、いきなり?」
エステイト・クリエイト社は、売主の亀山と『専任』で契約している。これは、約120万円の手数料を稼げるチャンスなのだ。売主と買主それぞれからMAXで約60万円もらえる。
そしてこの手数料こそが、町の不動産屋の主な収入源である。賃貸でも売買でも、手数料を稼ぐのが目的の商売なのだ。
だから不動産屋は、ぜったいに手数料をギブアップしない。その他もろもろ事情はあるにせよ、手数料を稼がなければ、おまんまの食い上げだ。
たとえ買主がおとなりさんだろうが、それはまったく同じことだ。
だからと言って、いきなり約定書にサインというのは順番が間違っている。
電子タバコを手に、飯岡は煙を吐き出しながら、飯岡はいう
「やっぱり、手数料を払いたくないから、ゴネているんですかね?オレ、そんな客、困りますよ、どうにか処理できませんか?」
自分は悪くない、そう言いたいのだろう。黒て大きな眼、それが江井を睨んでいる。
そうかもしれませんが、飯岡さん、先に約定書というのは、あまりにも露骨ですよ……と、言いたいところだが、それは心でつぶやくだけにして、ここはいったん話を合わせることにした。
「手数料にケチをつけるお客さんって、けっこう多いですよね」
「ですよね、佐藤さんって、どのていど不動産取引の知識があるんだろう、それが問題ですよ」
不動産屋は、仲介手数料を稼ぐのが仕事だ。その反面、じつは、不動産取引に、不動産屋は必須じゃない。
ここが辛い、何とも言えないところだった。
たとえば賃貸なら、ちょくせつ大家さんから部屋を借りることはできる。売買なら、売主と買主と司法書士がいれば成立する。そう、必須なのは、司法書士なのだ。
相手の知識や経験により、仲介のあり方は変わってしまう。これは、必ずしも悪い意味ではない。相手に合わせて確実に説明をするという点で、必要不可欠の判断になる。
ただし、飯岡の意味することは、亀山との媒介契約が3カ月で切れてしまうことを、佐藤が知っているかどうかである。
佐藤がそれを知っているとすれば、亀山との契約が切れるのを待って、直に取引するかもしれない。
そうなると手数料はもらえない。それを心配しているのだ。
江井はもう一度、さっき佐藤とすれ違ったときのことを思い出そうとした。何かが引っかかっている。
「やっぱり、江井さんじゃむりか、ほかをあたるか」
江井のだんまりに待ちくたびれた飯岡が、いやみったらしくひとりごとのようにつぶやいた。
「いえ、やりますよ、引き受けます」
考え事をしていて、とっさに出た返事だったが、本心だった。けっきょくは譲歩して相手を思いやる、それが江井だ。みため通り以下の気弱だけど、仕事への情熱はめちゃ強い。
とうぜん、飯岡は喜んでくれると思いきや、なぜか、その表情はくもっている。
プライドの高い飯岡のこと、江井がイヤイヤ引き受けたなら、満足だったに違いない。だが、こんな風に余裕を見せられると、どことなく江井のほうが上っぽくもなってくる。
そういう空気に敏感すぎるエースは、たとえ一瞬でも、立場が逆転するのは許し難く、不愉快なのだ。
でも江井には、そういうことがわからない、これもひとつの顔だった。
飯岡は、顎を少し上げて、手に持っていたファイルを突き出した。
「じゃあこれ」
ファイルを押し付けられ、江井は反射的に受け取った。やけに薄っぺらだと思ったら、さっきの2枚『申込書』と『概要書』だけしか入っていない。
いぶかしげに聞いてみる。
「あの、他の資料は?」
「タイム・イズ・マネーですよ、オレのばあい、江井さんと違って」
イミフな言葉は無視して、もういちど聞いてみる。
「他の資料はどこにありますか?」
「だからぁ」
飯岡は、口をへの字に曲げ、片方の肩をすこし上げた。何の合図かなと思いきや、セクシーラインで腰から歩き始め、そして自分の席へ戻った。それきり、なにごともなかったような態度で、顔も上げない。
(やっかいな客を押しつけて、飯岡さん、こういうときはお礼をいうものなんですよ)
そんなことを心の中で独りごちて、しばらく弱めの眼光を飯岡に浴びせてはいたが、まあいいかとあきらめた。こういうことにはなれている。
勘違いのパワーを持つ男、佐藤
JRのY駅を降りて、北に向かうと、2本の公道が平行に伸びている。その間のスペースを目で追うと、新築の戸建が群れて建っているのが、あちらこちらに見えた。
大学病院から1駅、市の主要駅から2駅のこの街は、もっかぜっさん開発中で、そして新旧交代の過渡期でもある。
この先で交差するバイパスには、これでもかというくらいフランチャイズチェーン店がひしめいていて、新しい世代の生活を支える施設やサービスがそろっている。
目的地は、そのY駅からバスで10分、バイパスからすぐの、このあたりの住宅地の端っこだった。
バス通りに垂直に交わる私道、そこに古い昭和の家が3軒ひっそりと佇んでいて、その先はどん詰まりで、通り抜けができない。そのためまるで人通りがなく、この街の雰囲気からは異質だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1656731465200-bcueqy2p8W.jpg?width=800)
佐藤の家はそのいちばん手前で、青い瓦の古い木造2階建てだ。
私道が見えて、近づいて行くほど、人を寄せ付けない重い空気が漂ってくる。
かつては垣根だっただろう、植栽はまるで手入れがされておらず、道路がせまくなるほと伸びている。
モシャモシャと、なんの植物なのかよく分からなくなるまでもつれて、
ツバキだろうか、ほとんど枯れた木を占領するがごとく、ジャスミンのツタが巻き付いて、空に向かって薄ピンクの花が鈴なりで、それが奇妙だった。
風が吹いて、サワサワサワっと葉が擦れた。その波を目で追うと、ツタの絡まる木造2階建てがある。こちらは3軒ある、真ん中の家である。
ところどころ見えている外壁は、カビが原因だろうか黒くくすんでいる。
軒下から下がる切れたケーブルが、風が吹くたびゴツンゴツンと音を立て、サッシを叩く。
そして足元はグチャグチャと湿っている。排水溝が詰まっているのか水はけが悪いからだろう。しかも基礎のあっちこっちにクラックがある。
江井は、危険レベルではないかと感じた。
この家は、一日でも早く解体するべきだろう。江井は、持ち主を調べなければと、写真とメモをとっておく。
そしてさいごの、いちばん奥の3軒目、これが、売り出し中の物件になる。
資料によると、築55年とこれもかなり古いが、しかし、手前の2軒とは雲泥の差だった。
レトロ情緒たっぷりの可愛い家で、メンテナンスの状態も良好なようだ。
まず、外構の整備が良い。車庫はコンクリート舗装されているし、インターロックのアプローチにはコケもなく、足元が乾いている。
その奥の庭に、背の高いグラジオラスが咲いていて、いくつか小ぶりの植木と、たくさんのハーブが茂っている。
これだけでも価値があると思いつつ、合鍵で中に入ると、ここにもまた想像以上の空間が現れた。
磨かれた檜の床は、米ぬかを使っているのか、ギラつきがなく上品に仕上がっている。障子紙の透かし模様や、木彫りの欄間、曇りガラスが入った建具などに、ちょっとした洒落っ気を感じる
装飾のセンスも抜群だ。たとえば廊下には、かわいらしい額縁がいくつもかけられていて、レース編みが飾られている。
キッチンへ進むと大型の棚には色とりどりの果実やハーブが入った瓶が並べてあり、柔らかな光に反射してきれいだ。
居間は畳で、居心地のよさそうなソファが置いてあり、大判のパッチワークとクッションがのっている。
昭和の家だというのに、これら洋風のアイテムがどうにもマッチして、生活の豊かさをかんじた。
その他にも、引戸の開け閉めがスムーズで建付けがよいことに気がついた。こんなに古い家なのに、それがすごいと思った
庶民の家にはちがいないし、けっして高級感があるわけではない。それでも江井は、安らぎを与える空間と評価した。
自分がここの担当だったら、まずはこういう雰囲気が好きな客を探したい。
しかしそれは、簡単なことではない。
新築が増えている住宅地ということもあり、築55年の一般住宅では、まず買い手はつかない。
すぐに売りたいのなら、土地として売るしかないのだ。そして売れたらすぐに取り壊される運命である。
玄関のカギを閉め、残念な気持ちで、インターロックを歩いて戻っていくと、養生テープがこれでもかと貼り付けられている板に気がついた。
確認のために近づいてよく観てみる。
やはりそうだ、センスのないシンボルマークと『売物件』の文字の片りん、間違いない、エステイト・クリエイトの看板だ。
これも佐藤の仕業だろうか?
「ゴゴホ」
咳の声がして、反射的にそっちを見ると、佐藤が仁王立ちになっていた。右手にひしゃく、左手にバケツがある。飯岡に聞いたとおりだ、あれで水をかけるつもりなのだろうか?
「す、すみません、エステイト・クリエイトです」
声が小さくて聞こえないのか、仁王立ちのままこっちを睨んでいる。
「すみません、エステイト・クリエイトの江井です」
「……」
「あの、さっきの不動産屋です」
3回目は、江井にしては大きな声だった。
「不動産屋か?」
「はい、先ほどの会社の者です」
江井は近寄っていって、でも少し遠くから、宅建士のIDを見せた。上司をよこせと息巻いていたので、名詞はわたしたくなかった。佐藤は、なんどかIDの写真と江井の顔を見比べていたが、名刺をくれとは言わなかった。
まずペコリと頭を下げて、詫びを入れる。
「先ほどは、失礼があったようで、すみません」
「あんたんところのあの若造は、俺の収入がどうとか、資産がどうとかそんなことばかり聞きやがる、バカ野郎が!!」
「きき聞き方ってのがありますよね、ハハハ」
気が弱そうな江井に、佐藤はちょっと気を良くしたようだ。
「あんた、本当にあの野郎の上司?」
佐藤は、疑っているわけではないだろう、そう軽く聞いてきた。でも江井は、顔面が硬直するのを感じながら先を急いだ。
「あの、できましたら最初からお話ししていただけませんか?」
佐藤はためらいもなく、いや、それよりも待ってましたとばかりに、すごい勢いで話し始めた。
ただ、その内容は、ほとんど愚痴だった。ダミ声の耳障りはともかく、とりとめのない話がつづき、それが何周かした。ようやくぜんぶ吐き出せたのか、急に静かになる。
ちゃんと聞いていたつもりだが、佐藤がいわんとしていることが、江井には理解できない。それとどうも、飯岡の説明とは、微妙に食い違っている。
ごそごそと古いカバンの中から、さっきの申込書を取り出した。
「あの、あちらの土地を買うということで、こちらにご記入いただきましたが、これは?」
江井が差し出すと、佐藤は顎を落として口をあんぐり開けた。それからひっつかんでグシャグシャに丸めて投げつけた。
「まったく、何言ってんだか、そんな金、あるわけないだろう」
「そ、そうなんですか?」
「金がありぁ、こんなところに住んでる理由なんてないよ」
たしかに、説得力がある。
「では、どうして申し込みをされたんです?」
「俺はね、買いたいんじゃなくて、売らせないっていってんの、そしたら、あの若い奴がその紙だしてきて、書けっていうから、いわれたとおりに書いただけだ」
「そ、そうでしたか」
飯岡のことだ、やりかねない。
「だからさ、なんどもいうけど、ここは俺の土地なんだよ」
自分の耳を疑いながら江井は「は?」とだけ反応した。
「聞こえないふりか?ここは俺の土地なんだよ、わかったか?」
どんなに大声を出されても、亀山さんの土地は、亀山さんのものだ。売るかどうかは亀山さんが決めることだ。
しゃんとしているし、言葉もしっかりしているように見えるが、もしかすると認知機能に問題があるのだろうか?
「し、しかし」
「しかしもへったくれもあるか」
すぐにけんか腰になる佐藤は、無口がクールな昭和の男だ。コミュ力がないとしても、それは時代のせいなのだ。江井はそう自分に言いきかせて、がんばって、どうしてそのような主張しているのか、いくつか質問してみる。
「だからさ、俺の土地をまたがないでは、そっちへ行けないだろう」
「またぐ?」
「お前がいま立っているそこだよ」
ここでやっとピンときた。
「私道のことですか」
「そう、俺の家の前は、俺の持ち分だから、俺の名義」
「あの、つまり、ご自分の土地というのは、この道路のこと…」
「そうだよ、名義がそうなってるんだ、それに、どういういきさつかは知らないけど、親の代がさ、みんなで仲良く暮らせるようにってことでね、それで協定も結んだんだ、だからさ、新しい人が来てもね、その、協定があるからね、ダメなんだよ」
「みんなとはどなたでしょうか?」
「見りゃわかるだろう、ここから行き止まりまでの3軒だよ」
江井はここで黙った。
佐藤は「私道」を自分の土地といっている。だが、これはまちがった解釈だ。
道路という意味においては、公道と私道になんら区別はない。「公道」も「私道」も読んで字のごとく「道」なのだ。道である以上、相手が誰だろうが、通行を妨げることはできない。
ところがこの考えはあんがい浸透しておらず、佐藤のように、私道は自分の土地と考えている人が少なからずいる。佐藤が主張しているように、私道の名義が、自分になっていることでそういう勘違いがおこる。
そして佐藤は、自分が許可しないかぎり、だれも通行できないと考えている。だから、看板に養生テープを貼る。
もちろんそんなこと、正当性があるわけない。すべて違反行為だ。
通行を妨げるのも、植栽が私道までせり出して生い茂っているのも、植木鉢やバケツ、ひしゃくなどの私物を置いているのも、ぜんぶ違反なのだ。
だが佐藤は、自分にはそうする正当な理由があると信じている。
どうすればその誤解を解くことができるのだろう、江井は、そこに集中していた。
「おい、何で黙っている?」
「つまり、気に入らない相手には、この道路は使わせないということですか」
そう答えてからハッとする。
江いは、なにか考えに集中すると、外には神経が行き届かなくなる、かなりのぶきっちょだ。そして、そういうときに質問を受けると、普段とはまるで別人みたいに、ピシャっと核心に触れてしまうことがある。
後悔先に立たず、佐藤はその顔面に怒りをあらわにしている。
「ばかやろう!てめえ、いったい何様のつもりだ、俺のなにが悪いんだ」
あまりの剣幕に、尻尾を巻いて逃げ出しそうになる江井。
「いいいいえ、も申し訳ありません、その、私道とはいえ道路ですから、じつは、だれでも通れるというのが、決まりなのです」
佐藤に、聞く耳などない。
「だまそうとしてもそうはいかないからな」
「だだだますなんて、まさか」
「なめるなよ、俺は知ってんだよ、あそこの地主が、誰も通らせないってさ、道路ふさいで大騒ぎになったんだ、でも、けっきょくだれも何もできなかったんだ」
「それは…」
ふたたび黙りこむ江井。
佐藤の勘違いは一筋縄ではいかない。
佐藤が言っているのは、「他人の土地」のことである。
ややこしいのは、「他人の土地」と「私道」は、見た目では区別できないことだ。
見た目は、舗装された完璧な道路だが、じつは「他人の土地」という「道路もどき」がある。
佐藤が言っているのは、たぶん、それのことだろう。
たぶんというのは、通行権とはやっかいで、いくつか種類がある。
だれもが自由に利用している「他人の土地」もあれば、囲繞地(いにょうち)通行権や、地役権など、関係者だけに与えられる通行権もある。
そして、だれもが自由に利用できるのは、所有者の心意気だったりするところ、囲繞地(いにょうち)通行権は民法の取り決めによるし、地役権は当事者同士の話し合いで決まるなど、これらのちがいを理解するのはかんたんじゃない。
だから、これこれこうですと、かんたんに説明することもできない。
江井はまだ迷っていた。ここでこのまま延々と説明を続けることが、得策だとは思えなかった。
まったく理解されないリスクがあるし、もしくは、相手の間違いを指摘して一方的に負けを認めさせる行為におわるかもしれない。
こんなとき、相手を凹ませても、何も良いことがない。こっちが正しければ正しいほど、ろくなことにならない。
「ほらな、やっぱりだ、だから不動産屋ってのは信用ならないんだよ」
いつまでも黙ったままの江井に、佐藤は自分が勝利したといわんばかりに、わめきはじめた。
「しししかし道路の取り決めとはそのいろいろ…」
「あんたね、俺をだまそうなんて百年早いんだよ、チッ、チッ、まったく、チッ」
佐藤は、尻切れトンボで独り言みたいに口の中でもごもご言いながら、家のなかに引っ込もうした。
「ままま待ってください」
「なんだよ」
しつこい江井に、軽蔑の笑みを浮かべている。
「そのいろいろと例外があるんです。そそそして私は…」
開けっぱなしだった引戸が、ギーーッと音を立て、建付けはそうとう悪いが、佐藤は力任せに強引に閉めきった。
「私は、不動産を調査するプロです。改めてちゃんと確認して、出直してきますので、今日はこれで失礼します」
江井は、その戸に向かって続きを述べた。
エース飯岡 VS 派遣江井
しょんぼりと会社に戻ると、飯岡が、ドッキリを疑うほどの歓迎ムードだった。缶コーヒーを2本並べて、どうぞと席を勧める。もしかして、こうなることを予想して、なぐさめてくれるつもりなのだろうか?
だがその理由はすぐにわかった。あの土地に客がつきそうなのだ。
「新規ですか?」
「ええ、ネットから問い合わせが来たうちの1人で、あの土地、条件がピッタリみたいで、学区とか広さとか。そのお客さん、銀行ローンにも詳しいから、まだ電話で話しただけだけど、だいたいの場所も見当がついているようですし、今までの経験からは、あっという間に決まるパターンじゃないかなって、なんせ経験があるんで、それでですね……」
飯岡は続けざまにしゃべり続ける。自分もこんなに饒舌ならいいのになと、江井は思う。
「それで、佐藤さんはどうでした?江井さん、まさか怒らせてはいませんよね?」
怒らせたのは君じゃないかと、それは心でつぶやくだけにする。
「それが、佐藤さんは、もともと買うつもりはなかったようです」
飯岡は肩をすくめた。
「やっぱりね、そうだと思ってましたよ」
それも、君のミスリードじゃないかと、やはり心でつぶやくだけにする。それよりも重大なことがある。
「それだけじゃないんです、困ったことに、私道の所有権を主張していまして、何人たりとも通さないと」
眉間にしわを寄せながら、エースは座り直す。
「まったくこれだから素人ってのは、そういうバカなことを、まったく、それで江井さん、ちゃんと説明してくれました?」
「まぁ、その、説明はしましたが、ちょっと時間がかかると思います」
「そんな、何やってんですか?だって、困ったなぁ、そういうときはすぐにでも説得してきてくれないと、お客さんをご案内できないじゃないですか!」
「ででも、勘違いのパワーでもう、無敵なんです、聞く耳もないし」
「だけど待てませんよ、タイム・イズ・マネーでしょ?そうだ、それなら、佐藤さんがいない時に案内しましょう、江井さんが会社に呼び出して、そのすきに案内する、いいですか、これでいきましょう」
この前もそう思ったが、飯岡の発言に、江井は警戒心があった。無意識だろうが、客の利益を度外視することがある。
法規上、宅建士は、客の利益を考えて行動しなければならない。そのためには相手の話をよく聞いて、相手の立場で考えなければならない。そういう意味では、飯岡とは、実りある話し合いはできそうにもない。
しかし同時に、飯岡を非難する気にもなれなかった。営業成績をあげないことにはけっきょくは評価されない。そして(客の利益)と(営業成績)は、かなり、水と油の関係にある。
そこに宅建士の苦しい現実がある。
矛盾だと思う。法律では、客の利益を優先しろといっているが、しかし、その証拠を残せとはいわない。
どういうことかというと、問題が起きても、行政の責任にはならないようにしているだけとしか思えない。余白を持たせて、客の利益を優先するか、自分の利益を優先するか、その判断を宅建士に丸投げしている。
こちとら生活がかかっている。自分の利益を優先したところで責められる筋合いはない。そう開き直ることはできる。
しかし精神的にはとてもキツイ。
もっと矛盾だと思うのは、仲介業というのは、運がよいだけで(総取り)することもあるというのに、どんなに努力しても(0)だったりする、努力が報われにくい仕事だということだ。
業界の競争も過激である。よもすれば、飯岡が佐藤にさせたように、購入申込書に記入させるのが最初の目的になってしまう。
そして伝えるべきネガティブ要素は後回しにして、そのままズルズルといってしまう。そしてしまいには、バレなきゃいいとなっていく。
「江井さん?江井さんってばぁ、エロいことでも妄想してるんですか?」
飯岡がそういったのは、ちょうど独身の可愛い女子社員が入ってきたところだった。
たしかに江井の「だんまりタイム」には誰だって呆れるが、このタイミングでとは、飯岡の歪みがよくわかる。
「ち、ちがいますよ」
「でも、江井さん、むっつりスケベって評判ですよ」
いくらなんでも聞き捨てがたい。飯岡は、女子社員の前で、わざと江井にゆさぶりをかけている。
「そそそれは心外です」
遠慮がちなクスクス笑いがする。そこで飯岡は、真顔に戻った。
「江井さん、お願いです、協力してくださいよ」
このかけひき、ここで「うん」といえば、女子社員の前でメンツを取り戻せるとでもいいたいのか?
だが、そんな卑怯なことはできない。
「飯岡さん、も、申し訳ありませんが、1日だけ待ってください」
飯岡は不満そうに口をとがらせ、横を向いて聞こえるように(派遣のくせに)と小声で非難した。しかしそれ以上の策はないようで、そこであきらめた。
「わかりましたよ、まったく、こっちは仲介で、売主じゃないのにアホらしい」
佐藤の想い
翌日、江井は、朝いちばんで市役所を訪れるなど、精力的に活動していた。なにか良い方法がないか、それを模索するためだ。
役所調査とは、すぐに終わることもあれば、思いがけず時間を要することもある。順番待ちで待たされることもあるし、即答できない質問をして、調べてもらうのに時間がかかることもある。窓口をたらいまわしにされることもある。おおむね、面前の職員しだいで、その日の運命が決まる。
Y駅からバスで揺られていると、途中で天気が急変して、集中豪雨がバスをめがけて直撃してきた。なんという失態、傘がない。
バスの運転手の無感情な目線を背に、バスを降りて滝に入った。携帯だけは守ろうと、コンビニの小さなビニル袋に、駅前でもらったティッシュと一緒にいれてある。
今年はもう何回目だろうか、激しい雨がそのたび春の訪れを台無しにしてきた。まあいいか、まるでヘッドスパみたいじゃないかと、江井はひらきなおり、そして歩き始めた。
バス停から徒歩2分、佐藤の家に着いたときには、全身くまなく乾いている箇所はもうどこにもなかった。
私道の入口の真ん中に、この前はなかった朱色のパイロンが立っている。あの後、佐藤が置いたのだろう、これは先が思いやられる。
ノックする。なんども。江井は、しつこいのが取り柄だ、いないはずはない、そう信じて、なんども、なんども呼んだ。
ようやく中から音がして玄関の戸がすこし開いた。怒りをにじませながら外をのぞいた佐藤は、ずぶ濡れの江井に意表を突かれた。ちゃんと戸を開いて、同情が入り混じった目でこういった。
「なんだ、カッパかと思った」
「ハハハ」
力なく笑いながら、すかさず家の様子を観察する江井。
先日は、道路で話していたから、家の様子まではわからなかった。快適とはいえない生活だろうとは察していたが、どうやらその想像を超えている。
家の中から漂ってくる空気はカビ臭く、佐藤のうしろ、廊下にはバケツが置かれて、雨漏りの水が跳ねている。
この人こそここを売って、環境の良いところへ引っ越すべきだと、そう強く思う。
「で、あんた、用はなんだ?」
「あの、えーっと…そうだ、おとなりの犬井さんとは、連絡はとれるでしょうか?」
佐藤は小首を傾げて考えた。
「いやぁ、外国へ行っちまったから、もうわからないよ」
「そうですか」
「なんだか知らないけど、となりに頼んだってダメだぞ、俺はぜったいに許さないからな」
佐藤はそういって腕を組み、仁王立ちになっている。歳には似合わないかなりの筋肉質だ。これだけ濡れていたら、もう、チビッたところでどうってことないが、しかし、暴力を誘導するようなことをしたら大変だ。
「でも、その…」
江井は、軒下から少しずつ下がり、土砂降りに身をあずける。
「まだしつこく道路がどうとかいう気か?」
「だけど、だけど、それじゃあ、ななにもよくなりませんし、ぜったいにささ佐藤さんのためにもなりません」
佐藤はむごんだった。雨の音ばかりが聞こえてくる。江井の言葉は、届いたのだろうか?土砂降りに表情がはっきりしない。
「もっと前に来いよ」
「すすすみません、すすすすみません」
「なにも土砂降りの中に立つことはあるまい、まあ、そんなに濡れてちゃもうどっちでも同じだろうが」
さっきからちょっと変だとは思っていたが、どうもこの前のような元気がない。
「あの、何かあったのでしょうか?」
「あんたにこんなこと言ってもしかたないけど、息子があいさつに来たんだ、売ることになったからって」
「ああ、亀山さんの息子さんですね」
「ほんとうに立派になってなぁ、ほめてやりたかったけど、追い返すしかなくてね、なんていうか、こんなに小さい時から知ってるからさ」
大きなため息をついて、肩を落とす。
そんな佐藤をみながら、江井は、ばくぜんと思い出していた。このやるせなさ、あの大金持ちの大矢さんと同じ孤独のオーラを感じる。この人は寂しいだけなのかもしれない。
「俺なんざ、ずっとここだし、べつにいいんだ、でも悦ちゃんはさ、そうはいかないよ、だれも知らないところでさ……」
「えっちゃん?」
「亀山悦子、その息子の母親だよ、奥の家の」
「ああ、売主さんのことですね、悦ちゃんさんって呼ばれているのですね」
ふんふんとうなずいてから、佐藤はつづけた。
「悦ちゃん、梯子から落ちて骨折しちゃったから、それで息子のところと、ホームを行ったり来たりするってさ」
「梯子から落ちた?」
「ああ、庭のプラムを採っていたんだよ、よくばってカゴをいっぱいにしてさ、それでバランスをくずしたんだ」
「そうだったんですね」
高齢者にありがちな、歩行中の転倒による骨折などと、思い込んでいたことを恥じる。
「たったそれだけのことで、無能あつかいされてさ、趣味もあきらめてさ、気の毒に、まったく、下手に子供がいるからこうなるんだよ、悦ちゃんの家なのに、売れとかってさ」
江井はそこで(はてな)となった。
「つまり、亀山悦子さんは、ここへお戻りになりたいのですか?」
「あたりまえだろう、庭いじりとか好きだし、手作りの梅干しとか、梅酒とか、ジャムとかの瓶詰もいっぱいあるしな、刺繡とか、パッチワークっていうの?そういうのも処分するしかないって」
「あの素晴らしく落ち着くアイテムは、ぜんぶ手作りでしたか、すごいコレクションですね、ほんとうにきれいでした」
「ああ、そうさ、すごいんだ、その悦ちゃんから電話がきたんだよ、もうあきらめた方がいいかなって、だから俺は、ぜったいに売らせないって、そう約束したんだ」
不動産の仕事をしてきてわかったのは、人というのは、肝心なことこそすぐには言えないことだ。初対面からいきなり、個人の事情など打明けられないのはあたりまえだろうが、それ以上に、無意識で隠しごとをしているものなのだ。
不動産とは、だれの目にもはっきりと映る、この上なく明らかな存在なのに、その内側に秘められた事情については、なんとも複雑で見えにくい。
もっとも江井は、この仕事のそういうところが好きだった。終わってみるまで結果がわからない、推理小説のような面白さがある。人も不動産も千差万別、この仕事は、まったく先が読めないドキュメンタリー、そして宅建士の対応次第で、秀作になることもあれば、駄作になることもある。
「あんた、そうやってよく黙り込むけど、妄想癖でもあるのか?それとも何かの病気なのか?」
「あ、いえ、すみません、つまり佐藤さんは、亀山悦子さんとは親しい間柄なのですね」
どうやらまた口を滑らせたらしい、やってしまった、佐藤が凍てついている。考えに集中しているといつもこうだ、と怯んだが、まさかとは思うが、佐藤の顔が赤くなった。
「え、いや、ちがう、ちがうって、ただの竹馬の友ってやつだよ」
この過剰反応、もしかして?
江井は悟った。自分はまだなにもわかっちゃいない。
ここは粘って、佐藤にとってのベストアンサーをみつけよう。
「あの、私、最善策を練りますから、かならず、いえ、その、ご納得できるように努力しますから、ですから、それで今日は急いでもろもろ確認してきますので、また来ます、だから、それまで待っていてください」
佐藤は、一瞬、キツネにつままれたという顔つきになった。しかしすぐまた、敵対心が浮かんできた。
「うまいこといって、まただますつもりだな、不動産屋は信用できない、もう二度と来るな!!!」
そして、戸をガタガタゆっくり閉めた。
悦ちゃんの想い
いつの間にか雨はやんで、強い光が下りてきてバス通りを照らしていた。
悦ちゃんさんに会わなければならない、そう考えて、江井はアポをとるためいくつか電話をかけた。
ホームのお試しステイ中とのことで、携帯で『ハイビスカス・ビレッジ』の位置を確認すると、ここから東に2キロほどのところだった。
バスでも行けるが、江井はびしょ濡れ、きっとバスの床を水たまりにして、迷惑をかけてしまう。
徒歩で30分なら歩くかと、東を向くと、くっきりと青い空に大きな虹がかかっていた。これは幸先が良い、江井は虹へ向かって進んだ。とにかくできることはすべてやろう。
『ハイビスカス・ビレッジ』は、見晴らしの良い小高い丘の上にある、そこそこ大型のホームで、色彩や形のデザインが素敵な高級感のある建物だった。
受付で、亀山悦子の呼び出しを頼んだ。施設内の壁や床は柔らかな色で心地よく、清潔感がある。
服はまだ濡れていた。外のベンチのあたりで待っていると、受付に告げて外へ出る。
悦ちゃんは、光沢のあるカーディガンを、左腕のギブスを隠すようにはおって、ゆったりしたパンツ姿で現れた。白髪だが艶のある髪を後ろで丸めている。
「今日は、飯岡さんはいらっしゃらないのかしら?」
挨拶するとすぐそう聞かれた。イケメンでなくて申し訳ございませんと、心で謝罪をする。
「はい、今日は別件できました」
「あら?あなた、そんなに濡れて、急な雨に降られたのね」
「すみません、こんな格好で」
なんども断わったが、悦ちゃんは、タオルを取りに、いったん、いなくなった。品が良くて、気遣いもある。こういう高級感のあるホームがよく似合う婦人だと思う。
そうだとしても、まだまだ足取りも軽やかで、ホーム暮らしは若すぎる。
「ごめんなさいね、あんまりきれいじゃないかも」
そういいながら、大判のバスタオルを渡してくれる。
「とんでもない、助かります、いやもう、こんなにびしょ濡れになったのは海水浴以来です」
「まあ、アハハハハ」
下手なジョークに、こんなにも笑ってくれる悦ちゃんは、他人を緊張させるような人ではなかった。初対面だというのに、いつもみたいに口がモゴモゴならなくて、珍しくスムーズに動く。
悦ちゃんがベンチに腰掛けるのを待って、江井は本題に入った。
「先日、ご自宅を、拝見させていただきました。状態が良いのでもったいないですね、外壁の手入れもわりと最近されていますよね」
「ええ、2年前に亡くなった夫の、最後の仕事になりました。大工なんですけど、家のことならぜんぶひとりでやってしまう、そういう人だったんですよ、あの人、死ぬまで職人でしたから」
「ああ、それで、あんなに状態が良いのですね」
「本当に、住むぶんには十分で、でも、もう古いから家として売るのは難しいと聞きました」
「はい、不可能ではありませんが、難しいです」
「やっぱり、そうなのね」
残念そうに下を向く。
「それで、あの…」
悦ちゃんは、江井をじっと見ている。
「…今日は、佐藤さんから、亀山さんがご自宅へ戻りたいとおっしゃっていると聞きまして」
「やだ、和夫ちゃんたらそんなこと……」
「あの、佐藤様にお電話されたのですか?」
悦ちゃんは、苦笑いをしてから、話しをはじめた。
「ええ、庭のことが心配になって、和夫ちゃんに水やりをしてもらおうと思って、可笑しいでしょ、売るって言ったのにね」
「そうでしたか」
「そのとき、いままでの生活をすべて放棄するなんて、バカなことをしたって、愚痴ってしまったの」
婦人は、そこで小さなため息をついた。
「そうでしたか……あの、売ると決めたのは、どうしてですか?」
「このとおり骨折してしまって、それで、あのときは私も気弱になっていたの、それに息子もすごく心配してくれて」
「そうですよね、わかります、そういうときに限って、ご家族のためをいちばんに考えてしまいますよね」
悦ちゃんは小さくうなずいて、そしてためらいながら、こう聞いた。
「でも、売りたくないっていっても、もう、どうにもなりませんよね?」
ちょっと口ごもる江井。
「いいえ、解約は可能です。専属専任という契約なので、違約金はありますが、そこまでの金額にはならないと思います」
「そうなの?」
悦ちゃんは、嬉しそうに声をはずませた。
複雑だった。これで、この媒介契約が解約になったら、飯岡に避難されること間違いなしだ。あの性格だし、一生、恨まれるかもしれない。
江井は祈った。
そしてここまでは叶った。
「でも、息子が反対するでしょうし……ここのホームの費用を立て替えてもらっているの、それと、ちょっと事情もあってね、お金がいるみたいで、だからいまさらもう、それはできないのよ」
ホッとしそうになった江井は、悦ちゃんの不運に気付いて、ギリギリ留めた。お金の問題、そういうことか、気の毒に……
と、そのとき、江井にアイデアが浮かんだ。
「これだ!」
驚いている悦ちゃんに、江井は意気揚々と話し始めた。
「あの、悦ちゃんさんは、あの家に、誰かに住んでもらいたいと思いますか?」
「どういう意味?」
「その、けっしてもっと高く売れるとか、そういうことではないのですが、その、解体するよりは、あの家を残したいでしょうか?」
「そうね、それはそうだと思う、誰かが、大切に使ってくれたらいいわね」
「それならいかがでしょう?佐藤様に買ってもらいませんか?」
「え?」
突拍子もない江井の言葉に、悦ちゃんは、動揺したようだ。
これはしまった、思い付きのアイデアを口にしてしまった。江井は懸命に説明した。説明はつたなかったが、それでも悦ちゃんは、ふんふんと聞いてくれた。
そして話し終わると、目を輝かせて「すごく面白そう」と、目を合わせて大きくうなずいた。
「そうね、和夫ちゃんの家は、ウチよりも10年は古いし、夫が、あの家はもう手の施しようがないって、そう言っていたくらいだから、和夫ちゃんこそ、そろそろ引っ越すべきかもしれませんね」
「では、ご協力いただけますか?」
期待したが、そこまでかんたんではなかった。「でも、それはウチじゃなくても」といったきり、黙り込んでしまった。
「その、佐藤様は、お庭の水やりもやってくれますし」
「それは、そうかもしれませんね」
「それから、佐藤様は、悦ちゃんさんの瓶詰やその他のお品がもったいないって嘆いていらっしゃったのです。だから、きっと大切に保管してくれると思います」
「そうなの?」
頬をあげて、嬉しそうに目を輝かせる、初老の女性。
「あの、どうでしょうか?」
それでも悦ちゃんは首を横にふった。そして居心地が悪そうにこう答えた。
「だって、和夫ちゃんに、家の中ぜんぶ見られちゃうってことでしょ、それなんだか恥ずかしいわ」
「そ、そこですか」
「そこっていうけど、そこが大事でしょう?」
そう聞いてもわからない。江井は、女性の心理がいまひとつ苦手だ。
しつこいのが取り柄の江井は、面会時間ギリギリまで粘った。それでどうにか、佐藤がそうしたいというなら考えると言ってもらえた。
とにかくこれで、大切な一歩を踏み出せた。
それともう1つ、確実な進歩があった。
真ん中の家の持ち主、犬井は、アメリカ在住とのことで、それで自宅を放置している。それを気にしているようだと、犬井のメールアドレスを教えてくれたのだ。
江井の願い
「佐藤さん、買いましょう、悦ちゃんさんの家、それであそこに住むんです、これも何かの縁です」
「だから金がないって」
「売ればいいんです、ここを」
「こんな家、売れるわけないだろう、悦ちゃんの家ならともかく」
「お金の問題ならご心配なく、こちらは敷地が広いのでその分、差額がでます、楽勝です」
「金の問題じゃない、ここは親父の家だ、だから売るもんかバカヤロー!」
「お気持ちはわかりますが、すべて佐藤様のためなんです」
「俺はなぁ、不動産屋は信用していないんだよ!」
ハッと目が覚める。
佐藤にどう説明すればいいか、シミュレーションしていたら、いつの間にか眠っていた。
手探りで携帯をさがしてチェックすると、さっそく犬井から返信が入っていた。了承とある。
昨夜、亀山さんのところが売りに出たことの報告がてら、メールを送ったのだ。このまえ撮影した写真やその他資料を添付して、もしよければ犬井さんも、売却しませんかと質問した。
捨てる神あれば、拾う神あり、こんな風にかんたんに進むこともある。
しかし、佐藤のほうはそうはいかないだろう。どう説得すればいいのか、まるでわからない。なんせあの偏屈、怒らせてしまうと、意地でも断るにちがいない。
悩んでいる猶予はなかった。このアイデアを実現するためには、なるべく急ぐ必要がある。ここは先に飯岡を、こっちの計画に巻き込んでおくべきかもしれない。
ただし、これには勝算があった。なぜなら、今のままなら1,800万円の取引が、うまくいけば6,000万円の取引に化けるからだ。
折半でやっても、それぞれ3,000万円の営業売上げになる。飯岡が、これに飛びつかないはずはない。
デスクにいる飯岡をみつけて、この前の新規の客はどうと聞くと、奥歯をかみしめた。
「まぁ、エリアは気に入ったみたいですけど、いちいち細かいことを聞いてくる客で、けっきょく申し込みもまだです」
事務で確認してきたから、まだ申込が入っていないことは知っていた。しかしそれ以上に、難航しているようだ。
「佐藤さんのことは言いました?」
「言ってないですよ、もちろん」
飯岡は、悪びれるでもなく、手を後ろに伸びをする。
「ではどうして?」
「となりのツタだらけの家は、空き家じゃないのかとか、どうのこうのって」
「犬井さんのお宅ですね」
「犬井っていうんです?近々、解体される予定ですって説明したんですけどね」
「え?」
「いや、どうせ、買うほうだって家を建てるのに1年はかかるだろうし、そのうちどうにかなるかなと思ったら、それを書面で出してくれって」
それは見識のある人だと、正直、江井は内心でそう思った。
エースの愚痴は続いている。
「……すぐ決まると思ったんだけどなぁ…細かいことが気になって、優柔不断で面倒な客でしたよ、それで、そっちはどうなんです?」
急にふられた江井は、含み笑いがバレないよう、真顔になろうと変顔になった。そこをさっそくイジりにくる飯岡。
「江井さん、また変なもの食べて、腹を壊しましたか?」
何という云いがかり。こういうときに限って、飯岡の声はでかくなる。周囲を巻き込んで、嘲笑をさそう。
「えっと、佐藤さんのことも含めて、ぜんぶ解決できるかもしれない、って聞いたらどうします?」
さっきの仕返しというように、江井はもったいをつけた。
「なにか案でもあるんですか?」
どうせ大したことないんでしょうとばかりに、飯岡は、ふんぞり返ったままだ。
でも、こんどこそ、こんどこそ、驚くぞ。ワクワクしながら、江井は、核心に触れた。
「じつはですね、犬井さんと連絡がとれまして、亀山さんと同じ、1,800万円で売ってほしいと、お返事をもらっています」
「なんですって!?」
「海外在住なんですよ、それでどうしようかとお悩みだったそうです。亀山さんのところが売りに出たとお話しましたら、まさに渡りに舟ということで、敷地面積がほぼ同じなので、同じ価格ならけっこうですと、あっさり決まりまして」
PDFで返送されてきた『媒介契約書』を見せると、飯岡はそれをひったくろうと限界まで前のめりになった。
「そうか、こちらも45坪ちょっとなんだね、でも、海外って?」
「ええ、ちょうど一時帰国する予定とかで、そこも、かなり面倒が省けそうです」
「本当ですか?それはすごい」
ワントーン高い声に、江井は、思わず苦笑した。走馬灯のように変化する感情をものともせずに、飯岡は、変わり身の早さで、難なくその場を作っていく。そういう才能が羨ましい。
「そ、それでですね、亀山さんのところは、佐藤さんに買ってもらおうかなと思いまして」
「はぁ?だって、買う気ないんでしょ?だいたい金はあるんです?」
「で、ですから、売ればいいんですよ、佐藤さんの家は、公道に面した角地ですから、坪単価が高くなります。それに敷地面積も54坪強ありますから、えっと、売値は……」
「そうですね、まあ、ざっと2,400万円ですかね」
「はい、税金や手数料の経費引いても、まだかなり手元に残る計算になりますから、佐藤さんにとっても悪い話じゃないはずです、それにこちらにもメリットがありますし」
飯岡は、ひらめいたとばかりに顔を輝かせた。
「つまり、佐藤と犬井の敷地をまとめれば100坪、そうなれば3軒建てられる、人気の住宅地だから、どこの業者も土地を探しているし、相場なら即決、そうですね?」
「そうです!」
このアイデアのよいところのひとつがこれだった。
建築許可を取るためには、さまざまな法規をクリアしなければならない。
敷地面積にも規制がかかることがあり、これは場所によって異なるのだが、あのあたりは30坪余り(100㎡)ないと家が建てられない。
つまり、60坪を超えてくると、2つに割って家を2軒建てることが可能なのだが、佐藤の敷地は約54坪余りと、ちょっと足らない。そして犬井の敷地は約46坪余りで、やっぱり分割はできない。
ところがこの2つを合わせれば、合計で100坪を少し超える。それでギリギリ3軒建てられる計算になるのだった。
つまり今よりも、1.5倍の価値が生まれるわけで、それが業者にとってのメリットになる。
飯岡は、ニンマリしながら、電卓で手数料の計算をしている。
「つまり、亀山、犬井、佐藤の3軒ぜんぶと取引できるってわけですよね、ぜんぶ合わせたら6,000万円か、ぜんぶ両手でいけそうだし、そうなると、ええっと、……約400万円か、なかなかいいじゃないですか」
このイケメンは、自分の欲望に忠実だ。
「よかったら、一緒にやりませんか?」
御年いくつになっても、江井は、こうして真正面から誘う。
もちろん、飯岡は反応しなかった。江井がリードという、このシチュエーションが嫌いなのだ。その代わり質問した。
「それで、佐藤さんからはもう、承諾の返事をもらっているのですね」
「あ、言い忘れていましたが、そそこは、まだはっきりとは決まっていないんですよ」
「やだなぁ、まさか妄想?じゃないですよね、ハハハ」
こんどは飯岡の仕返しだ。江井は、揺さぶりや、突っ込みに極端に弱い。それを楽しんでいる。
「じつはその、佐藤さんをどう説得すればいいか、迷っていまして、飯岡さんは、どう思います?」
「そんなのかんたんでしょ、佐藤さんのところ、2,400万円、これに対して、亀山さんのところは1,800万円、すべての経費を払ってもまだ、手元に300万円は残る計算じゃないですか、現金も入るんだから、だれだって飛びつきますよ」
エースは自信たっぷりでうなずいてみせた。江井もそれはじゅうじゅう承知だ。
「おっしゃるとおりです、でも、佐藤さんは応じるでしょうか?」
「まあ、もっと高く売れってなるかもね」
飯岡はすべてが金に直結する、だからニュアンスが伝わらない。
「いえ、その、佐藤さんには、私道についての勘違いもありますから、それもふくめて、どう説明するべきか迷っていまして、なんせ偏屈ですし」
それを聞いて飯岡は、他人事のように笑いながら、こういった。
「アハハハハ、たしかに、あの人は、偏屈だし、頑固だし、怒りっぽいし、面倒な人でしょうね」
「そうですね、でも佐藤さんは、やさしい人なんですよ、亀山さんを守りたくて、だから、あのような行動をとったのですし」
「えっ、なんですって?」
「亀山さん、ほんとうは売りたくないと、佐藤さんに相談したようです」
「そんな、それで、まさか媒介契約は?」
「はい、大丈夫です、やむを得ない事情があるようでして」
そのときのやりとりを説明すると、飯岡はホッとしてみせた。
「なんだ、ビックリさせないでくださいよ、それにしても、あの2人が電話で話していたなんて驚きましたよ」
「親の代からあそこに住んでいるので、幼馴染だそうです」
「なるほど、幼馴染か、なるほど、それで…」
飯岡はなにか言いかけて止めた。そして「!」というように立ち上がり、ちょっと急ぎの用があるので、何かあれば電話してくださいと慌てて言い残し、なかば走りながら出て行ってしまった。
ふと窓に目をやると、飯岡が携帯を耳に当てながら、タクシーに乗り込もうとしている。
タクシーで出かけるなんて、滅多にないことだ。自分がこんな話を始めたから、それで客との約束を忘れたのかなと、江井は、なんだか悪いことをしたような気になった。
しかし、もしも行先を告げる飯岡の声が聞こえたら、ぜったいにそんなことは思わなかった。いくら江井でも、さすがにこれは許せないはずだ。
エース飯岡の野心
飯岡は後部座席にドカッと座った。
「老人ホームの『ハイビスカス・ビレッジ』まで、なるべく急いでください」
行き先を告げると、ふたたび携帯を耳に当てた。
「すみません、社長。はい、Y駅のバス通りです。百合ヶ丘で100坪です、水面下の物件ですからくれぐれもご内密にお願いします……」
声が、あまりにも真剣だからだろう、運転手がバックミラー越しに、何事かと気にしている。
「ええ、書類はこれからですが、でも出たらすぐに決まるでしょうね、間違いありません、ええ、もちろん、社長のためなら死ぬ気で押さえておきます」
のんきに構えているから悪いんだ、飯岡はそう理由をつけて、江井を出し抜こうとしていた。
直感的に、この取引のキーパーソンが、亀山悦子だと見抜いていた。彼女さえ抱え込んでしまえば、こっちのものだ、とっさにそう判断して、すぐにでも亀山に会いに行こうと思い立った。
電話を切ると、こんどは『ハイビスカス・ビレッジ』に電話をして、アポをとる。
イケメンの魅力を武器に一気に丸め込んでしまうおうと、ワクワクしながら計画を練る。
亀山悦子に佐藤を説得してもらう。佐藤が了承したら、あとはスケジュールを立てて、すぐさま会社に報告する。
そもそもこの案件は自分の担当だった、だから、だれも何も疑わないだろう。ぜんぶ自分の成績にしてやる。
あらゆる事態に備えて、あれこれと頭を悩ませる。汗がにじんで動悸がして、タクシーの後部座席の上のお尻の辺りがモゾモゾしてきて、気持ち悪くてそわそわする。
まるで独り芝居でもしているように、独りごとを口にしながら、変な動きをしている飯岡を、何事かと、運転手がバックミラー越しに気にしている。
「今日は飯岡さんの順番なのね」
これが亀山の、さいしょのひとことだった。彼女にすれば、飯岡も、江井も、同じ会社の人という発想しかないようだ。
亀山悦子はさいしょから、ほとんどなにも理解できていない。心配など、杞憂でしかなかった。もしかすると、罪の意識がそうさせたのかもしれない……
「はい、この前は来られなくてすみません、江井になにか、失礼はございませんでしたか?」
「いいえ、ぜんぜん、でも、変わった人よねぇ……」
亀山悦子は、クスクスっと笑いながらそう答えた。そして、いつもなら饒舌の飯岡が、困った表情をしていることにもすぐに気付いた。
「どうしたの」
「亀山さん、このとおりお願いします、佐藤さんに連絡していただけませんか?」
単刀直入にそう頼むと、深々と頭を下げる飯岡。
「わたしが?」
「はい、すぐにでも佐藤さんに連絡して、ご意向をうかがっていただきたいのです……あの、佐藤さんのためにも、そうするべきだと思います、だから、どうか、お願いします」
土下座もしかねない勢いの青年に、とまどう亀山。
「ほんとうに、どうしたの?」
「じつは、私のお客さんから問い合わせがありまして、でも、できれば佐藤様に買っていただきたいのです、それが佐藤様のためでもありますから。でも、急がないと、手続きとかいろいろ面倒なのことがありますし」
「急いでいるのね…」
「はい、まずは、佐藤様のご意向だけでも聞いていただけないでしょうか?もしその気があるとおっしゃるなら、少しくらいは止めておくことは可能です」
自分の必死な姿に、亀山悦子は、心を打たれたようだ。楽勝じゃないか、飯岡は腹で笑った。
「だけど、ほんとうに和夫ちゃんのためになることなの?それをちゃんと説明してほしいわ」
「それはですね、佐藤様のところは土地が広いので、住み替えれば300万円ほど手残りがありますから」
「でも、どうしてウチなの?他のところだっていいはずよ」
老婦人のするどい突っ込みに、とつぜん、飯岡の身体に緊張が走る。亀の甲より年の功、他人の話を鵜呑みにするわけはあるまい。読みが浅かった。キャッシュのこと以外に何があるというのか?
「それはですね、その、佐藤さんのご自宅が、その」
言葉をまのびさせていたのは、次を続けられないからだったが、亀山は、じぶんのほうから補足してきた。
「そうねぇ、和夫ちゃんはあの土地を離れるのがいやでしょうからね」
「そうです、そうです、すぐ横なら、引越しも楽ですしね」
「あら、たしかにそうね、他にはなにか?」
亀山悦子は、じっと飯岡の眼をのぞいている。
「他にはですね、その、亀山さまのご自宅もまた、その、いろいろな、いろいろ」
「ええ、それは江井さんもおっしゃってくれたの、和夫ちゃんったら、瓶詰や、自己満足でしかない私の作品のことを心配してくれているって」
「ええ、そうです、そうです、それってすごく大切じゃないですか」
「でも、この前、江井さんに言ったとおり、お家の中をぜんぶ見られちゃうのは恥ずかしいし、それならいっそぜんぶ捨てちゃおうかしらってね」
「それなら、弊社には、気の利く女性スタッフも複数おりますので、お手伝いできると思います。ご要望がありましたらなんなりと、私のほうで指示を出してもかまいませんし、かならずご満足いただけるように努めてまいりますので」
飯岡のことばは、力強く頼もしかった。悦ちゃんは、ほほ笑むように目を閉じて口角を引き締めた。飯岡は、このテストにパスしたようだ。
悦ちゃんは、少し大きくうなずいた。
「わかりました。でもちょっと待ってくださいね、和夫ちゃんって、偏屈なところがあるし、それでどう言おうか考えるので」
「もちろんでございます」
飯岡は感じた。幸運の神様は、自分に下りてきたと。
伝説の宅建士A
江井が、次に佐藤に会ったのは、本人から電話で呼び出されたからだった。
私道のパイロンは消えていた。佐藤に限ってそんなはずはないが、お礼ではないかと期待せずにはいられずに、ドアを叩く。
佐藤は、江井と目があった瞬間、こういった。
「あんた、どうして売買契約に来なかった?どうせ、あんたが悦ちゃんに吹き込んだんだろう?俺が、悦ちゃんの頼みは断れないって、見抜きやがって」
すでに3つの売買契約は締結された。担当は飯岡、あまりにも見事な横取りに、江井は腹の底から笑うしかなかった。
「ふふ吹き込むなんて、ままさか、お願いにあがっただけです」
「まったく、俺が悦ちゃんのところに住むなんざ、あんたがいなければ、こんなことにはならなかった」
江井はペコリと頭を下げた。
「決心してくれて、ほんとうによかったです」
「いままでろくに掃除とかしたことないのに、悦ちゃんの家ってなると、そうもいかないじゃないか、ボランティアとかが教えに来るんだってよ、まったく迷惑な話だよ」
まったく、人ってのはどうしてそう愚痴ばかりなんですかね、心でそう思いながら、口では、うっかりわざと本音を漏らした。
「いっそ、プロポーズされたらどうです?」
「なんだって!?」
「100年の恋なんじゃないですか?」
顔面を赤くした佐藤は、すぐにでも怒りだしそうだった。しかし、江井の真剣な面持ち気づいたようだ。
「まだ70歳だ、バカ野郎」
「よかったですね、なによりも、悦ちゃんさんの、帰る場所が確保できましたから」
佐藤は小さくなんどもうなずいた。江井にはそれが「ありがとう」と聞こえた。
「佐藤さん、じつは私、その、飯岡の上司のふりをしましたが」
「そんなことは最初からわかってるよ」
「そ、そうでしたか、それで、派遣社員なので、今月いっぱいで別の会社へ行くことになりました」
「まさか、首になったんじゃあるまいな?」
「どうしてそうなるんですか、いいですか、ここだけの話……」
「なんだ、言ってみろ」
「じつは私、『伝説の宅建士A』と呼ばれている、大金持ちの宅建士なんです」
佐藤は、しばらくマジマジと江井を見ていたが、そのうち大声で笑いだした。息が苦しくなるほど笑っている。
「そんなに可笑しいですか?」
「ああ、なんだかわからないが、なんだか楽しかったよ、だからなんだか……」
佐藤はそこで、終わりまでは言えずに詰まった。
「きっと、悦ちゃんさんが手伝いに来てくれますって」
「最後まで余計なことを」
「それではお元気で」
「ああ、あんたも元気でな」
おわり
最後までお付き合いありがとうございました。
宅建士Aは、どうして伝説の宅建士Aになったのか、正体を隠して派遣としてはたらくのはなぜか、次は、そういうことを書きたいと思います。
Works Sited
“建築基準法施行規則の一部改正に係るパブリックコメントにお寄せ頂いた主なご意見の概要と国土交通省の考え方について”.国土交通省.
)
伊澤大輔.“QA【通行権】土地を購入したが、私道の所有者が通行を認めてくれない場合、どうしたらよいか?”.虎ノ門桜法律事務所.2021年2月4日
)
森 裕司. “老人ホームはいくらかかる?料金を種類ごとに比較”.LIFULL介護.2018年5月.https://kaigo.homes.co.jp/manual/facilities_comment/cost/,(参照2022-6-13)
酒井富士子. “老人ホームの費用が払えなくなった場合の対処法を教えます!”.LIFULL介護.2018年5月.
https://kaigo.homes.co.jp/manual/facilities_comment/cost/Difficult_payment/,
(参照2022-6-13)
参考文献
『宅地建物取引業務の知識』公益財団法人 不動産流通促進センター,2020
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